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番外編

新婚旅行へ行こう 6

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「…………へ? 何、言ってるんですか?」
 雪人が何を言ったのか理解できずに、ひなこは口元を引きつらせながら返した。
 あまりの驚きに、どうやら瞬きすら忘れてしまっていたらしい。目が痛みを和らげるために涙を放出した。ポロリと生理的な涙が転がり落ちる。
 喜びの涙では決してない。だってまだ、何一つ実感できていないのだから。
 茫然自失の状態で涙を流す姿は、奇異なものに映るだろう。柊が不気味そうに少し距離をとった。
 とんでもない発言をした張本人は、噛んで含めるように同じ言葉を繰り返す。
「何度でも言うよ。ひなこさん、僕達の結婚式を、ここで挙げよう」
「僕達の結婚式を、ここで挙げよう?」
「うん、おうむ返しするってことは、まだ理解が追い付いてないんじゃないかな? 私達も驚いてるけど」
 譲葉が心配そうにひなこの顔を覗き込む。
 そうだ。なぜ彼女達は、こんなに反応が薄いのだろう。
「もしかして、みんな知ってたの?」
「お前と一緒。今初めて聞かされたところ」
 ひょいと肩をすくめる柊だって、言葉のわりに平然としている。
 茜が続けて口を開いた。
「……もちろん驚いてるけど、父さんのやることだから」
「ドレスのサイズとかデザインとか、そもそも一生に一度の結婚式なのに花嫁に何の相談もなく決めちゃうなんて本当に最低だと思うけど。まぁ、父さんだからね」
「サプライズしたかったとしても、これはさすがにヒドイよなぁ。どんな式にしたいとか、ひなこにも夢があっただろーに」
 譲葉と柊から続々と非難を浴び、雪人が情けなく肩を落とした。
「そりゃ僕だって、ひなこさんの理想の結婚式を実現させたかったよ。でも、どうしてもこの日この場所じゃないといけない理由があったんだ。どうせならサプライズにしちゃおうって目論見も確かにあったけれど、本当に特急で準備しなければならなかったから」
 雪人は愚痴っぽくこぼすと、ゆっくり顔を上げた。その表情は、なぜか悲壮な空気が漂っている。
「……ひなこさんに、土下座して謝らなければならないことがあります」
「ど、どけざ?」
 またもや不穏すぎる単語が飛び出した。雪人の異様な迫力も相まって、ひなこは思わず背をのけ反らせる。
 譲葉達は賢明なもので、夫婦の会話に口を挟むことはなかった。
「僕の両親が海外に住んでいることは、以前に話したよね?」
 突然切り替わった話題に戸惑いながらも、ひなこはコクコクと頷いた。
「はい。確か、タイのコンドミニアムを購入して、そこで暮らしてるって」
「そう。といってもね、あの人達はそこを拠点に色んな国を飛び回っているだけなんだ。おかげで何度連絡したって捕まらない。本当にはた迷惑な二人なんだけど――今回、とうとう行き先が判明したんだ」
「そ、それってもしや……」
 何だか本当に不穏な流れになってきた。ひなこは冷や汗すら感じながら、震えそうな体を抑え込む。
 雪人と間近で視線がぶつかった。そこに宿るのは、とても切実で深刻な感情。
「……お察しの通り、ここ、マカオです」
「っ、えええぇぇえっ!?」
 ひなこはとうとう大声を上げた。雪人が結婚式を急いだ理由が、嫌でも分かってしまったためだ。
「それって、それってもしかして、」
「ごめん、僕だってこんなサプライズはしたくなかったんだ。けれどあの二人が、一ヵ所に留まらないのは自分達の方だっていうのに、結婚式には出席したいだなんて我が儘を言うものだから」
「――――」
 どうやらひなこの予想は、当たってしまっているらしい。
 ――マカオに来ている雪人さんのご両親のために、結婚式を挙げるんだ……。
 つまり、すぐにでも緊張のご対面が行われるということで。
「ままま待ってください心の準備が!」
「そうだよね。ひなこさんはいくらでも怒っていいよ。いきなり両親に会わせるなんて、妻の気持ちを無視した、夫として最低の行いだよね」
 雪人の両親との、ついに初対面。
 彼が電話でパパッと許可を取ってしまったから、籍を入れる際もご挨拶をしていない。そんな非常識な嫁であるのに、その上さらにわざわざ結婚式に足を運んでもらうなんて。
 ――いや、マカオにいるご両親に合わせた形だから、この場合私達が足を運んだことになるのかな? どうしよう、混乱しすぎて色々よく分からなくなってきた……。
 とりあえず、いい印象を抱かれていないのは確かだ。土下座をするのはひなこの方かもしれない。
 混乱で何一つ言葉が出ないひなこに、雪人が頭を下げた。
「どれだけ謝っても足りないと思うけれど、本当にごめん。結婚式も、ひなこさんが満足いくものをもう一度挙げたっていい。お願いだ、両親に会ってもらえないかな?」
 恐る恐る上げられた顔には、不安がありありと見て取れた。
 大好きな人の悲しい顔は見たくない。
 それはもはや本能なのか、いまだグルグルと混乱し続けている頭が、無意識の内に首肯を返していた。
 雪人の表情がパッと明るくなるのを見て、安堵と同時にしまったと思った。何の覚悟も固まっていないが、もう遅い。
「よかった、ひなこさん。ありがとう。本当にありがとう」
 思わずといったふうに抱き寄せられ、ひなこの混乱は頂点に達した。
「もーうっ! 子ども達が見てる前でやめてください!」
 ひなこが大声を上げて雪人を突っぱねると同時に、どこからか弾けるような笑い声が起こった。
「――いやぁ、傑作傑作」
「年下のお嬢さんにみっともなく甘えるのはよしなさいな。子どもだけじゃなく、他の観光客の目だってあるのよ」
 ゆっくりとした足取りで近付いて来たのは、六十代と思われる夫婦。男性の泰然とした笑顔も、女性の上品な笑顔も、どちらも見覚えがあるような。というより、常に彼らの面影がある者達に囲まれているような。
 ひなこの背中をダラダラと冷や汗が伝っていく。その隣で、雪人が細く息をついた。
「お父さん、お母さん……」
 ――やっぱり!!
 六十代にしては若々しい雰囲気を持つ二人は、さすが三嶋家遺伝子の源流だけあって、衰えぬ美貌を維持していた。
「あなた方には中で待っていてくださいと、言っておいたはずですが」
「外に出たおかげで面白いものが見れたよ。お前がこんな若い娘さんに振り回されているなんてな」
「どちらかといえば、あなた方に振り回されているんですがね……」
 男性は雪人の嫌みを聞き流すと、彼の肩を気楽に叩いた。
「まぁまぁ、まだ時間にも早いことだし。ここは一つ、ノロケでも聞かせてくれないか」
「って、単に飲みたいだけでしょう。僕は新郎なので飲みませんよ」
 よく分からないが、雪人はいつの間にか父親と飲みに行く話になっていた。
 流れについていけず戸惑うひなこの腕に、優しい手が触れる。
「男同士がああ言っていることだし、私達も女同士、おしゃべりでもしましょうか」
「…………はい」
 やんわりと分断された。無情にも首を振る子ども達の助けは期待できない。
 ひなこは死地に赴く兵士のような心持ちで、女性の後ろをついて歩いた。

