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6・そして鈍亀は玄武へ
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1952年に南部島嶼地域に侵攻した韓国政府に民族派が呼応して勢いづく事になった。
そして1953年夏ごろに起こったのが、半島南西部での共産党狩りであった。
そもそも、南西部は被差別地域といて朝鮮内で差別される対象となっており、共産党狩りと言う口実の下、民族浄化が行われていたというのが実態であったのだが、当時は詳細な事は分かっていなかった。
ただ、民族浄化に熱を上げる済州島勢力や民族派は共産派との抗争を半ば忘れた状態であり、他地域ではじりじりと劣勢を強いられる状況になっていた。
この頃、済州島を介して民族派にも米国の支援の手が伸びていたのだが、それは民族浄化へと無駄に消費されていた。
1954年を迎える頃、そんな南西部を発った一隻の貨客船があった。
後にセオル号事件として歴史に名を刻むことになるが、民族浄化を逃れた年少者を中心とした600人近い乗客を抱えての出港であったという。
1954年1月23日に密かに出港したセオル号は一路日本を目指していた。
しかし、24日の日の出を迎える頃、突如船腹で爆発が発生して沈没してしまう。
出港時点での目的地は済州島と偽っていたこともあって、沖合に出るまではひたすら南下し、徐々に東へ転進、博多を目指していたとされている。場所が五島列島沖合であった事から当時の朝鮮各勢力は日本による攻撃として一致して大々的に日本非難を始めることになる。
紛争当事者がこの事態にだけは一丸となるという異常事態であったが、その思惑はほぼ一致していた。
この当時、内戦を逃れて日本へ密航するものが後を絶たなかったので、日本が如何に怖い国かを強調したかったのだと言われている。
日本国内でもこれに呼応する勢力が存在し、国会でも大きな問題となるが、新軍発足の僅か数か月後の事である。
議場で新軍の関与を声高に叫ぶ議員に対して、政府側は未だ実戦投入可能な有力な艦船など存在しないと答弁を繰り返す以外になかった。
もちろん、この時点で行動している潜水艦など存在しない。唯一、戦後すぐから活動を始めた掃海部隊が活動しているだけであり、何とか米軍から払い下げられた艦船の習熟に勤しむ状態であったのだが。
この事件を機に、対馬沖や日本海には多くの朝鮮海軍艦船が遊弋しだす。
彼らの口実は自国民保護だが、実体は自国民の密航阻止にあるのは明白であった。
こうして、対馬、竹島、壱岐に朝鮮海軍が徘徊するようになると、日本側も何もしない訳にはいかず、海軍艦艇の展開が行われ、小競り合いが発生する。
1954年6月には済州島周辺で襲撃事件が起こり、朝鮮海軍の潜水艦部隊が活動を始めた事が明確になるが、本格的な海軍戦力を持たない韓国政府には成す術がなかった。
当時の朝鮮海軍潜水艦の多くは、実際にはソ連軍人が運用しており、実体はほぼソ連海軍であった。
当然、本来であればセオル号事件も朝鮮海軍による襲撃を疑うべきなのだが、なぜか、揃って日本批判の姿勢を崩そうとはしなかった。
こうして戦火が拡大する中で、米国は介入すべきか否かを迷っていた。ただ、介入すればそれが半島だけでおさまるという根拠はどこにもなく、南樺太や千島が危険に晒される事態も考えられたことから、全面戦争を回避するという立場から、物資援助に留め置かれることになり、それがかえって日本への危険も増加させてしまう。
もちろんと言うべきか、やはりと言うべきか、対馬沖で日本船舶まで雷撃を受ける事態となって、日本政府は自国周辺での警備体制を強化すると表明し、現有艦船による警備をはじめ、戦闘許可を出すに至った。
もちろん、国会においても抗議する政党があり、メディアも批判的に扱った。
だが、自国の船が現に被害に遭い、犠牲者が出ている事を見れば、批判で済ませて良い事件では無かった。
1954年を迎える頃には戦後設計の伊201型である、くろしお型潜水艦の竣工が始まっており、夏以降には4隻ほどが実戦配備につくことになった。
くろしお型では呂101型で採用された45センチ魚雷が採用され、電池や電動機の改良、音響誘導装置の更なる発展もあって性能は飛躍的に向上していた。
ただ、45センチ魚雷では水上艦への打撃力で劣る事は明白であったが、戦後の新生海軍の潜水艦戦術は対潜潜水艦へと大きくシフトしており、対潜攻撃を重視した45センチ魚雷で十分とされた。
その為、伊201型に近い1200tの船体に8門を備え、16本の魚雷を搭載するという仕様であった。
