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五章:おかしの国のハイ・ジャック(後編)

第21話 この想いはまるで狂気

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 アリスがとことこ歩いていってしまう。



「アリス」

 あたしは声を出す。アリスは聞こえていないのか、歩いて行ってしまう。

「アリス」

 あたしは追いかける。アリスは聞こえていないのか、どんどん先へ行ってしまう。

「アリス」

 あたしは追いかける。アリスは聞こえていないのか、その先へ行ってしまう。

「アリス」

 見覚えのある噴水に辿り着いた。
 花が咲き、秋風で揺れ、噴水の水が静かに流れている。

 去年、キッドに連れられた城の庭。

「……」

 あたしは周りを見る。

「あ」

 アリスが庭の奥へ歩いていく。

「アリス!」

 あたしは大きな声でアリスを呼ぶ。アリスは聞こえていないのか、止まらない。

「アリス、待って」

 あたしはアリスを追いかける。花が壁になる道に入る。奥まで進み、周りを見回す。アリスのドレスが目に入った。

「アリス!」

 あたしは走って、道の奥まで行き、周りを見回す。アリスのドレスがちらっと見えた。

「アリス!」

 あたしは追いかける。花で覆われた一本道を走る。

(迷子になりそう)

 赤い薔薇が咲いている。

(ここどこ)

 白い薔薇が咲いている。

(何ここ)

 テリーの花が咲いている。

(アリス?)

 小人の置物が置かれている。

(アリス?)

 兎の置物が置かれている。

(アリス)

 猫の置物が置かれている。

(アリーチェ)



 道を抜けた。



 一本の長いアーチが現れる。青い薔薇がアーチを巻き、延々と、奥まで続く。

「……」

 あたしはそっと歩き出す。

「アリス」

 あたしは一歩踏み込む。

「アリス」

 アーチの中を歩く。

「アリス?」

 青い薔薇があたしを囲む。

「アリス」

 アーチには、青い薔薇しかない。

「アリス?」

 アーチが続く。とても距離が長い。

「ねえ、アリス」

 あたしはアーチの下を歩く。出口はまだ奥だ。

「アリス!」

 青い薔薇が咲き乱れる。

「アリスー?」

 青い薔薇が揺れる。

「アリス!」

 アーチは続く。

「アリス、どこ?」

 青い薔薇のアーチを潜り抜けた。風が吹く。

(ん?)

 風の先に見えたのは、高い塔。

(……何、ここ?)

 木々に囲まれた、花の壁に囲まれた、城の壁に囲まれた、孤独な、寂れた、とてもとても高い塔。あたしは見たことのない形の建物を前に、立ち止まる。

(……変な建物……)

 がさ、と音が聞こえた。

「ん」

 あたしは音の聞こえた方に振り向く。

「……アリス?」

 あたしは一歩、踏み込む。

「アリス、いるの?」

 あたしは歩き出す。

「アリス?」

 あたしは音の方へ近づく。

「ねえ、アリスなの?」

 あたしは近づく。

「アリス」

 あたしは覗き込んだ。

「アリス?」



 ふふ。




 少女の笑い声。
 あたしの後ろ。
 あたしは振り向く。
 その瞬間、上から厚い布が降ってきた。

「むが!」

 布に覆われ、あたしはもがく。

「ちょ、何よ! これ!」
「ふふ!」
「ちょっと! アリス! 悪戯が過ぎるわよ!」
「アリス? 誰のことだ? それは」
「はあ?」

 あたしは眉をひそめる。

「あんた、アリスじゃないの?」
「いかにも。あたくしはアリスじゃない」
「ちょっと、ふざけないでくれる? これをお取りよ!」
「ふふふふ!」

 少女が笑う。

「王様のマントを被れるなんて、幸せじゃないか」
「マント? これマントなの?」
「いかにも。それはマントだ」
「……」

 あたしは落ち着く。黙って、深呼吸して、冷静にマントからの出口を探す。もぞもぞと動く。マントから出ようとすると、マントを下に引っ張られる。

「むが!」
「ははははは!」
「このっ、誰よ! 離しなさいよ!」
「やーなこった!」

 少女がげらげら笑い出す。

「お前、小さいな。だからマントから出られないんだぞ」
「何よ! 誰よ! この手を離しなさい!」
「あはははは! もがいてるもがいてる! まるで死にかけのうじ虫のようだ! あはは! ははははははははは!!」
「やめ、やめっ……!」

 あたしの足が躓く。

「ぎゃあ!」
「わ」

 マントを押さえていた少女も躓く。あたしが草の上に倒れる。少女があたしの上に倒れる。マントがずれる。あたしの片目がマントから出た。あたしの片目が外の光景を見る。少女がむくりと起き上がった。あたしを見下ろした。青い目と、目が合う。
 雲から月が顔を覗かせた。その光が、少女を映し出した。

