上 下
229 / 592
五章:おかしの国のハイ・ジャック(後編)

第8話 10月22日(2)

しおりを挟む

 12時。噴水前。



 メニーが傘を差して歩いてきた。

「あ、お姉ちゃん!」

 傘をぎゅっと握り締め、温かそうな上着を着たメニーが走ってくる。あたしの前で立ち止まり、微笑んだ。

「今日はサガンさんのところでしょう?」
「ええ」
「お昼代、貰ってきたの」
「でかしたわ。メニー。行きましょう」

 目指すのは三月の兎喫茶。二人で足並み揃えて道を歩く。

「お姉ちゃん、あの後大丈夫だった?」
「土曜日のこと?」
「うん」
「平気」

 次の日の不機嫌キッドを見た後では、まだあのキッドは可愛い坊やだと思えた。

「あんたはちゃんと帰れた?」
「うん。リトルルビィとソフィアさんが送ってくれたから」
「そう。良かったわね」
「三連休ね、リトルルビィと久しぶりに遊べたの。それで、土曜日にね、リトルルビィがホームズの本読みたいって言うから、今日持ってきたんだ」
「あら、残念ね」
「ん?」
「休んでるのよ。リトルルビィ」

 メニーがきょとんと瞬きした。

「ん……。そうなの?」
「ええ」
「体調不良?」
「さあ?」
「何も聞いてないの?」
「休む、としか聞いてないわね」
「そっか……」

 メニーがしゅんとする。しかし、また顔を上げる。

「アリスちゃんは?」
「アリスも休み」
「アリスちゃんも?」
「アリスは体調不良だって」
「……そっか」

 二人で道を歩く。雨は小さく降っている。

「お姉ちゃん」

 メニーがあたしを呼ぶ。

「あのね、今日」

 メニーがあたしに言った。

「今日、屋敷の人、全員が悪夢を見たらしいの」

 あたしとメニーは歩き続ける。

「私は見てないんだけど、お母様も、お姉様も、クロシェ先生も、ギルエドも、他の皆も、私以外、皆、悪夢を見てるの。こんなことあると思う?」
「……メニー」

 あたしは訊く。

「痣は?」
「あった」

 メニーが頷く。

「お姉様、見せてくれたの。あのね、足にあった」
「足?」
「指の付け根部分。まるで足の指が切られたみたいな痣。お姉様、履けないガラスの靴を履こうとした夢を見たんだって」

 あたしは黙った。

「その靴を履いたらね、すごく幸せになれるんだって。だから履こうと頑張ったんだけど」

 トリック・オア・トリート!
 きゃあああああああああああああああああああああああああ!!!

「足の指、切られたんだって。靴を履くために」

 メニーがはっとする。

「あ、もちろん、夢の中での話だよ? 実際のお姉様の足の指は綺麗に揃ってる」

 痣は残ってるけど。

「……お菓子渡したのに、ジャックが悪夢を見せてきたんだって」
「……お菓子を渡したのに?」
「お姉様、毎日枕にお菓子置いてたの。でもね、目を覚ますと、絶対にお菓子が無くなってたんだって。だから、お姉様、毎晩ジャックに会ってたんだと思う。忘れてただけで」
「……」
「お姉様はジャックに悪夢の記憶を消されてたのかもしれない」
「……」
「お姉ちゃんは見た?」
「……あたしは見てない」
「そう」

 メニーが微笑む。

「……良かった」

 あたしの腕が伸び、三月の兎喫茶の扉を開ける。今日は少し混んでる。商店街の人たちがランチを食べに来ていた。
 あたしとメニーが入ると、サガンがチラッと見た。カウンターにいた人たちも扉の音につられて振り向く。数人があたしに微笑んだ。

「やあ、ニコラ」
「どうも」
「こんにちは」
「ごきげんよう。ニコラ」
「こんにちは」

 あたしは顔の知ってる人たちに挨拶を返し、サガンを見る。

「こんにちは。サガンさん」
「空いてるところ行け」
「はい」

 あたしはメニーを連れて、手前のテーブル席に座る。二人だけで気が引けるが、カウンターは空いてないからここしかない。メニーとメニューを見て、せわしなく料理しているサガンに声をかける。

