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八章:泡沫のセイレーン(前編)
第6話 マーメイド号の出航
しおりを挟むげほげほっ! サリアが体温計を見た。
「38度3分」
「お姉ちゃん、ちょっと待っててね」
メニーがあたしの手にカイロを持たせた。
「はい。どうぞ」
「……」
「サリア、他に出来ることある?」
「カイロを温めてくださった事だけでも大助かりです」
あたしはサリアに寄りかかり、大きく深呼吸した。
「テリーお嬢様、これから船に乗るんですよ。大丈夫ですか?」
「……へいき……」
全く平気じゃない。だって、38度3分よ? あり得ない熱だわ。あたし、平均温度は35度台なのよ。それなのに、38度3分よ? ああ、なんてこと。この一年、体調管理だけに気をつけていたのに。十二月にだって、わざわざ滝の下まで行って打たれたのに。『厄除け聖域巡りの旅』をして、どうにか風邪を引かないように願ったのに。
(結局、当日に風邪を引くなんて……)
あたしはもう神様なんて信じない。そうこうしている間にも、多くの人が集まる港に近付いていく。船を眺める人々。これから船に乗る人々。それを見送る人々。出稼ぎに行くために乗る人々。帰国するために乗る人々。金持ち、妊婦、子連れの家族、老夫婦、様々な人が悪魔の船に乗り込んでいく。
(ああ、見える……)
沈没するマーメイド号がそこにある。馬車が止まった途端、あたしは思わず吐き気を催した。
(うっ)
「あら、大変」
サリアが素早くあたしの口元に袋を当てた。体を力ませれば、薬を飲むために胃に入れたものが全部吐き出されてしまう。サリアがうなるあたしの背中を擦った。
「テリーお嬢様、やはり、お屋敷に戻られた方が……」
「これは命令よ!」
あたしは言いたくない命令を言った。
「あたしを……船に乗せるのよ!」
「サリア、お姉ちゃんね、すごくマーメイド号に乗るのを楽しみにしてたみたいで……」
メニーが溜め息を吐いた。
「とりあえず、部屋で休んでもらおうよ。……船酔いするかもしれないけど」
「立てますか?」
あたしの足に力が入らない。無理。
「ロイ!」
「はい!」
御者席から下りたロイが馬車のドアを開けて、あたしを見て目を丸くした。
「テリーお嬢様、お顔が真っ青ですよ!? 本当に行かれるのですか?」
「いくわよ……。なんかいも言わせないで……」
また同じ未来になるわけにはいかないのよ。破産するわけにはいかないのよ……!
「あたしを、船に……」
「ああ、テリーお嬢様! 動かないでください! 乗せますから! 私の背中に来てくださいな! フレッド、馬車の見張りを!」
「ああ! 任せろ!」
あたしはロイの背中に抱えられ、人混みの中、一直線にマーメイド号に運ばれていく。
(ああ、カウントダウンが始まるわ。これから沈む船に自ら乗りこむなんて、怖い。怖すぎる……!)