 銀と青の長い髪。
 透明な肌。
 ピンクの唇。
 長いまつ毛。
 整われた眉毛。
 高い鼻。
 美しい輪郭。
 深い闇の底に浮かぶ青い瞳。

 キッドじゃない。
 リオンじゃない。
 彼女は少女だ。

 美しい純白のドレスを着て、
 美しい青の混ざったドレスを着て、
 美しいネックレスを身に着け、
 美しいピアスを身に着け、
 まるで宝石。
 まるで、

 クリスタル。


 あたしが少女を見る。
 少女があたしを見る。
 月の光がスポットライトのように彼女を照らす。
 キッドに似ていて、
 リオンに似ていて、
 どちらでもない少女を、月の光が照らす。
 闇深き青い目と、あたしの目が合う。あたしは瞬きをした。少女も瞬きをして、

 ――にんまりと、微笑んだ。

「見たな?」

 あたしを見て、言った。

「お前、あたくしを見たな?」

 少女が微笑みながら、手を動かした。

「罪人だ」

 少女があたしに銃を向けた。

「見てはいけないのに」

 あたしの胸に、銃を構えた。

「あたくしを、見てしまったな?」

 クレアが、見たことのない、不気味な、いやらしい笑みを浮かべて、銃を空に向けて、撃った。

 ばきゅーん!

「っ」

 あたしの体が反射的に起き上がる。クレアを突き飛ばす。

「あ」

 クレアが突き飛ばされ、背中から転がる。あたしは抜けた腰を起こそうともがく。クレアがむくりと起き上がる。

「何をする」

 慌てて立ち上がり、青薔薇のアーチに向かって走る。

「鬼ごっこか?」

 ふらりと立ち上がったクレアが微笑む。

「いいな。面白い」

 クレアがあたしに銃を構えた。

「可愛い声で啼くといい」

 ばきゅーん!

 あたしの足元の土が跳ねた。

「っ」
「ふふ!」

 あたしは走る。よく分からないが、走らなければいけない気がした。ふらふらと走る。

「啼かないのか?」

 クレアが引き金を引く。

 ばきゅーん!

「っ!」

 あたしの足元の土が跳ねる。あたしは草の上に転ぶ。

「ふははっ!」

 クレアが笑う。あたしは起き上がり、急いで立ち上がり、ふらふらと逃げる。クレアが狙う。

 ばきゅーん!

「っ!」

 あたしはアーチに走る。

「ねえ、待って。ふふ。待って」

 あたしはアーチの中を走り出す。後ろからクレアの声が聞こえた。

「ねえ、待って。ふふ、ねえ、お前、誰? なぜここへ来た?」

 あたしはアーチの中を走る。後ろからクレアの足音が聞こえてくる。

「待ってよ。ねえ、遊ぼうよ。あたくしと。遊んでよ。ねえ、ねえってば」

 あたしはアーチをくぐる。花達が囲む道を走る。走ると、クレアが笑った。

「待て」

 ばきゅーん!

 あたしは走る。

「ねえ、どこ?」

 ばきゅーん!

 あたしは走る。

「くくっ。知ってるよ。お前、そこにいるんだろ?」

 ばきゅーん!

「っ」

 あたしは思わず立ち止まる。花に穴が空いている。

「命令だ。あたくしと遊べ」

 ばきゅーん!

 あたしは走る。

「部屋に案内しよう。きっと気に入るさ」

 ばきゅーん!

 あたしは走る。

「高い所は好きか? 窓から落ちたら駄目だぞ。死んでしまうからな」

 ばきゅーん!

 あたしは隠れる。

「どこだ? ロザリー? どこに隠れた?」

 あたしは走る。

「そこか」

 ばきゅーん!

「いっ!」
「ぃやったぁぁぁああああ!!! 命中!!!」

 あたしは口を押さえ、悲鳴を飲み込み、痛みを飲み込み、足を引きずって逃げていく。

「ふふ!」

 あたしは逃げる。

「ねえ、どこに行くの?」

 あたしは逃げる。

「今からお前の家は、あそこだぞ?」

 あたしは逃げる。

「あたくしと一緒に、あの塔に行くぞ」

 あたしは逃げる。

「あたくしのものだ」

 あたしは逃げる。

「あたくしと遊べ」

 あたしは逃げる。

「あたくしと一緒に来い」

 あたしは逃げる。

「ねぇ、遊ぼう」

 あたしは逃げる。

「お前はロザリーになるんだ」

 あたしは逃げる。

「あたくしのお人形だ」

 あたしは逃げる。

「あたくしと遊ぶんだ」

 あたしは逃げる。

「お人形ちゃん?」

 クレアが見回した。

「ロザリー?」

 クレアが瞬きした。

「あれ?」

 クレアが呟いた。

「どこ?」











 クレアの声が、聞こえなくなった。






















「……」

 あたしは噴水の前に戻ってきていた。

「……」

 へなへなと、噴水に座り込む。

「……」

 胸が、痛いほど脈を打っている。

(……)