「サガンさん、ランチセット二つで」
「飲み物は?」
「ホットミルクと珈琲」

 サガンが頷き、またフライパンを振る。カウンターに座ってた八百屋の従業員のジミーが勝手にグラスを取り、水を汲み、あたしに向けて二つ差し出した。

「ほらよ、ニコラ」
「あ、すみません。ありがとうございます」

 カウンター席にグラスを取りに行き、受け取ってから再びテーブル席に戻る。メニーに渡す。

「ん」
「ありがとう」

 あたしは再び座る。メニーと同じタイミングで水を飲む。
 窓ガラスは、雨で濡れている。
 リトルルビィがいなくて、アリスもいない。
 いるのは義妹のメニーと、あたしだけ。
 二人で窓を見る。雨が降っている。小雨の雨は止みそうもない。

 カウンター席からは、愉快な笑い声が聞こえてくる。

「はっはっはっは!」
「お待ち」

 サガンが皿を置くと、料理を待っていた魚屋の従業員のスタンリーが、サガンに笑いながら声をかけた。

「はっはっはっ! おい、サガン、聞いてくれよ!」
「スタンリー、忙しいのが見えねえのか」
「いいから見てみろって! ジミーが可哀想なんだよ! こんなところにジャックの痣が! がっはっはっはっはっ!」

 メニーがちらっと、カウンターを見る。ジミーが帽子を被り直していた。

「うるせえよ! 人の頭をじろじろ見るんじゃねえ!」
「がっはっはっはっ! なんでお前のはげた頭にそんなでかい痣を! あっはっはっはっはっ!」
「うるせえって! 馬鹿野郎! ……なあ、サガン、お前は? 痣ないのか?」
「背中にある」

 あたしは耳をそっちに向けた。

「背中か。またどんな夢を見たんだ?」
「……今日は皆ジャックにやられる日らしいな」

 サガンが呟くと、スタンリーが得意げに話し出した。

「俺、カミさんに殺される夢見ちまってよ。もう朝からひやひやしたもんさ。あんだけ『愛してるわ、あんた』って言ってくれてるあいつがよ、包丁持って俺を刺すんだぜ。正夢にならないように、今日はなんか買ってくよ」
「浮気と勘違いされて刺されないようにな」
「おいおい、サガン、やめてくれよ。俺にはあいつだけだよ。……まあ、若くてセクシーな姉ちゃんを見たら、そうも言ってられないけどな!」

 スタンリーがまた笑う。ジミーもクスクス笑っている。サガンが腕に料理の皿を持ち、トレイには飲み物を乗せてカウンターから出た。あたし達に運んでくる。

「お待ち」

 ランチセットのメニューがテーブルに並べられる。

「ごゆっくり」

 サガンがカウンターに戻り、次の料理を始める。カウンターではスタンリーとジミー以外の皆も、ジャックの痣について話している。

「俺もここについてるぜ」
「酷い悪夢だった」
「全くなんでこんな時に仕事かね」
「こんな時だからこそ動かねえと」
「嫌だよ。家で昼寝してたいぜ」
「ジミー、今日飲みに行こうぜ」
「サガン、お前はどうする?」

 サガンは黙って料理をする。珈琲を作る。時々パイプを咥えて、また料理を作る。カウンター席の人々は楽しそうに談笑し、ランチを食べる。
 あたしとメニーは両手を握る。

「……いただきます」
「ます」

 ぼそりとメニーが続けて言って、ランチを食べる。
 メニーの顔が、少し曇っている。
 あたしは炒めた野菜を食べながら、メニーを見る。

「どうしたの? 美味しくないの?」
「……ご飯は美味しい」

 だけど、

「…ジャックのことで話が持ち切りだと思って」
「今日だけよ」

 あたしは野菜を食べる。

「多分、多くの人がジャックの悪夢を見てるのよ」
「今日だけ?」
「ジャックも大暴れしたかったんでしょ」

 あたしは野菜を食べる。

「現に、あたしは見てないわ。あんたも見てない。つまり、見てない人もいるのよ」
「……こんなに大勢の人が見たのは初めてじゃない?」
「今日だけよ」
「……そうかな」
「何よ。怖いの?」

 訊けば、メニーが素直に頷いた。

「怖い」

 メニーが正直に言う。

「怖いよ」

 メニーが野菜を食べる。

「だって、得体のしれないものが暴れてるんだよ?」

 あたしは野菜を食べる。

「怖いよ。どう考えても」
「今日だけよ。何も怖くないわ」

 あたしは食べる。
 炒めたキャベツを、玉ねぎを、パプリカを、食べる。
 もぐもぐ食べて、飲み込む。

「メニー、ドリーム・キャンディでお菓子を買っていけば?」
「……そうしようかな」

 メニーが窓を見た。
 あたしはフォークを野菜に突き刺して、腕を止めた。

(ん?)