ぎゅっとロイの袖にしがみつくと、ロイがはっとした。テリーお嬢様が俺を頼ってくださってる! そうか。お嬢様、そこまでこの船に乗りたかったのか! ……そうだよなあ。思い返せば、昔はお船ごっこって言って、デヴィッドさんの背中に乗ってたもんなあ。懐かしいなあ。デヴィッドさん、見てますか。こんなにすごい船が出来上がったそうで。いやあ、あんたが生きてくれてたらな。
そんな時に、ロイが横から声をかけられた。
「おや、これは、ベックス家の使用人殿ではございませんか」
「ああ、どうも。ルワンダさん! 大きくて立派な船ですね!」
「おやおや、テリーお嬢様もご一緒で! ……あら? どうされました? お顔色がお悪いようで……」
あたしはこの船を設計した張本人、ルワンダを睨んだ。
「……たいほう……大砲は……ちゃんと入れたでしょうね……」
「ええ。きちんとございますよ。テリーお嬢様は、設計当時からこの船に愛を持ってくださっておりましたので、リクエストにはきちんと答えさせていただきました」
「せきたんは……」
「心配ございません! 何もかもが上々でございます! おや! これは失礼!」
ルワンダが人とぶつかったが、避けて周りを見回す。
「メニーお嬢様は?」
「後ろの方かと! 今はとにかく、テリーお嬢様を中に入れませんと!」
「ご体調がよろしくないようだ」
「ええ! なんでも、今朝になって突然風邪を引いてしまわれて!」
「まあ、なんてことだろう。どうぞ、お部屋でお休みください。ベックス家の皆様には、最高級のお部屋で過ごしていただきます。必要なものがございましたら、なんなりとクルーに伝えていただければ!」
「……あなた……のるの……?」
「もちろんでございます! 待ちに待った初出航日! わたくしもお共致します!」
「……しぬからやめておけば……?」
「え!? すみません! テリーお嬢様、今なんと!?」
「ルワンダさん!」
「おお! これはメニーお嬢様!」
ルワンダがメニーに振り返った。
「ご立派になられましたな!」
「ご無沙汰しております」
「社長が他界されて早六年。……きっと、今のメニーお嬢様を見たら、お喜びになることでしょう」
「ありがとうございます。……すみません。今は姉の事があるので、また後で」
「ええ! 船の旅を楽しんでくださいませ!」
「お姉ちゃん!」
船へ乗るための橋にロイが足をつけた。あたしの体が震えあがる。
(ひい!)
「大変だ。メニーお嬢様、テリーお嬢様が震えております」
「お姉ちゃん、寒い? カイロは?」
(これは寒さじゃないのよ! 恐怖なのよ!!)
ぶるぶるぶるぶる!
ロイが橋を渡り切り、船員達に言った。
「ベックス家の者だ。案内してくれ」
「ああ! これはこれは! ようこそ! 少々お待ちを。ダンガンさん!」
無線で連絡を受けたダンガン船長が走ってやってきた。
「初めまして。船長のダンガンと申します」
「アーメンガード様と長女のアメリアヌ様はもう時期来るかと思います。先に通していただきます」
「ええ。もちろんです。……誰か! ご案内を!」
「お待たせ致しました。担当をさせていただきます。わたくし、クレイズと申します。ご案内致します。さあ、どうぞ」
「きゃっ」
「ロイ、先に行ってて。メニーお嬢様は私が」
「ああ! わかった!」
「すごい。こんなに人がわんさかいるなんて……。きゃっ! ごめんなさい!」
「おい、双眼鏡を知らないか?」
「引継ぎは?」
「されてなくてだな」
「失礼!」
「デカイ船だな」
「見ろよ。金持ちだらけだぜ」
「はあ。人が多すぎて潰れてしまいそうだ」
「すみません、客室はどちらかしら」
「……マニュアルを失礼」
「二人とも、早くおいで。迷子になるわよ」
「おふねだわ!」
「おおきいわ!」
あたしの意識が朦朧とする中、船の中へ入っていく事だけは理解出来た。贅沢な赤い絨毯が敷かれた廊下。階段。少しだけ階段を上ると、エレベーター前に着いた。
「お嬢様方のお部屋は特等室、ロイヤルスイートクラスの一番良い部屋を用意しております。もちろん、一人一部屋でございます」
「いやあ、大きな船ですね。大きすぎて言葉が出ません」
「光栄でございます」
