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五章:おかしの国のハイ・ジャック(後編)
第8話 10月22日(2)
しおりを挟む12時。噴水前。
メニーが傘を差して歩いてきた。
「あ、お姉ちゃん!」
傘をぎゅっと握り締め、温かそうな上着を着たメニーが走ってくる。あたしの前で立ち止まり、微笑んだ。
「今日はサガンさんのところでしょう?」
「ええ」
「お昼代、貰ってきたの」
「でかしたわ。メニー。行きましょう」
目指すのは三月の兎喫茶。二人で足並み揃えて道を歩く。
「お姉ちゃん、あの後大丈夫だった?」
「土曜日のこと?」
「うん」
「平気」
次の日の不機嫌キッドを見た後では、まだあのキッドは可愛い坊やだと思えた。
「あんたはちゃんと帰れた?」
「うん。リトルルビィとソフィアさんが送ってくれたから」
「そう。良かったわね」
「三連休ね、リトルルビィと久しぶりに遊べたの。それで、土曜日にね、リトルルビィがホームズの本読みたいって言うから、今日持ってきたんだ」
「あら、残念ね」
「ん?」
「休んでるのよ。リトルルビィ」
メニーがきょとんと瞬きした。
「ん……。そうなの?」
「ええ」
「体調不良?」
「さあ?」
「何も聞いてないの?」
「休む、としか聞いてないわね」
「そっか……」
メニーがしゅんとする。しかし、また顔を上げる。
「アリスちゃんは?」
「アリスも休み」
「アリスちゃんも?」
「アリスは体調不良だって」
「……そっか」
二人で道を歩く。雨は小さく降っている。
「お姉ちゃん」
メニーがあたしを呼ぶ。
「あのね、今日」
メニーがあたしに言った。
「今日、屋敷の人、全員が悪夢を見たらしいの」
あたしとメニーは歩き続ける。
「私は見てないんだけど、お母様も、お姉様も、クロシェ先生も、ギルエドも、他の皆も、私以外、皆、悪夢を見てるの。こんなことあると思う?」
「……メニー」
あたしは訊く。
「痣は?」
「あった」
メニーが頷く。
「お姉様、見せてくれたの。あのね、足にあった」
「足?」
「指の付け根部分。まるで足の指が切られたみたいな痣。お姉様、履けないガラスの靴を履こうとした夢を見たんだって」
あたしは黙った。
「その靴を履いたらね、すごく幸せになれるんだって。だから履こうと頑張ったんだけど」
トリック・オア・トリート!
きゃあああああああああああああああああああああああああ!!!
「足の指、切られたんだって。靴を履くために」
メニーがはっとする。
「あ、もちろん、夢の中での話だよ? 実際のお姉様の足の指は綺麗に揃ってる」
痣は残ってるけど。
「……お菓子渡したのに、ジャックが悪夢を見せてきたんだって」
「……お菓子を渡したのに?」
「お姉様、毎日枕にお菓子置いてたの。でもね、目を覚ますと、絶対にお菓子が無くなってたんだって。だから、お姉様、毎晩ジャックに会ってたんだと思う。忘れてただけで」
「……」
「お姉様はジャックに悪夢の記憶を消されてたのかもしれない」
「……」
「お姉ちゃんは見た?」
「……あたしは見てない」
「そう」
メニーが微笑む。
「……良かった」
あたしの腕が伸び、三月の兎喫茶の扉を開ける。今日は少し混んでる。商店街の人たちがランチを食べに来ていた。
あたしとメニーが入ると、サガンがチラッと見た。カウンターにいた人たちも扉の音につられて振り向く。数人があたしに微笑んだ。
「やあ、ニコラ」
「どうも」
「こんにちは」
「ごきげんよう。ニコラ」
「こんにちは」
あたしは顔の知ってる人たちに挨拶を返し、サガンを見る。
「こんにちは。サガンさん」
「空いてるところ行け」
「はい」
あたしはメニーを連れて、手前のテーブル席に座る。二人だけで気が引けるが、カウンターは空いてないからここしかない。メニーとメニューを見て、せわしなく料理しているサガンに声をかける。
「サガンさん、ランチセット二つで」
「飲み物は?」
「ホットミルクと珈琲」
サガンが頷き、またフライパンを振る。カウンターに座ってた八百屋の従業員のジミーが勝手にグラスを取り、水を汲み、あたしに向けて二つ差し出した。