 あたしはフォークを見つめた。

(ん?)

 あたしはじっと見つめた。

(あれ?)

 なんか、思い出せそう。

(あれ?)

 あたしは少し、深呼吸をした。

(うん?)

 頭の中にあったどこかの扉の鍵が開いた気がして、あたしはドアノブをひねってみた。その瞬間、一瞬にして、全ての記憶が脳裏を駆け巡った。


 君達を助けに来た! 上には応援がいる! 早くここから出るんだ! 硬く閉ざされていた扉から、誰かが高らかに声をあげる。子供たちは喜び、慌てて立ち上がった。あたしも喜んだ。ああ、これで助かるのね! こんな狭くて殺風景な部屋から、ようやく出られる。きっとママが手配してくれたんだわ! ママ! ママはどこ? ママ! きょろきょろと探しているうちに、どんどん子供たちは逃げていく。え……ママは……?さあ、君。逆光で顔が見えない誰かが、あたしの腕を引っ張った。大丈夫。さあ、立って。やっ。あたしはその手を払い、うずくまる。ママじゃないと、いや! この人、誰? ママ、怖い、ママ、ママ……! 大丈夫。怖くないよ。さあ、立つんだ。あっ。無理矢理引っ張られて、あたしのすくむ足が立ち上がる。がくがく震える足が誰かに引っ張られることでようやく動き、狭い部屋から出た。階段を上り、あたしはドレスを握る。ママ、どこなの? ママ……。怖い……。ママ……。階段を抜ければ、白い扉が見えた。ここまでくればもう大丈夫。走るよ。レディ。お逃げください! やめろおおおおおおお!! 走ってくる音。俺の楽園に手を出すな!! ひっ! あたしの足がすくんだ。走って! きゃっ。あたしが転んだ。あ。誰かの手が離れる。誰かが声を漏らして、あたしに振り向いた。邪魔する奴は殺してやる!! っ。あたしの後ろから、怒鳴り声が聞こえる。お逃げください! 危険です! あああああああああああああああああああ!! こっちに走ってくる音が聞こえる。あたしは身を縮こませた。ひっ……! っ。誰かがあたしの前に出た。その瞬間、あたしに温かい水滴がついた。え…? 包丁で何かを刺す音が響いた。何度も刺す。何度も刺す。あたしではなく、誰かを刺す。あたしは振り向く。男が子供を刺している。何度も何度も刺している。やめて! 刺さないで! あたしは傍には行けない。やめて! 殺さないで!あたしは傍で見ることしかできない。やめて! やめて! やめて! その人は、既に動かない。殺さないで!! あたしは手を伸ばした。瞬間、お腹を刺された。あたしは見下ろす。包丁が、あたしのお腹を突き刺している。あ。僕のものだ! いつの間にか、あたしが男の下敷きになり、男があたしの腹を突き刺す。っ。僕の楽園だ! 男があたしを突き刺す。っ。僕のものに手を出すな! キッドではなくて、あたしを突き刺す。この! っ。ああ! っ。あああああああ!! っ。あたしの手が、地面に倒れた。それでも刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。




 さ   す    。














































「お姉ちゃん!!」








 いつの間にか閉じていた瞼を上げると、ジミーがあたしの顔を覗き込んでいた。
 すぐ横には、顔を青くさせたメニーがいる。

「お姉ちゃん! 大丈夫? お姉ちゃん!」
「ニコラ、大丈夫か?」

 あたしはぱちぱちと瞬きをする。
 ジミーが心配そうに手を伸ばし、あたしの額を触れた。

「熱はなさそうだな」

(……ん? あたし、なんでテーブル席の椅子で横になっているんだろう?)

 サガンもカウンターから出て、あたしの様子を見に来る。

「ニコラ、気分は?」
「え?」

 あたしは体を起こし、きょとんとする。

「何かあったんですか?」
「何かあったんですか、じゃねえよ」

 サガンが呆れたようにため息をついた。

「うちの店で倒れるなんて変な実績残しやがって。今日はお前のせいで店が赤字だ」
「……倒れた?」
「お姉ちゃん、具合悪くない?」

 メニーがあたしの顔を覗き込む。あたしは首を振る。

「……あの、特に……」

 特に?