「テリーお嬢様、見えますか? すごいですね」
ロイ、黙って。あたしは具合悪いの。しばらくしてエレベーターが止まった。
「お足元にお気をつけて」
ロイがあたしを背中に抱えてクレイズについていく。そして、立ち止まる。ドアが開いた音が聞こえたと共に、ロイの息を呑む音が聞こえた。目を開けると、素晴らしく贅沢で豪華な部屋が用意されていた。……屋敷のあたしの部屋より広い。
「テリーお嬢様、お部屋に着きましたよ。いやあ、……すごいですね」
あたしはベッドに寝かせられる。わあ。何これ。柔らかい。吸い込まれる。あたしは身を委ねた。ああ、……いい。
寛ぎ始めると、ロイがあたしに身を屈めた。
「テリーお嬢様、私もこの部屋で一緒に寛ぎたいところですが、あとはサリア達に任せますね」
「ロイ……」
「良い旅を」
にこりと笑うロイに、あたしは涙目で呟いた。
「……げんきでね。ロイ……」
「やめてくださいよ。永遠の別れじゃあるまいし。トレイル様によろしくお伝えくださいな」
ロイがあたしから離れ、部屋から出て行こうとすると、メニーとぶつかった。
「わぷっ」
「おっと、失礼しました。メニーお嬢様」
「ふう。やっと追いついた。ロイ、お姉ちゃんをありがとう」
「とんでもないことでございます。いやあ、それにしても、すごい船ですね。たまげました。言葉が詰まってしまいます。さっきからすごいとしか言葉が出なくて。ははは。……私もこのまま優雅にカドリング島まで行きたいところですが、馬車を屋敷まで運ばないとギルエド様に叱られてしまうので、また今度にしますよ」
「うふふ」
そこでサリアも部屋に辿り着いた。ロイと顔を合わせる。
「ロイ」
「サリア、あとは頼んだよ」
「ええ、テリーお嬢様を運んでくれてありがとう」
「仕事とは言え羨ましいよ。こんな船でカドリング島に行けるなんて」
「あなたも今度ついて来るといいわ」
「ああ。ギルエド様に頼んでおくよ」
「テリーお嬢様は?」
「だいぶ弱ってる。頼むぞ」
「ええ」
ロイが部屋から出ていった。ああ、あんたはこの船から下りれるのね。羨ましいわ。あたしもこんな船、さっさと下りたい……。サリアとメニーが部屋に入り、きょろりと辺りを見回した。
「すごいお部屋。これが一人分?」
「テリーお嬢様、氷袋を乗せますよ」
(あー、もうだめー)
サリアが荷物を置いて氷袋の準備を始めると、クレイズがメニーに声をかけた。
「メニーお嬢様のお部屋はお隣りでございます。ご案内致しましょうか?」
「いえ、さっき、中を見たので」
「さようでございましたか」
「姉とも合流出来たので、もう大丈夫です。ありがとうございました」
「とんでもない事でございます。何かサポートが必要であれば、なんなりとお申しつけください」
「あ、そうだ。……あの、船のパンフレットはありますか?」
「ええ。お部屋にご用意しております。そちらにございますテーブルの上にも、この船について書かれたものがございますので、ぜひご覧ください」
「ありがとうございます」
「他にサポートが不要でございましたら、これにて失礼致しますが、その前に差しつかえなければ……お医者様をお呼び致しましょうか?」
「サリア」
メニーが振り返ると、サリアが首を横に振った。
「今朝、専門医に薬をいただいておりますので、大丈夫かと」
「かしこまりました。それでは、また何かございましたら呼び出し用の受話器がございます。そちらでお呼びください」
「わかりました」
「それでは失礼致します」
クレイズがドアを閉めた。メニーがパンフレットを手に取り、ソファーに座った。
――ようこそ。マーメイド号へ!
「すごい数の施設。サリア、船の中に公園があるんだって。レストランも一つだけじゃなくて、何十店舗もある。バイキング無料。ショッピングモールに、博物館に、美術館。コンサートまである。サロン、室内プール……はエリアによって分かれてて、……パーティー会場の数、多すぎない?」
「世界最大規模の船ですからね」
サリアが微笑み、用意していた氷袋をあたしの額に乗せた。ああ、しゃっこい! あたしの目が虚ろに開かれる。なんてことかしら。部屋が揺れてるわ。もう船が出たの!?
