上 下
1 / 9

陛下に、文をしたためましょう。

しおりを挟む

 どうして皇帝陛下は、後宮にいらして下さらないのかしら。

 リーファは、唇を指先で舐めながらジッと鏡を眺めた。

 人に可憐だと褒めそやされる、真っ白な髪に赤い瞳の容姿。
 体つきや顔立ちは歳のわりに『我ながら幼い』とも思うが、成人してからこっち、婚姻の誘いが絶えない程度には優れている、らしいのに。

 そんな外見も、彼の方がお見えにならなければ全く意味のないものだ。

「本日はどのように過ごされますか?」

 政府の重鎮である父に頼み、後宮に輿入れしたのが一ヶ月ほど前。
 一緒に後宮に入った、長年面倒を見てくれている侍従のサイラが発した言葉に、リーファは目を向けながら答える。

「そうね……恋文でも書こうかしら?」
「陛下にですか?」
「私が、他の誰に書くと言うの?」

 サイラは歳が五つ離れている。
 自分とは違い、烏の濡羽と呼ばれる紫黒の髪と褐色の肌を持ち、涼しげな目元の美貌、メリハリの効いた色気のある肢体の彼女は、静々と微笑んだ。

「リーファ様は、本当に皇帝陛下がお好きですね」
「当然よ。あれほど知性に優れて、お優しい方がどこにいると言うの?」

 リーファは腰に手を当てて、ぷぅ、と頬を膨らませる。

「はしたないですよ」
「貴女の前でくらい、いいじゃない」

 皇帝陛下が即位して、もうすぐ五年になる。
 しかし後宮には美女が揃っているというのに、世継ぎどころか正妃の話も出ない、という有様。

 聞くところによると、そもそも後宮に足をお運びにならないと聞いて、リーファはいても立ってもいられなくなったのだ。

「理由は分かってるのよ。きっと、どうせ、お高く止まった美女が皇帝陛下の容姿を理由に、無礼な気持ちを抱いているのを察しておられるに違いないわ!」
「……そのことについて、私の口から何かを述べるのは憚られます」

 サイラの苦笑に、リーファは気分を悪くした。

 醜姿の皇帝。
 現帝がそう影で嘲笑されているのを、当然のことながら知っている。

 皇帝陛下は、頭が大きく、手足が短く、糸のような細い目にカエルのように平べったい顔をしているのだ。

 だが。

「あの方は、お目見えの輿に乗ったご自身を賊が狙い、とっさに前に出た私を剣で裂いた時……真っ先に身を案じて下さったのよ」

 警護の者達が賊を始末し、ざわめく衆人環視の中。
 誰も、輿の花として大外で舞っていた幼いリーファの命など、気にもしていなかったのに。

『無事に在れ。朕のような者を飾る祝いの花のまま手折られ、散ってはならぬ』

 真にこちらの身を案ずる声音。

 近づき、高貴の衣が血に汚れるのも厭わず、抱き上げ、配下に指示して宮廷で治療を施してくれた。

 そのおかげで、リーファは一命を取り止めたのだ。

 それまで、あの方に通り一遍以上の興味はなかった。
 父は重鎮だが、権を過分に欲する人柄でもなく、輿入れの話など全く出なかったから。

「ねぇ、知ってる? 陛下の詠む詩の美しさを。あの方が治水と法治にどれほどの熱意を傾けて、民に尽くしておられるのかを」

 陛下は賢帝だ。
 父以外の重鎮たちは誰も褒めそやさないが、話を聞くと本当に、劇的なほどに民の暮らしぶりは良くなったのだ。

「そうしたお話は、もう何年も耳にタコが出来るほどに聞かされておりますよ」
「皆が知っていれば、世継ぎの大切さを誰よりも知っておられるはずの陛下が、後宮に来ないなんてことがあるわけないでしょ!?」