「ほらよ、ニコラ」
「あ、すみません。ありがとうございます」
カウンター席にグラスを取りに行き、受け取ってから再びテーブル席に戻る。メニーに渡す。
「ん」
「ありがとう」
あたしは再び座る。メニーと同じタイミングで水を飲む。
窓ガラスは、雨で濡れている。
リトルルビィがいなくて、アリスもいない。
いるのは義妹のメニーと、あたしだけ。
二人で窓を見る。雨が降っている。小雨の雨は止みそうもない。
カウンター席からは、愉快な笑い声が聞こえてくる。
「はっはっはっは!」
「お待ち」
サガンが皿を置くと、料理を待っていた魚屋の従業員のスタンリーが、サガンに笑いながら声をかけた。
「はっはっはっ! おい、サガン、聞いてくれよ!」
「スタンリー、忙しいのが見えねえのか」
「いいから見てみろって! ジミーが可哀想なんだよ! こんなところにジャックの痣が! がっはっはっはっはっ!」
メニーがちらっと、カウンターを見る。ジミーが帽子を被り直していた。
「うるせえよ! 人の頭をじろじろ見るんじゃねえ!」
「がっはっはっはっ! なんでお前のはげた頭にそんなでかい痣を! あっはっはっはっはっ!」
「うるせえって! 馬鹿野郎! ……なあ、サガン、お前は? 痣ないのか?」
「背中にある」
あたしは耳をそっちに向けた。
「背中か。またどんな夢を見たんだ?」
「……今日は皆ジャックにやられる日らしいな」
サガンが呟くと、スタンリーが得意げに話し出した。
「俺、カミさんに殺される夢見ちまってよ。もう朝からひやひやしたもんさ。あんだけ『愛してるわ、あんた』って言ってくれてるあいつがよ、包丁持って俺を刺すんだぜ。正夢にならないように、今日はなんか買ってくよ」
「浮気と勘違いされて刺されないようにな」
「おいおい、サガン、やめてくれよ。俺にはあいつだけだよ。……まあ、若くてセクシーな姉ちゃんを見たら、そうも言ってられないけどな!」
スタンリーがまた笑う。ジミーもクスクス笑っている。サガンが腕に料理の皿を持ち、トレイには飲み物を乗せてカウンターから出た。あたし達に運んでくる。
「お待ち」
ランチセットのメニューがテーブルに並べられる。
「ごゆっくり」
サガンがカウンターに戻り、次の料理を始める。カウンターではスタンリーとジミー以外の皆も、ジャックの痣について話している。
「俺もここについてるぜ」
「酷い悪夢だった」
「全くなんでこんな時に仕事かね」
「こんな時だからこそ動かねえと」
「嫌だよ。家で昼寝してたいぜ」
「ジミー、今日飲みに行こうぜ」
「サガン、お前はどうする?」
サガンは黙って料理をする。珈琲を作る。時々パイプを咥えて、また料理を作る。カウンター席の人々は楽しそうに談笑し、ランチを食べる。
あたしとメニーは両手を握る。
「……いただきます」
「ます」
ぼそりとメニーが続けて言って、ランチを食べる。
メニーの顔が、少し曇っている。
あたしは炒めた野菜を食べながら、メニーを見る。
「どうしたの? 美味しくないの?」
「……ご飯は美味しい」
だけど、
「…ジャックのことで話が持ち切りだと思って」
「今日だけよ」
あたしは野菜を食べる。
「多分、多くの人がジャックの悪夢を見てるのよ」
「今日だけ?」
「ジャックも大暴れしたかったんでしょ」
あたしは野菜を食べる。
「現に、あたしは見てないわ。あんたも見てない。つまり、見てない人もいるのよ」
「……こんなに大勢の人が見たのは初めてじゃない?」
「今日だけよ」
「……そうかな」
「何よ。怖いの?」
訊けば、メニーが素直に頷いた。
「怖い」
メニーが正直に言う。
「怖いよ」
メニーが野菜を食べる。
「だって、得体のしれないものが暴れてるんだよ?」
あたしは野菜を食べる。
「怖いよ。どう考えても」
「今日だけよ。何も怖くないわ」
あたしは食べる。
炒めたキャベツを、玉ねぎを、パプリカを、食べる。
もぐもぐ食べて、飲み込む。
「メニー、ドリーム・キャンディでお菓子を買っていけば?」
「……そうしようかな」
メニーが窓を見た。
あたしはフォークを野菜に突き刺して、腕を止めた。
(ん?)