「……しゅっこう……したんかえ……?」
「まだですよ」
「え……? ……でも、……へやがすんげえ揺れてるべ……」
「海の上ですからね。しかし、すごい船ですね。揺れてるように感じません」
「お姉ちゃん、なにか飲む? 冷蔵庫に飲み物がいくつか入ってるの」
「……いらない……」
……あ。
「メニー、……ニクスがきてるの。あたしは、……はあ。……会いにいけないから、あたしのかわりにあいさつしてきて……」
「ああ、そういえばそうだったね。わかった。会えたらアリスちゃんにも伝えておく」
「げほっ! げほっ!」
「お姉ちゃん、無理しないで」
メニーがシーツの皺を伸ばした。
「……この様子じゃ、この後の挨拶会も無理そうだね」
「メニーお嬢様、そろそろお着替えを。お手伝いしますので」
「ううん。一人で着れるから」
「いけません。身だしなみは大事ですから」
「じゃあ、エマか、ユリーナ、マエリダ……そうだ。モニカに頼む」
「あの子は手が不器用ですから、私がいませんと」
「サリアったら過保護」
「そうですよ。私は過保護なんです。さ、ご準備を」
「はーい!」
メニーがクスクス笑い、サリアがあたしの頬に手を当てた。
「テリーお嬢様、すぐに戻ります。メニーお嬢様のお着替えを手伝って参りますので」
「……ん……」
「あなたのドレスが無駄にならないよう、祈ってます」
サリアが微笑み、あたしの手の甲にキスをしてから、あたしから離れた。メニーの背中を支え、廊下へ向かう。
「さあ、メニーお嬢様、行きましょう」
「お姉ちゃん、会場に行く前に一回顔出すね」
ドアが閉められた。急に広い部屋が静かになる。
(……寂しい)
あたしはGPSを取り出して、スイッチを押す。新機能で追加された、発信している電波を拾いあげるスイッチを押し、ラジオを流した。
『やあ! 朝からこんにちは! どうも! 皆さん、ご機嫌いかが? このラジオは東区域にあるマンチキンラジオ局から発信しているよ。お相手は僕、マークさ! どうぞよろしく! さてさて、みんな、新聞は読んだかな? テレビのニュースは見たか? 今日はなんて言っても、今話題沸騰中さ! その通り。豪華客船のマーメイド号の事さ! かー! いいね! 僕もぜひ乗ってみたかった! 贅沢で優雅な海の旅。ああ、痺れるね! そこの奥さん、そうさ、あなたさ。良かったら僕と一緒に行かない? え? 夫に怒られるって? そいつはいけない。夫婦仲は良くなくっちゃ!』
あたしはGPSを枕元に置き、瞼を閉じた。
『そういえば、みんなはこんな伝説を知ってるかい? 南の海には人魚の国があるらしい。そこには沢山の人魚が暮らしてる。中でも美しいのは、人魚のお姫様。人魚ってのは、とても純粋で、みんな正直者らしい。そんな国のお姫様の人魚姫は、ある日、海で溺れていた人間の男を助けた際に、彼に恋をしてしまうのさ。そうさ。魚と人間の恋。ロマンチックだろう? だけど、この話はロマンチックだけでは終わらない。人魚姫はもちろん、彼を助けた後は彼に関わらないつもりだった。だけどね、ああ、女の子って、どうしても気持ちで動いてしまう生き物だからさ、一度興味を持ってしまうと、好奇心から男に近付こうとしてしまうのさ。それが、駄目な事であればなおさら燃え上がる。だって、いけない事をするのって、みんな楽しいだろう? お姫様は初めての恋に燃えてしまったんだ。どうにかして、彼に近付きたいと思ったお姫様は、海の魔女に頼んで、素敵な声を対価に人間の足を手に入れ、彼に近付く事に成功した! ……おっと、話は終わりじゃない。今、この話を聞いた数多くのレディ達は思ったはずさ。そして結ばれてハッピーエンドでしょう? はいはい。わかったわかった。さて、ラジオを切りましょう。ちょっと、待ってくれよ。まだ消さないで。いいかい? 現実はそう甘くない。話の続きを喋ろう。その後、男と再会してわかった事さ。彼は国の王子様だったんだ。キッド様、もしくはリオン様。さて、どちらだろうね? 人魚姫は声を失っていたけど、王子様は声が出ない人魚姫に同情して、妹として側に置くようにしたんだ。日々を過ごしていくうちに、二人の間には甘い空気も流れた事だろう。だけど、そんな中だ。人魚姫の声にそっくりな声の持ち主が、王子の目の前に現れた。その声を聞いた途端、王子は思った。彼女こそ、僕を救ってくれた女性だと! いやあ、みんなご存知の通り、男って馬鹿だろう? そうさ。