「特に……」

 見下ろせば、刺さった包丁の場所には何もない。

「……」

 お腹の、へその近く。

「……」

 あたしの手が自分のお腹を撫でた。

「……」

 あたしはチラッと、テーブルに残されたお皿を見た。
 キノコが入っている炒めた野菜達を見た。

(キノコ……)

 キノコを食べると、呪いが解ける。思い出す。

(……)

「お姉ちゃん」

 メニーが声を眉を下げて、あたしに声をかけてきた。

「今日はもう早退したら? こんな具合だし……」
「その方がいいかもな。どれ、俺が言ってくるよ」

 ジミーが一歩歩き出すのを見て、あたしは慌てて止めた。

「あの、ジミーさん、大丈夫です」
「ニコラ」

 スタンリーがカウンター席からあたしに体を向ける。

「頑張るのはいいが、無理はいけねえよ。今日の商店街はお客さんも少なくて静かだし、早退しても大丈夫じゃねえの?」
「あの、今日お店、休みが多いんです。ジョージさんとカリンさんと、あたししかいなくて……」
「事情言えば休ませてくれるだろうさ。ニコラはまだ14歳だっけか? 俺の息子より全然若い。無理はいけねえよ」
「えっと……」

 あたしがスタンリーに言葉を詰まらせると、サガンが腕を組んだ。

「ニコラ、動けることは動けるか?」
「はい」
「そうか。ならとりあえず、事情だけ二人に話せ。で、どうしても無理そうだったら帰れ」
「分かりました」
「というわけだ。ジミー、ここはニコラに任せるぞ」

 サガンがカウンターに戻り、パイプを吸い始める。ジミーも「無理はするな」とあたしに言ってからカウンター席に戻る。あたしも椅子に座り直し、時計を見る。12時45分。

(……まだ休憩出来る)

「お姉ちゃん。お水」

 メニーがあたしに水を渡す。

「ん。ありがとう」

 受け取って水を飲む。水が喉を通過する。食道を通り、胃の中へと入っていく。そのお腹には、痣が残っているだろう。

「……」
「お姉ちゃん、本当に大丈夫……?」
「大丈夫」

 あたしは答える。

「大丈夫よ」

 おそらくあたしは、魔法が解けたショックが大きすぎて、追いつけなくて、つい、気を失ってしまったのだろう。

(……あたしは、ちゃんと悪夢を見てたのね)

 ジャックは、あたしに会いにきた。
 そして、また記憶の扉に鍵をかけたのだ。思い出させないように。

(……一体何がしたいの? ジャック)

 あたしは再び、水を飲んだ。



(*'ω'*)





 16時。ドリーム・キャンディ。


 鳩時計が鳴り、あたしの勤務時間が終了。
 カリンが厨房の掃除をしていたあたしに声をかけた。

「ニコラちゃん、もういいわよぉ」
「はい」

 モップをロッカーの中に入れると、カリンがあたしの顔を覗き込んできた。

「具合どぉ?」
「もう大丈夫そうです」
「そぉ!」

 昼間のことを話すと、裏の仕事を任された。厨房や、裏の倉庫の整理や掃除。売り場に出ることはなかった。カリンが心配そうに眉をへこませてあたしを見る。

「今日はまっすぐ家に帰ってねぇ」
「はい。そうします」

 笑顔で返事をしながら、心の中では違う事を考えた。

(レオも悪夢を見ているかもしれない。そのことについても話し合わないと)

 厨房の流し台で手を洗ってから、荷物を取りに荷物置き場に行く。ぽつんと置かれたジャケットを着て、リュックを背負い、売り場に戻る。

「お疲れ様でした」

 言うと、棚を見てたカリンとレジで雑誌を読んでたジョージが微笑んだ。

「お疲れ様ぁ。ニコラちゃん!」
「お疲れ様。ちゃんと帰って休んでね」
「はい」

 頷いて店を出る。お昼以降、目眩はなかった。

(さて、行こう)

 あたしは傘を差して商店街の道を歩き出す。

(レオが待ってる)

 雨は静かに降っている。

(最初の日みたい)

 レオと初めて待ち合わせた日も、雨が降っていた。

(もっと大きい雨だったけど)

 地面が濡れる。靴が濡れる。それでも雨は降る。
 あたしは路地裏を歩く。建物の間をくぐり、近道を行く。狭い道を抜けて、広い道に入って、しばらく歩くと、やがて公園が見えてくる。あたしは足を運ぶ。公園に入る。ガゼボに向かう。
 雨が降る。
 あたしは道を歩く。
 雨が降る。
 公園には人気がない。
 あたしは歩く。
 子供達が騒いでいる。

(……ん?)