あたしはフォークを見つめた。
(ん?)
あたしはじっと見つめた。
(あれ?)
なんか、思い出せそう。
(あれ?)
あたしは少し、深呼吸をした。
(うん?)
頭の中にあったどこかの扉の鍵が開いた気がして、あたしはドアノブをひねってみた。その瞬間、一瞬にして、全ての記憶が脳裏を駆け巡った。
君達を助けに来た! 上には応援がいる! 早くここから出るんだ! 硬く閉ざされていた扉から、誰かが高らかに声をあげる。子供たちは喜び、慌てて立ち上がった。あたしも喜んだ。ああ、これで助かるのね! こんな狭くて殺風景な部屋から、ようやく出られる。きっとママが手配してくれたんだわ! ママ! ママはどこ? ママ! きょろきょろと探しているうちに、どんどん子供たちは逃げていく。え……ママは……?さあ、君。逆光で顔が見えない誰かが、あたしの腕を引っ張った。大丈夫。さあ、立って。やっ。あたしはその手を払い、うずくまる。ママじゃないと、いや! この人、誰? ママ、怖い、ママ、ママ……! 大丈夫。怖くないよ。さあ、立つんだ。あっ。無理矢理引っ張られて、あたしのすくむ足が立ち上がる。がくがく震える足が誰かに引っ張られることでようやく動き、狭い部屋から出た。階段を上り、あたしはドレスを握る。ママ、どこなの? ママ……。怖い……。ママ……。階段を抜ければ、白い扉が見えた。ここまでくればもう大丈夫。走るよ。レディ。お逃げください! やめろおおおおおおお!! 走ってくる音。俺の楽園に手を出すな!! ひっ! あたしの足がすくんだ。走って! きゃっ。あたしが転んだ。あ。誰かの手が離れる。誰かが声を漏らして、あたしに振り向いた。邪魔する奴は殺してやる!! っ。あたしの後ろから、怒鳴り声が聞こえる。お逃げください! 危険です! あああああああああああああああああああ!! こっちに走ってくる音が聞こえる。あたしは身を縮こませた。ひっ……! っ。誰かがあたしの前に出た。その瞬間、あたしに温かい水滴がついた。え…? 包丁で何かを刺す音が響いた。何度も刺す。何度も刺す。あたしではなく、誰かを刺す。あたしは振り向く。男が子供を刺している。何度も何度も刺している。やめて! 刺さないで! あたしは傍には行けない。やめて! 殺さないで!あたしは傍で見ることしかできない。やめて! やめて! やめて! その人は、既に動かない。殺さないで!! あたしは手を伸ばした。瞬間、お腹を刺された。あたしは見下ろす。包丁が、あたしのお腹を突き刺している。あ。僕のものだ! いつの間にか、あたしが男の下敷きになり、男があたしの腹を突き刺す。っ。僕の楽園だ! 男があたしを突き刺す。っ。僕のものに手を出すな! キッドではなくて、あたしを突き刺す。この! っ。ああ! っ。あああああああ!! っ。あたしの手が、地面に倒れた。それでも刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。
さ す 。
「お姉ちゃん!!」
いつの間にか閉じていた瞼を上げると、ジミーがあたしの顔を覗き込んでいた。
すぐ横には、顔を青くさせたメニーがいる。
「お姉ちゃん! 大丈夫? お姉ちゃん!」
「ニコラ、大丈夫か?」
あたしはぱちぱちと瞬きをする。
ジミーが心配そうに手を伸ばし、あたしの額を触れた。
「熱はなさそうだな」
(……ん? あたし、なんでテーブル席の椅子で横になっているんだろう?)
サガンもカウンターから出て、あたしの様子を見に来る。
「ニコラ、気分は?」
「え?」
あたしは体を起こし、きょとんとする。
「何かあったんですか?」
「何かあったんですか、じゃねえよ」
サガンが呆れたようにため息をついた。
「うちの店で倒れるなんて変な実績残しやがって。今日はお前のせいで店が赤字だ」
「……倒れた?」
「お姉ちゃん、具合悪くない?」
メニーがあたしの顔を覗き込む。あたしは首を振る。
「……あの、特に……」
特に?
