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一章
1−7
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主人は首を動かして顔だけをこちらに向け、何処か恨めし気な眼差しを送ってくるが、無いものは無いので僕も困った顔をするしかない。
「ご主人様が付けてくれればいいんじゃないですか?」
「名前を付けるっていうのはな、そう簡単なモンじゃねぇんだ。 首輪付けて従属にするよりももっと強い繋がりが生まれちまうんだよ。 あとご主人様はやめろ」
成程、家畜に戯れに名前を付けるようなものではないらしい。彼の紋章の入った首輪のレリーフに触れ、これは飽くまで仮初の従属を示すものだということを思い出す。契約はしても奴隷にするつもりは無いと口を酸っぱくして言われているのだから、今以上繋がりが濃くなってしまっては宜しくないのだろう。
無理強いをしたい訳ではない。だが、この短い時間で彼が悪い男ではないと感じていたし、彼にはとても優しくしてもらった。自分でも簡単に人を信じすぎている、チョロいものだと思ってしまうところはあるが、この人の従属になら成ってもいいのではないかと考え始めてもいる。もしかすると名前を付けられることで、首輪を外した後の生活に支障が出るのかもしれない。例えば村に帰れなくなるとか、この人の庇護の無い場所では暮らしていけなくなるとか。それでも。
「……でも僕は、ご主人様に、名前を、付けて貰いたい、です……」
膝の上に手を置いて俯くと、段々と語尾が小さくなっていく。手を軽く握ると、先ほど切った指先から掠れた血が膝の上に伸びた。大した量ではないのですぐに乾いてしまったそれを、手持ち無沙汰に手のひらでゴシゴシと拭う。重い沈黙──ということもなく、未だ彼はテーブルの上であーだのうーだの唸りながら頭を抱えている。これでは埒が明かない。
「た、例えば、例えばですよ」
ぱちんと一つ手を叩いて、恨めしそうな顔をした主人の顔を覗き込む。不機嫌としか思えない三白眼、鈍い色をした琥珀の瞳がこちらを捉えて一瞬ドキリと心臓が跳ねる。しかし口を開いてしまったからにはその追及から逃れることはできないだろう、ゆっくりと肩を落としていくと、同じくして彼も己の表情の険悪さに気付いたのか深い皴が刻まれた眉間に指を押し付けてから、鋭い眼力は変わらないものの促すように視線を泳がせた。
僕は小さく息を吸って薄く吐き、深呼吸して気持ちを落ち着けると、思い付きでしかない一つの提案を口にした。
「例えば、昔飼っていた愛玩動物の名前だとか、乗ったことのある船の名前だとか、そういうのを便宜上僕に与える、というのは駄目なんでしょうか?」
「そんな簡単なら苦労しねぇよ」
「ですよね……」
わかりきっていたことではあるが、個人的には良策だと思った案が一刀両断されてがっくりと肩を落とす。やはり学がないというのはこういう時に平凡なことしか考えられないのでよくない。俯き気味の顔から上目遣いに視線だけを主人に向け、その様子を伺ってみる。先ほどのように唸ったりはしていないが、腕を組みやはり不機嫌そうに宙を睨んでいた。逞しい腕の節をトントンと指で叩き、幾許か思案の表情を浮かべている。すでに考えることを放棄した僕は、険しい表情の主人を見上げることしか出来なかった。
「……苦労はしねぇ、んだが」
への字に曲げられた唇が薄く開かれ、忌々しげに低い声が紡がれる。強面に加えてドスの効いた低音の声音が乗っているのだ、その調子で人付き合いはうまく行っているのだろうかと少々心配になる。夜の狩人が獲物を探すかのように鋭い眼光が、何もないテーブルの上を滑っていく。
「……逃げ道はあるな」
「逃げ道?」
ああ、と主人は頷きながら僕の背中──にある背の高い椅子の背もたれに手を回し、その木枠をコンコンと叩いて見せた。
「これの名前は?」
「……椅子、ですか?」
「ああ。 だが、椅子ってのは家具の種類であって、コレの名前じゃない」
曰く、強引な手ではあるが、固有名詞でなく総称であれば、その名で呼んだとて特別な意味を持たない。筈だ、と主人は続けた。愛玩動物に名前を付けるのではなく、その動物の名前で呼ぶ、というようなものだろうか。だとすると、僕はなんと呼ばれることになるのだろうか?流石に村人だとか子供だとか、少年などという大凡名前には向かないものではないとは思うのだが。
「そうだな……、……ポーター……いや、グルーム……」
角ばった顎に指を這わせ、髭の剃り残しのないそこを神経質に撫でながら、小声でぽつぽつと単語を呟いていく。聞き覚えのないそれらが何を意味する名前なのかは当然計り知れないが、途中否、違う、と小さくかぶりを振るので、それぞれ何かしらの意味合いを含むのだろう。
「……ペイジ。 そうだ、ペイジでいいじゃねぇか」
ふと、思い至った様子で主人が比較的明るい声を出した。やはり耳慣れない単語故に何がいいのかは全くわからないが。
「ペイジ、小姓って意味だ。 それも唯の小姓じゃねぇ、教養に溢れた小間使いだ」
「ぼ、僕に強要なんて……」