 湖付近で、数人の子供達が慌てふためいていた。

「僕、誰か呼んでくる!」

 一人が走り出す。

「どうしよう!」
「ふええええん!」
「どうしよう、どうしよう!」

 あたしの足が子供達の方へ向かって歩き出す。

「どうしたの?」

 声をかけると、子供達があたしに振り向いた。
 皆、涙目だ。
 一人があたしに近づき、また泣きそうな顔で唇を震わした。

「あの、中に、あの、取り残されて……」
「え?」
「泳いでて、急に足が痛いって言って、戻れなくなって……」

 湖を見ると、ばしゃばしゃと水が叩かれる音が聞こえる。

(んっ)

 あたしは目を見開く。
 湖の奥に、誰かがおぼれている。

(えっ)

 あたしは子供達に訊いた。

「お、大人は?」
「今クリスが呼びに行ったよ!」
「間に合わないよ!」
「ふえええん……!」

 ばしゃばしゃと、水が叩かれる音が響く。

(どうしよう)

 あたしは考える。

(どうしよう)

 あたしは溺れた子供を見る。

(どうしよう)

 近くにあるガゼボに叫んだ。

「レオ!!」

 出てこない。

「いないの!? レオ!」

 あたしは怒鳴った。

「レオってば!!」

 誰もいない。
 レオは来ていないようだ。

(あの役立たず!)

 だが、あたしは何も出来ない。

(どうしよう)

「ええええん!」
「びええええん!」
「ふえええん!!」

 子供たちが泣きわめく。

(どうしよう)

 心が焦る。

(どうしよう)

 あたしはきょろきょろと辺りを見回した。

(どうしよう)

 見回すと、馬の音が聞こえた。

(え?)

 ドカドカと走ってくる、馬の足音が聞こえる。

(馬の音?)

 振り向くと、黒馬がこちらをめがけて走ってきていた。

「うおおおおおおおおおおおおおお!!」

 グレタが叫びながら黒馬を走らせていた。

「事件の匂いだ!!」

 グレタが走る黒馬の背中に立ち上がり、強く黒馬の背中を蹴った。

「うおおおおおおおおお!!」

 制服のまま湖に飛び込む。

「うおおおおおおおおおお!!」

 溺れる子供に向かって全力で泳ぐ。

「うおおおおおおおおおお!!」

 溺れる子供を抱いた。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 叫びながら泳ぎ、陸に子供を投げた。

「どっせーーーーーーーい!!」

 子供たちが投げられた子供を受け取る。グレタがその勢いのまま、陸に上がった。グレタの鋭い目が、威圧的に子供に向けられる。

「少年! 意識はあるか!」
「だ、大丈夫です……」

 咳をしながら子供が返事をする。数人の子供達が取り残されていた子供を囲んだ。

「大丈夫か!?」
「怪我は?」
「ああああああん! 無事でよかったーーー!」

 泣きわめき、抱きしめ合う。それを見て、グレタが叫んだ。

「本当に無事で何よりだーーーーー!!」

 そして子供達を抱きしめる。

「ひえ」
「ひゃっ」
「うわっ」
「あばばっ」

 子供達がグレタに悲鳴をあげるが、グレタは満足そうな笑顔で子供達を抱きしめる。あたしはほっと胸をなでおろし、上から下まで全部濡れたグレタを見下ろした。

「グレタ」
「むっ!? ニコラ! 足が濡れているぞ!」

 子供達を離し、立ち上がったグレタがポケットから濡れたハンカチを取り出し、あたしに差し出した。

「これで拭くといい!」
「濡れてるわよ」
「はっ! しまった!」

 グレタがショックのあまり、膝から崩れ落ちた。

「くそ! 小雨にもやられるなんて! 雨め! なんて害悪なんだ!!」
「ねえ、それより、あの子、病院に運ばなくていいの?」
「ああ、心配はいらない! 今、馬車を用意させている」

