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一年目
現状で言えること
しおりを挟む革張りの高価なソファに、純は腰を下ろす。ローテーブルでは、紅茶が湯気を立てていた。
「おめでとう、純ちゃん」
正面に座る社長が穏やかに笑う。今日もピンクのスーツにギラギラとした装飾品で、派手に決めていた。
「純ちゃんは賢いもの。輝優館って聞いたときは少し心配だったけど、とりこし苦労だったわね。ご両親にはもう伝えた?」
「はい。二人とも喜んでくれてます」
「じゃあ、今日はごちそうね」
純の視線が、社長が座るソファの後ろに向かう。そこには、かっちりとした身だしなみの女性秘書が待機していた。小さい紙袋を両手の指先で持っている。
純の視線に気づいた社長が口を開いた。
「合格祝いとして、あなたに渡しておきたいものがあるの。受け取って」
秘書から紙袋を受け取った社長は、中から白い封筒をとりだし、純に差し出した。
「……えっと」
中身が何か、大体の察しはついている。純が手を伸ばすのをしぶっていると、社長は苦笑した。
「変なこと心配しないで。合格した子みんなに渡してるの。あなたには、会長からのぶんも入ってるけど」
「会長から?」
目を見開く純に、社長は喉を鳴らす。
「そうよ。気兼ねなく受け取って」
純はおそるおそる受け取った。少し厚みがある。
「わかりました。ありがとうございます。会長にも、お礼を言わないとですね」
「いいわよ、別に。関わってほしくないんだもの。帰ったら、お父さんとお母さんにちゃんと渡すのよ? いいわね? 」
純は返事をしてカバンに封筒をしまい込んだ。
「勉強を優先させるって約束は、ちゃんと守るわ」
社長の声が、神妙なものに変わる。純が視線を向けると、社長は強気な笑みを浮かべていた。
「スタッフたちには私のほうから伝えておく。熊沢に相談すれば、スケジュールをうまく調整してくれるはずよ。彼は優秀だもの。……そうでしょう?」
社長の言う優秀の基準をまず知りたいものだが、今の社長を見ただけでは読み取れない。
「……ええ。とても、優秀な方ですね」
社長がそう言っている以上、マネージャーを変えるべきだと進言することはしなかった。
「実は正直、休暇が明けたら辞めちゃうんじゃないかって思ってたのよ」
社長はテーブルの紅茶を手に取り、続ける。
「ウチは厳しいから、そうやって辞めていく子も、結構いるの。でも、あなたには他のメンバーともっとかかわって、支えてあげてほしいと思ってるから」
純も置かれていた紅茶を、ソーサ―とともに持ち上げる。口をつけたが、熱くて顔を引いた。
「それで、イノセンスギフトはどう? さすがに何人かとは話してみたでしょう?」
社長は平然と、優雅に紅茶を飲んでいた。その姿に、純は言葉を選びながら声を出す。
「マネージャーさんは、みんなのこと、優しいって言ってましたね」
社長の眉がぴくりと動く。
「俺も、稽古や仕事に熱心で、真面目な人たちだと思います」
再びカップを口に近づけ、冷ますよう息をふきかける。口をつけてすすり、ほうっと息をついた。
社長が腑に落ちない表情で返す。
「……あなた、恵に対してはもっと、こう、はっきり言うじゃない? これはするな、とか。この人はこういう性格だからこうしたほうがいい、とか。そういうのはないの?」
「すみません。まだ、わからないんです」
純はキツネ目を細め、社長を見すえた。妖しい不思議な空気を身にまとう。
「メンバーもマネージャーもスタッフも、出会ってからまだ一年もたってませんから、未確定なことが多くて」
「じゃあ、まだ、売れるか売れないか、判断できないってこと?」
その言葉尻には、失望と焦燥が感じ取れた。純は笑みを浮かべたまま、穏やかな口調で返す。
「すみません。なにぶん、俺はダンスが苦手なもので。ダンスばかりに時間をとられて、余裕がないんです」
今は、グループの足を引っ張らないようにすることで精いっぱいだ。
「あら、そうだったの。ダンス、難しい? 難易度は下がってるはずだけど」
「難しいですねぇ。でも、これに関しては俺が頑張らなきゃいけないことですから。それに……」
純は声色を、真面目なものに変える。
「イノセンスギフトに目立った不安要素はありません。しばらくは、問題なく活躍していけるでしょう」
少なくとも、社長の息がかかっている限りは。という言葉を、紅茶とともに飲み込む。
「そう。まだ一年目だもの。そんなものなんでしょうね」
社長はしかたがないとばかりにため息をついた。ふと、何かを思い出したように声を上げる。
「ああ、そうそう。このあいだ熊沢とあなたのことを話したのよ。面談したときの内容だからあんまり本人に言っちゃダメなんだけど、あなたのこと褒めてたわ。優しくて、素直で、努力家のいい子、だって」
単純で、空気も読めず、無駄に頑張って何の結果も出せないやつ。うまい言い方だ。
「メンバーの子たちも、新人のあなたをフォローしようっていきこんでるみたいよ。うまくなじめてるようでよかったわ」
「そうですか」
にっこりと笑って、紅茶に口をつける。わざわざ反論するつもりはない。
純の反応を真剣に見すえる社長は、語気を強めた。
「あなたが力を使うためなら、なんでも協力するわ。あなたのことは大事にしてるし期待してるの。引き続き、よろしく頼むわね」
最後の最後で、さりげなく圧をかけてきた。純が笑みを崩すことはない。
「もちろんです。じゃあ、俺はこの辺で」
純は、まだ中身が残っているカップを、ソーサ―ごとテーブルに置く。
「あら、もういくの?」
「はい。少しでもダンスの練習がしたいので」
純は立ち上がり、カバンを背負う。礼儀正しく頭を下げて、社長室を後にした。
扉が閉まった社長室の中、社長の後ろにひかえていた秘書の声が響く。
「よろしかったのですか?」
「いいのよ。本当に困ったときは自分から言う子だから」
先ほどよりも、室内の空気は引き締まっている。社長は薄い笑みを浮かべ、平然と紅茶に口をつけた。
「タイミングを見てるんだわ。私たちが思う以上に賢いのよ、あの子」
「ですが、言い出したときにはすでに終わりという可能性も」
「そのときは私が信用されてなかったってことだし、見限られたってことだわ。いいじゃない。気長に待ってやろうじゃないの」
カップをソーサーに置いた社長の目が、鈍く光る。
「……あの子たちが、純ちゃんを残すように決めてくれてほんとうによかった。もし辞めるよう頼んできたら、私が、あの子たちを、見限るところだったわ」
秘書は返事をしない。社長を不快にさせぬよう静かに離れ、純が飲み残した紅茶のカップを下げた。
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