 リーファは、その事実の悔しさに身震いする。

「ご聡明な方だもの。あれほど瑞々しく美しい詩を詠むのだから、人の気持ちにもお聡いのよ。……誰が自分を嫌う者の元へ、好んで赴きたいと思うの」

 抱かれたくない、と感じていることが分かる相手に、夜這いなど。

「だから私が来たのよ! なのに! ご尊顔を見ることも叶わないとは思わないじゃない!」
「リーファ様のお気持ちはわたくしめには十分伝わっております。後はその熱い想いを、陛下への恋文にしたためて下さいませ。今、紙と筆を用意いたしますから」

 クスクスと笑いながら、サイラが部屋を出て行く。

「絶対陛下にお目通りするわ。後宮に入った以上、来てもらわければ会えないしね!」

 袖をまくりながら、リーファは意気込み……それから毎日、文を送った。

『月下美人の庭で、私はいつまでもお待ち申し上げております』

 そんな言葉を〆にリーファは陛下に興味を持っていただけそうな毎日の事柄を記す。
 時に文の中で詩を詠み、好ましい楽のことを語り、陛下はどう思われますかと投げかける。

 終われば琴を爪弾き、舞いを踊り、お茶と菓子の類いを用意して朝から晩まで、可能な限りを庭で過ごした。

 そうして一月が経った頃。
 夕刻も近い時間に『陛下が後宮に足を運ばれた』と、サイラから報告があった。

※※※
 
 祝いの時以外には来ぬ、と評判の皇帝陛下の出迎えに、侍従達が慌ただし動く中。
 
 リーファは明るい気持ちで、席を立ち、彼が来るのを待っていた。
 やがて複数の足音と喧騒が、庭の方に近づいてくる。

 そうして姿を見せた陛下は……相変わらずお変わりはないようだった。

 歳を多少は食っているはずなのだが、あいも変わらずずんぐりむっくりとした容姿と、あまり似合っているとは言い難い高貴の衣。

 それでも、所作の端々に洗練されたものを感じたリーファは、満面の笑顔でそのお姿を眺めた後にゆっくりと頭を下げる。

「お待ち申し上げておりました、皇帝陛下!」

 リーファは頭を上げたが、なぜかジッと立ち尽くしたまま、何も言わない陛下に首をかしげる。

「陛下、お座りになられませんか?」

 声が弾むのを抑えきれないまま東屋の席を勧めると、彼は黙ったまま動き、浅く腰かける。

「私の文を、ご覧下さいましたか?」

 ニコニコと問いかけると、陛下は小さく頷かれる。

「文の中に記した何が、陛下のお心の琴線を震わせることが出来たのでしょう? やはりお詩でしょうか? 陛下の詠まれるものに比べれば、拙くてお恥ずかしい限りでございますけれど」

 すると、皇帝陛下はゆっくりと目線を上げて下さり、リーファと目が合う。
 糸のように細い目の奥に、深い知性の色と、どことなく不安げなものを感じながら、口を開くのを待った。