 ひひーん。ぱから、ぱから、ぱから。
 馬が止まり、カッパを着た御者が子供達に顔を向けた。

「さあ、お友達も中にいるよ。皆乗って。病院に行きますよ」

 子供達が頷き、大人しく馬車に乗り込む。
 あたしは天に向かって歯を食いしばるグレタを見下ろす。

「ねえ、グレタ、レオは?」
「はっ!」

 グレタが立ち上がり、あたしを見下ろす。

「そうだ。ニコラ、そのことについて君に言っておきたいことがある!」
「うん?」
「リオン様は、本日ご気分が優れないようなんだ! それにこの天気だ! 今日は帰りなさい!」
「あら、そう」

 あたしは頷いた。

「分かった。教えてくれてありがとう」
「とんでもない! 気を付けて帰るんだぞ!」
「ええ」

 グレタが黒馬に乗った。

「行くぞ! アレクちゃん!」
「ひひーん!」

 馬車とアレキサンダーが走り出す。あたしはそれを見送り、白い息を吐いた。

(レオも今日はお休みなのね)
(リトルルビィもお休み)
(アリスもお休み)

 皆、体調が悪くなる。

(……帰ろ)

 あたしは言われた通り、大人しく帰ることにした。

(昼間倒れたし、空気が悪いのかも)
(帰ろう)

 さっきまで慌ただしかった湖には何もない。
 静かに雨が降っているだけ。

「はあ……」

 あたしは息を吐く。白い息を吐く。一歩、足を動かす。

 動かそうとした時、



「ニコラ」





「ん?」

 レオの声が聞こえて、振り向く。
 しかし、そこには何もない。
 ガゼボがあるだけだ。

「……レオ?」

 あたしは声をかけた。

「いるの?」

 誰もいない。

「……」

 あたしは眉間に皺を作る。

(……気持ち悪い……)

 レオがいないのに、レオの声がした。

(きも……)

 あたしはガゼボに背を向けた。

(帰ろう。あたし、疲れてるんだわ)

 あたしは歩き出す。

(そうだ。時間もあるし、リトルルビィの顔を見に行こう。……あの子、大丈夫かしら……)

 そう思って、目的地を変更する。
 あたしの足がリトルルビィの家に向かって歩き出す。
 公園から離れる。路上を歩き、雨の降る道を歩き、傘から頭を出すことなく、まっすぐリトルルビィの家に向かって歩く。

 しばらく歩けば、リトルルビィの小さな家にたどりつく。あたしは扉をノックする。

「リトルルビィ。ニコラよ」

 言うと、返事はない。

(……?)

 もう一度扉をノックする。

(留守?)

 あたしは窓を見てみる。

(部屋は暗い)

 留守だ。

(……体調悪いと思ってたけど、どこか行ってるのかしら)
(……)

 まあ、明日になったら、さすがに来るでしょう。

(……帰ろ)

 あたしはリトルルビィの家に背を向けた。

(今日は大人しく、帰ろう)

 あたしは帰り道を歩き出した。





(*'ω'*)



 18時。帰り道。



 あたしはふと、気づいた。

(……あれ?)

 明かりがついてない。

(……)

 ドアノブをひねってみると、鍵がかかっている。
 リュックから苺ケーキに埋もれたキッドのストラップがついた鍵を取り出し、差込口に挿した。かちゃりと音が鳴って、あたしはドアノブをひねる。扉が開いた。やっぱり明かりはついてない。

「ただいま」

 暗い家の中に入る。玄関の明かりをつけて、扉に鍵を閉めて、廊下を渡り、リビングに入る。明かりはついてない。あたしはリビングの明かりをつける。明かりをつけたら、玄関の明かりを消す。また廊下を渡って、明るくなったリビングに入る。

 じいじはいない。

「……」

 帰ってきていないようだ。メモも朝のまま、残されている。

(まだ城にいるのかしら)

 荷物をソファーに置くと、突然電話が鳴った。

「ぎゃっ!!」

 美しくない悲鳴をあげて、電話を見る。電話が鳴っている。あたしは慌てて電話に駆け寄る。受話器を取った。

「はい!」
『テリー様ですか?』
「あ」

 あたしは聞こえた声に、ぱっと表情を緩ませた。

「Mr.ジェフ」
『どうも、こんばんは』
「こんばんは。貴方から電話なんて珍しいわね。どうしたの? ビリーならいないわよ?」
『ええ。そのことでビリー様から伝えてほしいと言われまして』
「うん? 何かあったの?」
『どうやら、本日はそちらに戻ることが出来ないようでして、夕食はご自由に取ってほしいとのことです』 
「ああ、分かった。冷蔵庫に何かあったと思うし、適当に作っておくわ」
『もし、もし寂しいようであれば、このジェフ、妻と共にそちらに向かいますが……!』
「大丈夫よ。奥さんと楽しい食事をして」
『ははっ。お気遣い誠にありがとうございます』
「伝言ありがとう。また近いうちに顔を出すわ」
『ええ。いつでも待ってますよ』
「おやすみなさい」