 あたしは自分の足を見た。

「……」

 穴は空いてない。血も出ていない。……ただ、赤くなってるだけ。

(……何これ)

 当たった時はすごく痛かった。でも今はそんなに痛くない。

(ゴムが当たったみたい)

 じっと足を見つめる。

(最悪)

 眉をひそめる。

 クリスタルの瞳を思い出す。



 ――お人形ちゃん。



 冷たい声が、耳から離れない。



「あ、ここにいた!」


 ――っっっ!

 慌てて振り向く。すると、振り向いた先から、アリスとキッドが一緒に歩いてきた。思わず、声が漏れる。

「……え?」
「まあ! 素敵なお庭! キッド、すごいわね!」
「綺麗な庭だろ?」

 キッドが興奮気味のアリスに言いながらあたしに歩いてくる。呆然とするあたしを見下ろし、笑みを向けてくる。

「ご機嫌よう。レディ。素敵な夜だね」
「……」
「お前がリオンと楽しんでる間に、アリーチェをちょこっと借りてたよ」
「ニコラ、聞いて!」

 アリスがあたしの前にしゃがみこんだ。

「あのね! キッドのお部屋を見せてもらったの!」
「アリーチェが見たいって言うから」
「すっごく広かったのよ!!」
「レディに頼まれたら断れないだろ? それにお前の親友だし、俺の友達でもあるし」
「ごめんね、ニコラ! 勝手に離れたりして! でも、どうしてもキッドのお部屋、見たかったのよ!」
「アリーチェだけ特別だ」
「私だけだって!」
「どうだ! テリー、羨ましいだろ!」
「ニコラ、羨ましいでしょ!」
「でも駄目だよ。浮気したお前に俺の部屋は見せないからな! やーい! ばーか! ざまあみろ!」
「ニコラ、ごめんね! お言葉に甘えて、私だけ楽しませてもらったわ!」

 アリスが嬉しそうに話す。キッドが笑う。二人が肩を揺らして笑う。
 ――あたしは呆然と、黙るだけ。

「……ん」

 キッドがきょとんと、瞬きをする。

「テリー?」

 あたしはキッドを見る。その目を見る。闇に近い瞳。

(違う)

 あの瞳は、闇そのもの。

(あれは)

  狂  気  。

「水」

 あたしが掠れた声を出すと、アリスがぽかんとした。

「え?」
「……水が、飲みたい」
「お水?」

 アリスがきょろりと見回した。

「分かった。取ってくるわ!」
「いいよ。アリーチェはここにいて。俺が行くから」
「大丈夫よ。キッド。私、このドレスで歩き回りたいの! ふふ! 素敵なドレスでしょう!」

 キッドの言葉も聞かずに、アリスがドレスを持ち上げて、兎のように走っていく。あたしは呆然と黙る。キッドがアリスを見届け、あたしに顔を向けた。硬直するあたしにキッドが瞬きして、不思議そうな顔をしながら隣に座ってきた。

「テリー、本当にどうした? 顔色悪いぞ」
「……な」

 あたしは、言葉を吐く。

「何でもない」
「ん?」
「何でも、ない」
「……テリー?」
「……」

 あたしは黙る。黙って両手を握り、ぎゅっと握り、瞬きをして、静かに、呼吸を繰り返す。

「……」
「テリー?」

 言ってはいけない気がした。彼女のことを。
 見てはいけない気がした。あの場所を。
 あたしは知らない。何も見ていない。

 あたしは、何も知らない。

 ――ゴーン、と時計が鳴った。

「っ」

 見上げる。20時。

「……」

 あたし、どのくらいの時間、ここにいたのかしら。

(……)

 時間の感覚がない。

「……具合悪いのか?」

 キッドが顔を覗いてくる。あたしはゆっくりと頷く。

「……ん、……うん」
「そっか」
「……」
「ふーん」

 キッドが腕を広げる。

「おいで」

 キッドが優しく微笑む。あたしは何も言わない。

「……」

 黙って、そっと、キッドの腕の中に入る。キッドの肩に頭を乗せ、キッドのスーツを握る。あたしの体が未だに震えている。キッドがあたしの肩に手を回し、小さな声で訊いてくる。