  ◇ ◆ ◇

 一体なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
 挙式までは確かに時間が余っているらしく、ひなこは教会から少し歩いたところにあるカフェを訪れていた。
 お義母さんと二人きり。これからどんな恐ろしいことを言われるのか。
 女性は、花江と名乗った。ちなみに男性は賢蔵だという。
 コーヒーが二人の前に並べられると、花江は上品な所作でカップに口を付ける。その仕草が雪人によく似ていて、ひなこは思わずまじまじと見つめた。
 花江がクスリと笑みをこぼす。
「あの子に、似ているかしら?」
「えっ、」
「何だか物凄い熱視線だったから」
「す、すいません。たいへん失礼を……」
「いいのよ。不肖の息子をそこまで想ってくださって、むしろお礼を言いたいくらい」
 恥じ入って頭を下げようとしたひなこを、花江がにっこり微笑んで制した。
 視線を上げると、穏やかな瞳とかち合う。
「あの子は昔から何でもできてね、本当に手のかからない子だったの。おかげで私達も自由に過ごせているのだけれど」
 不意に思い出話を打ち明け始める花江に、ひなこは居ずまいを正して耳を傾けた。
 優しい口調まで雪人に似ている。顔立ちはどちらかといえば父親似という印象だったが、人を安心させる雰囲気は断然花江に似ているようだ。
 彼女のまろやかな語り口に、ひなこの強張った肩から自然と力が抜けていく。
「でもね、一つ後悔があるとしたら、詩織さんと結婚した時ね」
 花江の瞳に浮かぶのは後悔の翳りだった。
「あの子が澄ました顔でいるから、気付けなかったの。今の会社が軌道に乗るまで、家族を気遣う余裕もないほど苦労していたなんて。こんな年寄りにでも、何かできることがあったかもしれないのに……。詩織さんには本当に申し訳ないことをしてしまったと、今でも思っているわ」
 前妻の名前に、ひなこの胸中も複雑だ。
 柊達の存在を思えば、雪人と詩織が寄り添っていた時間を否定することはできない。
 だが恋愛初心者のひなこが真正面から受け止めるのは、ひどく難しいことだった。
 親友が『難易度の高い恋愛』と称した理由をしみじみと実感する。
 ――そもそもこの状況が難易度高いしね。
 初対面の義母と二人きり。優香に聞かせる土産話が増えた。
 若干虚ろな目で現実逃避していたひなこだったが、花江の声に正気を取り戻す。
「離婚してからも、あの子は変わらず澄ました顔で生きていたわ。詩織さんと別れたことなんて、まるでなかったみたいに。今思えばがむしゃらに仕事に打ち込むことで忘れようとしていたのでしょうけれど、私にはとても危うく見えたの」
 俯きがちだった花江が、ひなことしっかり目を合わせて笑った。
「でも、もう心配しなくても大丈夫なのね。だって雪人のあんな情けない顔、初めて見たもの。駄目な自分をさらけ出せる相手を、あの子はようやく見つけたのね」
 おかしそうに笑う彼女の頬にえくぼができて、少女のようなあどけない印象に変わる。
「困ったことがあったら何でも相談してね。世界の果てにいたって、すぐに駆け付けるから。――私は今日、あなたにそれを伝えるために来たの」
「…………」
 難易度は高いが、ひなこはきっと恵まれている。
 すぎるほど甘い旦那様に、優しい子ども達。そして、味方になってくれる義理の母。
「……ありがとう、ございます」
 強さにも似た眼差しを受け、ひなこは顔を綻ばせて頷いた。
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