 電話を切る。部屋はしんと静まり返っている。

(……今日、ビリーは帰ってこない。キッドも帰ってこない)

 この家には、あたし一人。
 あたしは俯く。

(あたし、一人)

 部屋は静かで、暗い。

(一人……)

 あたしは顔を上げる。

「一人だぁぁぁあああああああ!!!」

 あたしは喜び、大歓喜し、その場で飛び跳ねる。

「やった! やった! 何しても怒られない! 問題集さぼっても怒られない! だらしなくしても怒られない!」

 あたしは飛び跳ねる。

「やった! やった!」

 あたしは満面の笑みでくるくる回る。

「自由の時間よー! 一人の時間よー!」

 肩を揉む。

「人と関わりすぎて、一人になりたかったのよ!」

 あたしは笑顔を浮かべる。

「よっしゃあ! 何作ろうかな!」

 冷蔵庫を開ける。

「食材はあるわ!」

 あたしは仁王立ちし、鼻を鳴らす。

「気合が入るわね!」

 腕の袖をまくる。

「いいわ! あたしのためにあたしが好きなものを作るわ! そうね! 何がいいかしら!」

 あーーー、そうだ!!

「ハンバーグ作ろうっと!!」

 あたしはるんるんして、手を洗い出す。

「一人♪ 一人♪ 自由の時間よ♪ あたしは自由よ♪ るんるんるーん!」

 この安全な家は、今夜だけあたしのもの。

「ふっふふー! カードゲームしようっと!」

 あたしは笑いながら冷蔵庫から材料を取り出し始める。




 そして、毎日寝る前に来ているキッドのうざいおやすみメッセージも、今夜だけ来ることはなかった。





( ˘ω˘ )



「ジャック」
「私はね」
「後悔してる」
「この世に生まれたことを後悔してる」
「私はどうして生まれたんだろ」
「なんで母さんは私を産んだんだろう」
「ねえ、ジャック」
「貴方はどうやって生まれたの?」
「どうやってその形を作ったの?」
「貴方は生きてるの?」
「貴方は死んでるの?」
「貴方はお化け?」
「貴方は人間?」
「どっちでもいい」
「私は未来なんていらない」
「この年まで生きてきた」
「でも未来なんていらない」
「ジャック」
「人が人を殺すとどうなるの?」
「なんで殺しちゃいけないの?」
「私、分からないの」
「殺すことは悪いこと?」
「命を奪うのは悪いこと?」
「悪いことなら、どうして私達は生き物の肉を食べてるの?」
「どうして、グルメ、とか言って料理をしてるの?」
「ねえ、おかしくない?」
「私はどうしてそこまでして生きてるの?」
「ああ、帽子の絵が描きたい」
「ジャック」
「ああ」
「手がうずくの」
「ああ」
「私は欠けてる」
「ああ」
「ジャック」
「今日も見せてくれる?」
「怖いのがいいわ」
「見せて」
「私に恐怖を」
「見せて」
「この衝動を抑えるための恐怖を」
「ああ」
「手がうずく」
「ああ」


「殺したい」


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

車の中で会社の後輩を喘がせている

ヘロディア
恋愛
会社の後輩と”そういう”関係にある主人公。 彼らはどこでも交わっていく…

これ以上ヤったら●っちゃう!

ヘロディア
恋愛
彼氏が変態である主人公。 いつも自分の部屋に呼んで戯れていたが、とうとう彼の部屋に呼ばれてしまい…

隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました

ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら…… という、とんでもないお話を書きました。 ぜひ読んでください。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

【R-18】クリしつけ

蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

【R18】散らされて

月島れいわ
恋愛
風邪を引いて寝ていた夜。 いきなり黒い袋を頭に被せられ四肢を拘束された。 抵抗する間もなく躰を開かされた鞠花。 絶望の果てに待っていたのは更なる絶望だった……

処理中です...