「特に……」
見下ろせば、刺さった包丁の場所には何もない。
「……」
お腹の、へその近く。
「……」
あたしの手が自分のお腹を撫でた。
「……」
あたしはチラッと、テーブルに残されたお皿を見た。
キノコが入っている炒めた野菜達を見た。
(キノコ……)
キノコを食べると、呪いが解ける。思い出す。
(……)
「お姉ちゃん」
メニーが声を眉を下げて、あたしに声をかけてきた。
「今日はもう早退したら? こんな具合だし……」
「その方がいいかもな。どれ、俺が言ってくるよ」
ジミーが一歩歩き出すのを見て、あたしは慌てて止めた。
「あの、ジミーさん、大丈夫です」
「ニコラ」
スタンリーがカウンター席からあたしに体を向ける。
「頑張るのはいいが、無理はいけねえよ。今日の商店街はお客さんも少なくて静かだし、早退しても大丈夫じゃねえの?」
「あの、今日お店、休みが多いんです。ジョージさんとカリンさんと、あたししかいなくて……」
「事情言えば休ませてくれるだろうさ。ニコラはまだ14歳だっけか? 俺の息子より全然若い。無理はいけねえよ」
「えっと……」
あたしがスタンリーに言葉を詰まらせると、サガンが腕を組んだ。
「ニコラ、動けることは動けるか?」
「はい」
「そうか。ならとりあえず、事情だけ二人に話せ。で、どうしても無理そうだったら帰れ」
「分かりました」
「というわけだ。ジミー、ここはニコラに任せるぞ」
サガンがカウンターに戻り、パイプを吸い始める。ジミーも「無理はするな」とあたしに言ってからカウンター席に戻る。あたしも椅子に座り直し、時計を見る。12時45分。
(……まだ休憩出来る)
「お姉ちゃん。お水」
メニーがあたしに水を渡す。
「ん。ありがとう」
受け取って水を飲む。水が喉を通過する。食道を通り、胃の中へと入っていく。そのお腹には、痣が残っているだろう。
「……」
「お姉ちゃん、本当に大丈夫……?」
「大丈夫」
あたしは答える。
「大丈夫よ」
おそらくあたしは、魔法が解けたショックが大きすぎて、追いつけなくて、つい、気を失ってしまったのだろう。
(……あたしは、ちゃんと悪夢を見てたのね)
ジャックは、あたしに会いにきた。
そして、また記憶の扉に鍵をかけたのだ。思い出させないように。
(……一体何がしたいの? ジャック)
あたしは再び、水を飲んだ。
(*'ω'*)
16時。ドリーム・キャンディ。
鳩時計が鳴り、あたしの勤務時間が終了。
カリンが厨房の掃除をしていたあたしに声をかけた。
「ニコラちゃん、もういいわよぉ」
「はい」
モップをロッカーの中に入れると、カリンがあたしの顔を覗き込んできた。
「具合どぉ?」
「もう大丈夫そうです」
「そぉ!」
昼間のことを話すと、裏の仕事を任された。厨房や、裏の倉庫の整理や掃除。売り場に出ることはなかった。カリンが心配そうに眉をへこませてあたしを見る。
「今日はまっすぐ家に帰ってねぇ」
「はい。そうします」
笑顔で返事をしながら、心の中では違う事を考えた。
(レオも悪夢を見ているかもしれない。そのことについても話し合わないと)
厨房の流し台で手を洗ってから、荷物を取りに荷物置き場に行く。ぽつんと置かれたジャケットを着て、リュックを背負い、売り場に戻る。
「お疲れ様でした」
言うと、棚を見てたカリンとレジで雑誌を読んでたジョージが微笑んだ。
「お疲れ様ぁ。ニコラちゃん!」
「お疲れ様。ちゃんと帰って休んでね」
「はい」
頷いて店を出る。お昼以降、目眩はなかった。
(さて、行こう)
あたしは傘を差して商店街の道を歩き出す。
(レオが待ってる)
雨は静かに降っている。
(最初の日みたい)
レオと初めて待ち合わせた日も、雨が降っていた。
(もっと大きい雨だったけど)
地面が濡れる。靴が濡れる。それでも雨は降る。
あたしは路地裏を歩く。建物の間をくぐり、近道を行く。狭い道を抜けて、広い道に入って、しばらく歩くと、やがて公園が見えてくる。あたしは足を運ぶ。公園に入る。ガゼボに向かう。
雨が降る。
あたしは道を歩く。
雨が降る。
公園には人気がない。
あたしは歩く。
子供達が騒いでいる。
(……ん?)