「……そなたは」
「はい」
「なぜ一月もの間、文を?」

 その言葉に、リーファは目をぱちくりと瞬く。

「もちろん、陛下にお目通りをして、こうして言葉を交わす為にございますよ」
「何ゆえに」

 陛下は本当に不思議がっているようだった。
 そして続いた言葉に、リーファは驚き、息が詰まった。


「そなたは、賊に襲われた、あの時の幼子であろう……?」


 覚えていてくれた。

 驚きが去ると、徐々に喜びがこみ上げてくる。

 陛下は、覚えていて下さった。

「その節は……誠に、ありがとうございました……」

 嬉しいのに、声が震えそうになる。
 そして、涙がこぼれそうになる。

「こうして、お顔を拝見してお礼を述べることも、以前は、叶いませんでした……」

 年頃になった婚姻前の子女は、夜会以外で皇居に赴くことが出来なかったから。

「その為に、後宮に?」

 陛下は驚かれ、糸目が少しだけ開いた。
 その奥にある瞳は鮮やかな緑で、思いの外美しく夕暮れの日の光を照り返している。

 しかしリーファは、そっと袖口で涙を拭いながら、首を横に振った。

「いいえ。いいえ。目的の一つではありましたけれど、決して、それだけではございません」
「では、何ゆえ?」

 おそらくは、女性との会話には慣れないのだろう。
 まるで片言のように言葉を繰り返すが、その声音はこちらへの気遣いで溢れていた。

「私は、陛下の、そのお人柄に惹かれたのでございます。決して、派手ではなくとも、素晴らしい民への想いや、ご自身の優しさを、私は存じ上げておりますから」

 リーファは、それから様々なことを話し続けた。
 陛下がこちらに興味を持ち、少しずつ緊張が解きほぐれて行くのが分かる。

「……そなたは、決して強要されたわけでも、朕の権が目当てでもないのだな」
「左様にございます、陛下」

 日も完全に暮れかけてきたので、リーファは伝える。

「今日はもう、お仕舞いにいたしましょう。私はずっとここにおりますので、いつでもおいで下さい。そして宜しければ私を愛妾としていただければ、幸いにございます」
「……正妃ではなく、か?」

 戸惑ったような陛下に、リーファは晴れやかに笑みを返す。

「はい。私は、陛下と共に在ることの他に、陛下の魅力を後宮の者たちに伝え、相応しい正妃となれる方を、見極めに来たのです!」
「……?」
 
 本日三度めの驚きを見せた陛下に、申し訳ないと思いながらも、リーファは言葉を重ねる。

 叶うことならば、彼に添い遂げるために、ここで尽くしたいと思ってはいたが……それを出来ない理由は、告げなければならなかった。

「あの時の怪我がもとで、私は、子を授かることの出来ぬ体にございますから!」
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

時間が戻った令嬢は新しい婚約者が出来ました。

屋月 トム伽
恋愛
ifとして、時間が戻る前の半年間を時々入れます。(リディアとオズワルド以外はなかった事になっているのでifとしてます。) 私は、リディア・ウォード侯爵令嬢19歳だ。 婚約者のレオンハルト・グラディオ様はこの国の第2王子だ。 レオン様の誕生日パーティーで、私はエスコートなしで行くと、婚約者のレオン様はアリシア男爵令嬢と仲睦まじい姿を見せつけられた。 一人壁の花になっていると、レオン様の兄のアレク様のご友人オズワルド様と知り合う。 話が弾み、つい地がでそうになるが…。 そして、パーティーの控室で私は襲われ、倒れてしまった。 朦朧とする意識の中、最後に見えたのはオズワルド様が私の名前を叫びながら控室に飛び込んでくる姿だった…。 そして、目が覚めると、オズワルド様と半年前に時間が戻っていた。 レオン様との婚約を避ける為に、オズワルド様と婚約することになり、二人の日常が始まる。 ifとして、時間が戻る前の半年間を時々入れます。 第14回恋愛小説大賞にて奨励賞受賞

ぽっちゃりな私は妹に婚約者を取られましたが、嫁ぎ先での溺愛がとまりません~冷酷な伯爵様とは誰のこと?~

柊木 ひなき
恋愛
「メリーナ、お前との婚約を破棄する!」夜会の最中に婚約者の第一王子から婚約破棄を告げられ、妹からは馬鹿にされ、貴族達の笑い者になった。 その時、思い出したのだ。(私の前世、美容部員だった!)この体型、ドレス、確かにやばい!  この世界の美の基準は、スリム体型が前提。まずはダイエットを……え、もう次の結婚? お相手は、超絶美形の伯爵様!? からの溺愛!? なんで!? ※シリアス展開もわりとあります。