この王子様も馬鹿だったんだ。そして、女も何の事かわからなかったが、そこは王子様に合わせる事にしたんだ。だって、女もイケメンの王子様が大好きだったから。やがて、二人は結婚する事になった。哀れな人魚姫。王子様と会うために、声を対価に足を手に入れたのにこの結末。報われない恋を、可哀想だと思った人魚姫の仲間達が集まった。そして、鋭いナイフを人魚姫に見せてこう言った。あのクソ男の尻を、このナイフでぶっ刺してやんなさい! ってね! ははは! いやいや、そうなのさ。人魚姫はみんなに愛されていたんだ。だから、みんな人魚姫を救うためにナイフを差し出したのさ。というのも、人魚姫は恋を実らすために魔女と契約をした。その願いが叶わないと、人魚姫は泡となって消えてしまうんだ。それだけは阻止したいと、仲間達が集まってくれたのさ。良い仲間達だろう? そんな仲間達の心情を汲み取って、人魚姫はナイフを受け取った。時間はない。朝日が昇るまでに、人魚姫は王子様を殺さなければいけない。けれど、……それは出来なかった。なぜなら、言った通りさ。人魚ってのは、純粋で、正直者。人魚姫は、自分の命よりも自分の心に正直でいた。王子様が好き。それは、誰にも邪魔できない唯一の真実。そして、朝日が昇り、みんなに愛されていたお姫様は泡となって消えていった。……さあ、結婚式当日、どうなったと思う? 実は、結婚式は血の海になった。なぜか? 人魚達が人間に恨みを持ったんだ。足はないけどヒレがある。唇はないけど鋭利な歯がある。人魚は海に住む魚さ。魚全員が人間を襲った。王子様は結婚式の日に、人魚姫の仲間達に食い殺された。魚に襲われた国は滅び、海へと沈んでいった。まるで呪いのように。一つの恋で人間の国が滅ぶ。ああ、不気味で恐ろしい話。それ以降、こんな言い伝えが残された。南の海には呪いの国に住んでいる人魚達がいる。くれぐれも人魚に食われないように気をつけろ。……というのを忠告したところで、本日のミュージックに行こう! 本日のミュージックは、こちらも伝説の歌姫さ! イザベラによる、マーメイド・ブルーライト」
美しい歌声が流れてくる。あたしの頭はぼんやりとしている。
(……なんかこの声、聴いた事あるわね)
イザベラ。
(……うわ、待って。イザベラの歌じゃない? これ)
あー。そうだった、そうだった。
(あの女が歌手として活躍してたのって、この時期だったかも……)
すごかったわね。一気にスターになって上り詰めたあの女。歌声だけは良かったのよ。
イザベラ・ウォーター・フィッシュ。
(工場で、あたし達を虐めてくれた主犯)
犯罪者に落ちぶれた黒人女歌手。
(うわ、嫌な女を思い出した。最悪。切ろう)
あたしはラジオを消した。
(どうせ出航したら電波も届かなくなるわ。はあ、暇ね……。耳が寂しい……)
こういう時、クレアがいてくれたらまた違うと思う。ああ、クレアの声が恋しいわ。耳元で、あの低い魅力的な声で、ダーリンって囁いてほしい。
(はあ……。……クレア……)
あたしの瞼が重くなっていく。ゆっくりと目を閉じると、部屋に放送が流れた気がした。
『皆様、マーメイド号にお越しいただき、誠にありがとうございます。これより、マーメイド号が出航致します。少々揺れますので、手擦りにお掴まりの上、お怪我がないようお気をつけください。まもなく、出航致します』
しばらくして、今までに感じた事のない揺れを感じた。船が動いたのだ。地上から人々が手を振る。船から人々が手を振る。ロイとフレッドが馬車に乗りながら動いていく船を見て、思わず声を出した。ひゅー! すげー! すごいすごい。動いたわ! 船が動いたぞ。ああ、これで外国まで旅行が出来る。何年ぶりの帰国だろう。うふふ! カドリング島が楽しみだわ。さあ、部屋で荷物の整理をしよう。ねえ、お母さん、あれすごいわ。見て。施設が沢山ある。きっと楽しい旅になる事でしょうね!
「……」
――しばらくして、誰かがドアを開けた。
「お姉ちゃん、船が出たよ。気分は……」
あたしはもう眠っている。
「……寝ちゃったか」
とことこと歩いてきて、美しい青い瞳があたしを見下ろす。そして、ゆっくりと、美しい手が下りてきて、――あたしの頬を撫でた。
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