「疲れた?」
「……ん」
「俺が見てないうちに、リオン以外と踊ってないだろうな」
「……」
「リトルルビィに会った?」
「……」
「ソフィアは?」
「……」
「罰が当たったんだよ」

 キッドがあたしに囁いた。

「リオンなんかと踊るから、気分が悪くなるんだ」
「………」
「俺と目が合ったのに、無視するから。リオンとのダンスなんて、断れば良かったのに」

 キッドがあたしの耳に言った。

「ざまぁーみろ」

 キッドが言う。

「罰だ」

 キッドが言った。

「俺の警告を無視した罰だ」

 キッドがあたしの頭を撫でた。

「もうやめてね」

 キッドがあたしの頭を、優しく撫でた。

「今後一切、お前と踊るのは俺だけ。俺だけしか相手にしちゃ駄目」

 キッドが微笑んだ。

「そしたら優しくしてあげる」

 キッドがあたしのなでなでと、優しく撫でる。

「はい、分かりましたか?」

 あたしは目を伏せ、キッドのスーツから手を離した。

「……もういい」
「ん?」

 あたしの頭がキッドの肩から離れる。

「もう大丈夫」
「テリー」

 キッドがあたしの腕を引っ張る。あたしは振りほどく。キッドがあたしの肩を抱いた。

「駄目」
「……もういい」
「テリー」
「……もうやだ……」

 あたしの声が、手が、体が震える。キッドがそれを見て黙った。

「……」

 あたしを見て、手を見て、そっと、あたしの手を握る。

「っ」

 あたしの体が強張る。キッドがそのまま、あたしを抱きしめた。

(あ)

 キッドの腕の中に、包まれる。

(……)

「なんで怖がってるの?」

 拗ねたような声が聞こえた。

「怖くないよ」

 キッドがあたしの背中を撫でた。

「何も怖くないよ」

 キッドがあたしを抱きしめる。

「もう怒ってないから、怖がらないで」

 キッドがあたしの頭を撫でる。

「しょうがない奴だな」

 キッドの額と、あたしの額がくっついた。

「分かった。これで仲直りね」

 ちゅ、と、唇を重ねられる。あたしの肩がびくっと揺れた。

「っ」
「よしよし」

 優しく頭をぽんぽんと撫でられ、あやされる。

「でもお前も悪いんだぞ? 分かってる?」
「……」
「ああ、分かったよ。お前のふわふわした行動はこれが初めてじゃない。俺は寛大な心で受け止めよう。ね、これで怖くないだろ」
「……」
「お願い。テリー。そんな顔しないで。アリスが泣いてしまうよ」
「……」
「……もう……」

 キッドがきつく、あたしを抱きしめた。

「またそんな顔する」

 あたしはキッドのスーツを握る。手が震える。体が震える。キッドにすがりつく。ぴったりとキッドを抱きしめる。深呼吸する。心臓がバクバク鳴っている。痛かった足に痛みはないが、ひりひりとした感じが残っている。
 恐怖を失くそうと、あたしはキッドにぴたりとくっつく。

 恐怖があたしを支配する。
 恐れがあたしを支配する。
 怖れがあたしを支配する。

 体が震える。キッドにしがみつく。ここは安全だから。ここにいたら、とりあえずは安全だ。相手がキッドでも、キッドはあたしを守ってくれるだろうから、そういう契約だから、あたしはしがみつく。必死にしがみつく。唾を飲みこむ。キッドのスーツをきつく握り締める。キッドは事情を何も訊かず、いつものように、くくっ、と笑う。

「テリー、そんなに握られたら、皺になるよ」

 嬉しそうな声で呟く。

「困った奴だな」

 キッドが微笑んで、優しくあたしを抱きしめる。

「ねえ、どうしたの? お前らしくないよ。……あ、分かった。居眠りして、悪夢でも見たんだろ」

 これが悪夢だったら、どれだけいいか。

「そうかそうか。悪夢を見たのか」

 あたしは死刑と同じくらいの恐怖を抱いた。

「テリー」

 あの瞳に。

「テリー?」

 あのクリスタルに。

「……よしよし、落ち着いて」

 大丈夫。

「大丈夫だよ。テリー」

 キッドが微笑む。

「もう俺、怒ってないから」

 キッドがあたしの頭を撫でる。

「傷つけたりしないよ」

 キッドがあたしを抱きしめる。

「俺はお前の騎士だ」

 キッドが微笑む。

「騎士はお姫様を守るものだ」

 キッドがあたしを大切に、腕の中に閉じ込める。

「大丈夫。どんな奴からも守るよ」

 キッドはあたしを守る。

「お前が俺を裏切らなければ、だけど」

 キッドが囁く。







「もう、怒らせないでね」









 キッドが、にっこりと、微笑み、あたしの背中を優しく撫でた。



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