湖付近で、数人の子供達が慌てふためいていた。
「僕、誰か呼んでくる!」
一人が走り出す。
「どうしよう!」
「ふええええん!」
「どうしよう、どうしよう!」
あたしの足が子供達の方へ向かって歩き出す。
「どうしたの?」
声をかけると、子供達があたしに振り向いた。
皆、涙目だ。
一人があたしに近づき、また泣きそうな顔で唇を震わした。
「あの、中に、あの、取り残されて……」
「え?」
「泳いでて、急に足が痛いって言って、戻れなくなって……」
湖を見ると、ばしゃばしゃと水が叩かれる音が聞こえる。
(んっ)
あたしは目を見開く。
湖の奥に、誰かがおぼれている。
(えっ)
あたしは子供達に訊いた。
「お、大人は?」
「今クリスが呼びに行ったよ!」
「間に合わないよ!」
「ふえええん……!」
ばしゃばしゃと、水が叩かれる音が響く。
(どうしよう)
あたしは考える。
(どうしよう)
あたしは溺れた子供を見る。
(どうしよう)
近くにあるガゼボに叫んだ。
「レオ!!」
出てこない。
「いないの!? レオ!」
あたしは怒鳴った。
「レオってば!!」
誰もいない。
レオは来ていないようだ。
(あの役立たず!)
だが、あたしは何も出来ない。
(どうしよう)
「ええええん!」
「びええええん!」
「ふえええん!!」
子供たちが泣きわめく。
(どうしよう)
心が焦る。
(どうしよう)
あたしはきょろきょろと辺りを見回した。
(どうしよう)
見回すと、馬の音が聞こえた。
(え?)
ドカドカと走ってくる、馬の足音が聞こえる。
(馬の音?)
振り向くと、黒馬がこちらをめがけて走ってきていた。
「うおおおおおおおおおおおおおお!!」
グレタが叫びながら黒馬を走らせていた。
「事件の匂いだ!!」
グレタが走る黒馬の背中に立ち上がり、強く黒馬の背中を蹴った。
「うおおおおおおおおお!!」
制服のまま湖に飛び込む。
「うおおおおおおおおおお!!」
溺れる子供に向かって全力で泳ぐ。
「うおおおおおおおおおお!!」
溺れる子供を抱いた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
叫びながら泳ぎ、陸に子供を投げた。
「どっせーーーーーーーい!!」
子供たちが投げられた子供を受け取る。グレタがその勢いのまま、陸に上がった。グレタの鋭い目が、威圧的に子供に向けられる。
「少年! 意識はあるか!」
「だ、大丈夫です……」
咳をしながら子供が返事をする。数人の子供達が取り残されていた子供を囲んだ。
「大丈夫か!?」
「怪我は?」
「ああああああん! 無事でよかったーーー!」
泣きわめき、抱きしめ合う。それを見て、グレタが叫んだ。
「本当に無事で何よりだーーーーー!!」
そして子供達を抱きしめる。
「ひえ」
「ひゃっ」
「うわっ」
「あばばっ」
子供達がグレタに悲鳴をあげるが、グレタは満足そうな笑顔で子供達を抱きしめる。あたしはほっと胸をなでおろし、上から下まで全部濡れたグレタを見下ろした。
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(レオも今日はお休みなのね)
(リトルルビィもお休み)
(アリスもお休み)
皆、体調が悪くなる。
(……帰ろ)
あたしは言われた通り、大人しく帰ることにした。
(昼間倒れたし、空気が悪いのかも)
(帰ろう)
さっきまで慌ただしかった湖には何もない。
静かに雨が降っているだけ。
「はあ……」
あたしは息を吐く。白い息を吐く。一歩、足を動かす。
動かそうとした時、
「ニコラ」
「ん?」
レオの声が聞こえて、振り向く。
しかし、そこには何もない。
ガゼボがあるだけだ。
「……レオ?」
あたしは声をかけた。
「いるの?」
誰もいない。
「……」
あたしは眉間に皺を作る。
(……気持ち悪い……)
レオがいないのに、レオの声がした。
(きも……)
あたしはガゼボに背を向けた。
(帰ろう。あたし、疲れてるんだわ)
あたしは歩き出す。
(そうだ。時間もあるし、リトルルビィの顔を見に行こう。……あの子、大丈夫かしら……)
そう思って、目的地を変更する。
あたしの足がリトルルビィの家に向かって歩き出す。
公園から離れる。路上を歩き、雨の降る道を歩き、傘から頭を出すことなく、まっすぐリトルルビィの家に向かって歩く。
しばらく歩けば、リトルルビィの小さな家にたどりつく。あたしは扉をノックする。
「リトルルビィ。ニコラよ」
言うと、返事はない。
(……?)
