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一年目

生きなくては、何があっても

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「ただいま~」

 薄暗い家の中に、純の声だけが虚しく響く。玄関の靴は、一足もない。

 父親も母親もいない夜。これが、純にとって当たり前の日常だ。

 純は靴を脱ぎ、そろえて、二階の自室に向かう。荷物を置いて再び一階へ。

 リビングに入ると、テーブルに皿が置いてあることに気づいた。ラップがかけられた中身は、あふれんばかりのおにぎりが入っている。母親が純のために作ってくれたものだった。

 ダイニングキッチンの電子レンジに入れ、温める。明るく光る電子レンジの中を見すえた。

 ――これでいい。

 両親が家にいなくても構わない。両親がテレビに出続けていることのほうが大事なのだから。

 とはいえ、アイドルにならなければ、両親と関わる時間がもっとあったのかもしれない。とも思う。

 電子レンジの明かりが消え、音楽が鳴り渡る。温められたおにぎりの皿を取り出した。

 ラップを外すと湯気が舞う。おにぎりの熱さに耐えながら指先で持ちあげ、口をつけた。

「……おいしい」

 中身はサケと明太子。母親の、愛情を感じる。ひとりで、もくもくと食べすすめた。

 小腹を満たしたあとはすぐにシャワーを浴び、自室で勉強に取り掛かる。



          †



 ノートに公式を書いたところで、シャーペンの芯が折れた。

「あ、あれ……」

 突然のことだった。

 公式を書き進めるノートの上に、水滴が一滴、二滴と落ちていく。純の目には涙があふれ、次々と零れていった。

「あ、あ、なんで……」

 視界がにじむせいで、教科書もノートも読めない。必死にぬぐっても、涙は止まらなかった。

 頭の中を満たしていたモノクロの数式は、色鮮やかな映像で塗りつぶされていく。それは、事務所で生活してきた日々の記憶だ。

「あ、あ、やばい。これは、やばい」

 目から涙を絶えず流しながら、頭を抱え込む。動悸《どうき》が激しくなり、呼吸も乱れ、体が震えだす。

 頭の中を満たすのは、今までに向けられてきたさげすむ視線。今まで感じ取ってきた、さまざまな人たちの感情。
 怒号に、ナイフのような言葉。マネージャー同士の会話。女子高生たちの会話。あいつは必要ない、とはっきり言われたあの瞬間。

 それらがすべて、純の頭の中を目まぐるしく回っていく。

「はー……はー……」

 スタッフにもファンにも必要とされていない。自分の存在価値はない。存在価値をみいだせない。最初から自分の居場所はそこになかった。

 いや、わかっている。本当は自分自身で実力を身に着け、認めてもらうべきなのだと。なにも結果を残せず、誰ともうまくかかわれない自分自身が悪いのだと。

 そう思えば思うほど、純は、受験勉強というものを盾にして逃げているのではないかと自身を責める。自分の選択は正しかったと思いながらも、自分が悪いのだと考えてしまう。

「こんなことなら、アイドルにならなければよかった……」

 戻ったところで、純はまた拒絶されるだけだ。戻る必要が、どこにあるというのか。

「俺だって、なりたかったわけじゃない……! 一人がよかった。一人で幸せだったのに。パパとママのために力を使えたら、それでよかったのに……」

 頭の中にある両親との思い出も、月子とのやり取りも、嫌な記憶が埋め尽くしていく。向けられ続けた黒い感情に、純は限界を迎えていた。

 人一倍敏感な純は、人一倍繊細で、もろい。

「いっそ……死んで、消えてしまえたら、いいのかなぁ……」

 純は目を袖でこすり、鼻をすすった。



          †



 自身の暗い感情に飲み込まれている場合ではない。荒い呼吸で手当たり次第に教科書や参考書を開いていく。

 勉強すべきだとわかっているのに、涙は一向に止まらない。

「う、うぅ……」

 涙で視界がにじむからか、公式も問題文も頭に入ってこない。頭には映像と声が再生されっぱなしで、新しい情報を入れる隙間がなかった。

「ああ、もう、無理かもしれない……」

 今は、冷静じゃない。わかっている。

 純は広げていた教科書と参考書を閉じ、重ねて置いていく。

「ちょっと、休憩しよう」

 受験生だからと焦っては逆効果だ。純はしゃくりあげながら立ち上がる。震える手で涙をぬぐいながら部屋を出た。

 両親が家にいなくてよかった。こんな顔を見れば心配するに決まっている。充血した目に腫れたまぶた、鼻先も少し赤くなっていた。

 純は、ダイニングキッチンのポットで沸かしたお湯を、紅茶のパックが入ったカップに注いだ。琥珀こはく色になったころを見計らい、パックを取り出して捨てる。

 持ちあげたカップに口をつけることなく、湯気が上がるのを見つめていた。湧き上がる爽やかな匂いだけでも、気持ちを落ち着かせるには十分だ。

 息を吹きかけてさましていると、リビングの壁掛け時計が目に入る。時間は二十三時半。

「……ちょっと見るだけなら、いいかな」

 カップを持ったまま暗いリビングに向かう。ソファに座り、テーブルに置いていたリモコンを手に取った。

 正面にあるテレビをつけ、チャンネルを変える。画面には恵の姿が映っていた。

「――うっわ、最低! ――」

 放送されているのは、星乃恵の冠番組。ホラーにハニートラップ、落とし穴。なんでもござれのドッキリ番組だ。
 ドッキリの構成を恵が考えることにも定評があり、その精巧さから芸人やタレントに恐れられている。星乃恵を代表する番組の一つだ。

 今日の放送回は、売れっ子芸人の本性を探るために、子役を使ってドッキリを仕掛ける、というものだった。意外な一面を見せる芸人もいれば、子役に冷たい態度をとる者、想定外のドジをやらかす者もいる。

 純は番組を見ながら、背もたれにのしかかって紅茶を飲んでいた。恵と芸人のスタジオトークに、笑みがこぼれる。

「――ちっちゃい子にとる態度じゃないだろ、あれは。――」

「――いやいや、俺みたいなのが話してたら通報されますやん! ――」

「――そこ心配すんの?――」

「――プライベートでまで不審者扱いされたないんですよ! ――」

 MCの恵は終始笑顔だ。芸人のトークにフォローを入れ、うまく引き出しては突っ込んでいた。

「やっぱり、天職だよ。パパは、すごい」

 裏で思考錯誤しながらも、楽しんで収録に臨んでいる。共演者もまた、恵のことを信頼しているようだった。

 テレビの中はとにかく明るくて、賑やかで、楽しそうだ。

「パパも、ママも、まだまだ活躍し続ける」

 これはもう決定事項だ。その未来は、ちゃんと視えている。

 もし、今、死んでしまえば両親に――二人に関わる全ての人に迷惑がかかる。両親は息子が消えた喪失感を隠しながら仕事を続け、共演者たちは二人に気を遣うことになる。そんなことは望んでいない。

 そんなことで、両親に迷惑をかけたくない。

 純の目に、再び涙が浮かんでくる。

「だから、まだ、生きていなくちゃ」

 アイドルを辞めることができないように、自分で死ぬこともままならない。

 純の目から、涙が一筋、流れ落ちる。

「パパと、ママの仕事を、邪魔しないようにがんばらなきゃ」

 少し冷めた紅茶を一気に飲み干し、テレビを消した。



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