不吉だと捨てられた令嬢が拾ったのは、呪われた王子殿下でした ~正体を隠し王宮に上がります~

長井よる
恋愛
 フローレス侯爵家の次女のレティシアは、この国で忌み嫌われる紫の髪と瞳を持って生まれたため、父親から疎まれ、ついには十歳の時に捨てられてしまう。  孤児となり、死にかけていたレティシアは、この国の高名な魔法使いに拾われ、彼の弟子として新たな人生を歩むことになる。  レティシアが十七歳になったある日、事故に遭い瀕死の王子アンドレアスを介抱する。アンドレアスの体には呪いがかけられており、成人まで生きられないという運命が待ち受けていた。レティシアは試行錯誤の末、何とか呪いの進行を止めることに成功する。  アンドレアスから、王宮に来てほしいと懇願されたレティシアは、正体を隠し王宮に上がることを決意するが……。  呪われた王子×秘密を抱えた令嬢(魔法使いの弟子)のラブストーリーです。  ※残酷な描写注意 10/30:主要登場人物•事件設定をUPしました。  

魔力なしと虐げられた令嬢は孤高の騎士団総長に甘やかされる

橋本彩里(Ayari)
恋愛
五歳で魔力なしと判定され魔力があって当たり前の貴族社会では恥ずかしいことだと蔑まれ、使用人のように扱われ物置部屋で生活をしていた伯爵家長女ミザリア。 十六歳になり、魔力なしの役立たずは出て行けと屋敷から追い出された。 途中騎士に助けられ、成り行きで王都騎士団寮、しかも総長のいる黒狼寮での家政婦として雇われることになった。 それぞれ訳ありの二人、総長とミザリアは周囲の助けもあってじわじわ距離が近づいていく。 命を狙われたり互いの事情やそれにまつわる事件が重なり、気づけば総長に過保護なほど甘やかされ溺愛され……。 孤高で寡黙な総長のまっすぐな甘やかしに溺れないようにとミザリアは今日も家政婦業に励みます! ※R15については暴力や血の出る表現が少々含まれますので保険としてつけています。

【完結】傷物令嬢は近衛騎士団長に同情されて……溺愛されすぎです。

早稲 アカ
恋愛
王太子殿下との婚約から洩れてしまった伯爵令嬢のセーリーヌ。 宮廷の大広間で突然現れた賊に襲われた彼女は、殿下をかばって大けがを負ってしまう。 彼女に同情した近衛騎士団長のアドニス侯爵は熱心にお見舞いをしてくれるのだが、その熱意がセーリーヌの折れそうな心まで癒していく。 加えて、セーリーヌを振ったはずの王太子殿下が、親密な二人に絡んできて、ややこしい展開になり……。 果たして、セーリーヌとアドニス侯爵の関係はどうなるのでしょう?

心の声が聞こえる私は、婚約者から嫌われていることを知っている。

木山楽斗
恋愛
人の心の声が聞こえるカルミアは、婚約者が自分のことを嫌っていることを知っていた。 そんな婚約者といつまでも一緒にいるつもりはない。そう思っていたカルミアは、彼といつか婚約破棄すると決めていた。 ある時、カルミアは婚約者が浮気していることを心の声によって知った。 そこで、カルミアは、友人のロウィードに協力してもらい、浮気の証拠を集めて、婚約者に突きつけたのである。 こうして、カルミアは婚約破棄して、自分を嫌っている婚約者から解放されるのだった。

貴方といると、お茶が不味い

わらびもち
恋愛
貴方の婚約者は私。 なのに貴方は私との逢瀬に別の女性を同伴する。 王太子殿下の婚約者である令嬢を―――。

薬仙娘々の官能恋愛事情

冰響カイチ
恋愛
琳榎は薬王と名を馳せる陳子皇の愛弟子だ。 先だってその薬王から免許皆伝を賜り、生まれ育った連山から独り立ちをせまられていた。 連山で薬草採取していたとき、妖怪に襲われそうに。 そこに現れたのはーーーー

処理中です...