「これから覚えていきゃいいんだよ」
時間ならある───主人はそう言って困ったように眉根を寄せながら、ぎこちなく笑った。
「ご主人様が付けてくれればいいんじゃないですか?」
「名前を付けるっていうのはな、そう簡単なモンじゃねぇんだ。 首輪付けて従属にするよりももっと強い繋がりが生まれちまうんだよ。 あとご主人様はやめろ」
成程、家畜に戯れに名前を付けるようなものではないらしい。彼の紋章の入った首輪のレリーフに触れ、これは飽くまで仮初の従属を示すものだということを思い出す。契約はしても奴隷にするつもりは無いと口を酸っぱくして言われているのだから、今以上繋がりが濃くなってしまっては宜しくないのだろう。
無理強いをしたい訳ではない。だが、この短い時間で彼が悪い男ではないと感じていたし、彼にはとても優しくしてもらった。自分でも簡単に人を信じすぎている、チョロいものだと思ってしまうところはあるが、この人の従属になら成ってもいいのではないかと考え始めてもいる。もしかすると名前を付けられることで、首輪を外した後の生活に支障が出るのかもしれない。例えば村に帰れなくなるとか、この人の庇護の無い場所では暮らしていけなくなるとか。それでも。
「……でも僕は、ご主人様に、名前を、付けて貰いたい、です……」
膝の上に手を置いて俯くと、段々と語尾が小さくなっていく。手を軽く握ると、先ほど切った指先から掠れた血が膝の上に伸びた。大した量ではないのですぐに乾いてしまったそれを、手持ち無沙汰に手のひらでゴシゴシと拭う。重い沈黙──ということもなく、未だ彼はテーブルの上であーだのうーだの唸りながら頭を抱えている。これでは埒が明かない。
「た、例えば、例えばですよ」
ぱちんと一つ手を叩いて、恨めしそうな顔をした主人の顔を覗き込む。不機嫌としか思えない三白眼、鈍い色をした琥珀の瞳がこちらを捉えて一瞬ドキリと心臓が跳ねる。しかし口を開いてしまったからにはその追及から逃れることはできないだろう、ゆっくりと肩を落としていくと、同じくして彼も己の表情の険悪さに気付いたのか深い皴が刻まれた眉間に指を押し付けてから、鋭い眼力は変わらないものの促すように視線を泳がせた。
僕は小さく息を吸って薄く吐き、深呼吸して気持ちを落ち着けると、思い付きでしかない一つの提案を口にした。
「例えば、昔飼っていた愛玩動物の名前だとか、乗ったことのある船の名前だとか、そういうのを便宜上僕に与える、というのは駄目なんでしょうか?」
「そんな簡単なら苦労しねぇよ」
「ですよね……」
わかりきっていたことではあるが、個人的には良策だと思った案が一刀両断されてがっくりと肩を落とす。やはり学がないというのはこういう時に平凡なことしか考えられないのでよくない。俯き気味の顔から上目遣いに視線だけを主人に向け、その様子を伺ってみる。先ほどのように唸ったりはしていないが、腕を組みやはり不機嫌そうに宙を睨んでいた。逞しい腕の節をトントンと指で叩き、幾許か思案の表情を浮かべている。すでに考えることを放棄した僕は、険しい表情の主人を見上げることしか出来なかった。
「……苦労はしねぇ、んだが」
への字に曲げられた唇が薄く開かれ、忌々しげに低い声が紡がれる。強面に加えてドスの効いた低音の声音が乗っているのだ、その調子で人付き合いはうまく行っているのだろうかと少々心配になる。夜の狩人が獲物を探すかのように鋭い眼光が、何もないテーブルの上を滑っていく。
「……逃げ道はあるな」
「逃げ道?」
ああ、と主人は頷きながら僕の背中──にある背の高い椅子の背もたれに手を回し、その木枠をコンコンと叩いて見せた。
「これの名前は?」
「……椅子、ですか?」
「ああ。 だが、椅子ってのは家具の種類であって、コレの名前じゃない」
曰く、強引な手ではあるが、固有名詞でなく総称であれば、その名で呼んだとて特別な意味を持たない。筈だ、と主人は続けた。愛玩動物に名前を付けるのではなく、その動物の名前で呼ぶ、というようなものだろうか。だとすると、僕はなんと呼ばれることになるのだろうか?流石に村人だとか子供だとか、少年などという大凡名前には向かないものではないとは思うのだが。
「そうだな……、……ポーター……いや、グルーム……」
角ばった顎に指を這わせ、髭の剃り残しのないそこを神経質に撫でながら、小声でぽつぽつと単語を呟いていく。聞き覚えのないそれらが何を意味する名前なのかは当然計り知れないが、途中否、違う、と小さくかぶりを振るので、それぞれ何かしらの意味合いを含むのだろう。
「……ペイジ。 そうだ、ペイジでいいじゃねぇか」
ふと、思い至った様子で主人が比較的明るい声を出した。やはり耳慣れない単語故に何がいいのかは全くわからないが。
「ペイジ、小姓って意味だ。 それも唯の小姓じゃねぇ、教養に溢れた小間使いだ」
「ぼ、僕に強要なんて……」
「これから覚えていきゃいいんだよ」
時間ならある───主人はそう言って困ったように眉根を寄せながら、ぎこちなく笑った。
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