もう一度扉をノックする。
(留守?)
あたしは窓を見てみる。
(部屋は暗い)
留守だ。
(……体調悪いと思ってたけど、どこか行ってるのかしら)
(……)
まあ、明日になったら、さすがに来るでしょう。
(……帰ろ)
あたしはリトルルビィの家に背を向けた。
(今日は大人しく、帰ろう)
あたしは帰り道を歩き出した。
(*'ω'*)
18時。帰り道。
あたしはふと、気づいた。
(……あれ?)
明かりがついてない。
(……)
ドアノブをひねってみると、鍵がかかっている。
リュックから苺ケーキに埋もれたキッドのストラップがついた鍵を取り出し、差込口に挿した。かちゃりと音が鳴って、あたしはドアノブをひねる。扉が開いた。やっぱり明かりはついてない。
「ただいま」
暗い家の中に入る。玄関の明かりをつけて、扉に鍵を閉めて、廊下を渡り、リビングに入る。明かりはついてない。あたしはリビングの明かりをつける。明かりをつけたら、玄関の明かりを消す。また廊下を渡って、明るくなったリビングに入る。
じいじはいない。
「……」
帰ってきていないようだ。メモも朝のまま、残されている。
(まだ城にいるのかしら)
荷物をソファーに置くと、突然電話が鳴った。
「ぎゃっ!!」
美しくない悲鳴をあげて、電話を見る。電話が鳴っている。あたしは慌てて電話に駆け寄る。受話器を取った。
「はい!」
『テリー様ですか?』
「あ」
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(あたし、一人)
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(一人……)
あたしは顔を上げる。
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あたしは喜び、大歓喜し、その場で飛び跳ねる。
「やった! やった! 何しても怒られない! 問題集さぼっても怒られない! だらしなくしても怒られない!」
あたしは飛び跳ねる。
「やった! やった!」
あたしは満面の笑みでくるくる回る。
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肩を揉む。
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「よっしゃあ! 何作ろうかな!」
冷蔵庫を開ける。
「食材はあるわ!」
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「気合が入るわね!」
腕の袖をまくる。
「いいわ! あたしのためにあたしが好きなものを作るわ! そうね! 何がいいかしら!」
あーーー、そうだ!!
「ハンバーグ作ろうっと!!」
あたしはるんるんして、手を洗い出す。
「一人♪ 一人♪ 自由の時間よ♪ あたしは自由よ♪ るんるんるーん!」
この安全な家は、今夜だけあたしのもの。
「ふっふふー! カードゲームしようっと!」
あたしは笑いながら冷蔵庫から材料を取り出し始める。
そして、毎日寝る前に来ているキッドのうざいおやすみメッセージも、今夜だけ来ることはなかった。
( ˘ω˘ )
「ジャック」
「私はね」
「後悔してる」
「この世に生まれたことを後悔してる」
「私はどうして生まれたんだろ」
「なんで母さんは私を産んだんだろう」
「ねえ、ジャック」
「貴方はどうやって生まれたの?」
「どうやってその形を作ったの?」
「貴方は生きてるの?」
「貴方は死んでるの?」
「貴方はお化け?」
「貴方は人間?」
「どっちでもいい」
「私は未来なんていらない」
「この年まで生きてきた」
「でも未来なんていらない」
「ジャック」
「人が人を殺すとどうなるの?」
「なんで殺しちゃいけないの?」
「私、分からないの」
「殺すことは悪いこと?」
「命を奪うのは悪いこと?」
「悪いことなら、どうして私達は生き物の肉を食べてるの?」
「どうして、グルメ、とか言って料理をしてるの?」
「ねえ、おかしくない?」
「私はどうしてそこまでして生きてるの?」
「ああ、帽子の絵が描きたい」
「ジャック」
「ああ」
「手がうずくの」
「ああ」
「私は欠けてる」
「ああ」
「ジャック」
「今日も見せてくれる?」
「怖いのがいいわ」
「見せて」
「私に恐怖を」
「見せて」
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「ああ」
「手がうずく」
「ああ」
「殺したい」
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