戦後の技術革新もあって電動機技術も向上しており、水中速力は最大で22ノットを可能とし、更には減速機の精度向上や蓄電池の性能向上もあって巡航航続力も向上していた。
1954年中には日本周辺で12隻の船舶が襲撃され、347人もの犠牲者を出すことになったが、10月に潜水艦1隻を撃沈したのに続いて、1954年中に3隻の撃沈報告が上がる事になった。
水上艦は沿岸警戒を行う程度の規模しかないのに対し、1954年中に8隻の潜水艦が活動をはじめ、1955年に入ると1月だけで4隻を撃沈している。
相手は第二次大戦型潜水艦であった事もあって、くろしお型で容易に撃沈できた。
この事態に朝鮮政府は日本周辺での活動を停止する。あまりにも明白な事から非難声明などを出す愚行には至っていないが、朝鮮に追い詰められている韓国政府が代弁者として日本を非難しているのだから良く分からない。
その後、朝鮮内戦は圧倒的優位な共産派が半島内を制圧し、済州島制圧を恐れた米国が済州島周辺に艦隊を展開した事でほぼ終了する事となった。
日本においては短期間に大量の潜水艦撃沈を実現した事から対潜潜水艦の重要性が改めて着目され、くろしお型やその改良型であるおおしお型潜水艦が22隻整備整備されることになる。
しかし1960年には、ソ連が原子力潜水艦を実用化した事から通常動力潜水艦では能力不足だとして原潜保有論が巻き起こる事になる。
多くの反対がありながらも1965年には原潜建造が正式に決定し、おおしお型の後継とされた次世代型をベースに発電機を原子力に置き換えるという手法で建造されることになった。
こうして建造されたふそう型は大型化が著しく、水中速力が低下して18ノットとなり一部では問題視されたが、必要なのは最高速力ではなく、ソナーの性能を維持できる静粛な速度であった事から量産されることになった。
以後、艦形の変化や1軸化などが行われ、今に至っている。
ただ、原子力潜水艦は建造費や維持費が高額であり、潜水艦の保有隻数は原子力化によって最大時の22隻から減少し、今では14隻となっている。
これでもまだ潜水艦偏重として問題視されている。
非核国でありながら原子力潜水艦を持つという稀有な国となっているが、米国にとって太平洋におけるソ連封じ込めに不可欠であったことから、厳しい燃料監視はあるものの、これまで原潜保有が問題視されたことは無い。
ただ、朝鮮や中国が強襲揚陸艦や空母を持つにもかかわらず、日本の水上戦力は欧米基準でフリゲートにあたる6000t級駆逐艦8隻、4000t級駆逐艦18隻、8900t型ドック型揚陸艦4隻と、国防費に比してお世辞にも強力とは言えない規模に甘んじている。
もちろん、大きなしわ寄せは陸上にも及び、南樺太や千島の防備には充実した戦力を配置しているモノの、それ以外の地域には郷土防衛隊レベルの軽装備部隊しか配備できていない。
最近では中国による東シナ海での経済水域や離島を巡る緊張も高まっているのだが、海上保安庁や国境警備隊の重点配備でお茶を濁す事しか出来ないのが現状である。
ただ、かと言って潜水艦戦力を減らして陸上や水上へと配分すれば良いかと言うと、そう言う訳にも行かない事情がある。
潜水艦14隻と言うのは適切なコストで原子力潜水艦を維持する最低ラインとされ、これ以上減らせば更なる高コストや技術力低下も懸念されるという問題があり、削減に踏み切れてはいない。なにより、戦中、戦後の伝説的な活躍は大きな抑止力でもあり、潜水艦戦力の削減が不用意なメッセージとなりかねないのだから、安易に削減して他の戦力に転換する訳にも行かず、大きな国防上の問題となっているのは何の皮肉だろうか。
そして1953年夏ごろに起こったのが、半島南西部での共産党狩りであった。
そもそも、南西部は被差別地域といて朝鮮内で差別される対象となっており、共産党狩りと言う口実の下、民族浄化が行われていたというのが実態であったのだが、当時は詳細な事は分かっていなかった。
ただ、民族浄化に熱を上げる済州島勢力や民族派は共産派との抗争を半ば忘れた状態であり、他地域ではじりじりと劣勢を強いられる状況になっていた。
この頃、済州島を介して民族派にも米国の支援の手が伸びていたのだが、それは民族浄化へと無駄に消費されていた。
1954年を迎える頃、そんな南西部を発った一隻の貨客船があった。
後にセオル号事件として歴史に名を刻むことになるが、民族浄化を逃れた年少者を中心とした600人近い乗客を抱えての出港であったという。
1954年1月23日に密かに出港したセオル号は一路日本を目指していた。
しかし、24日の日の出を迎える頃、突如船腹で爆発が発生して沈没してしまう。
出港時点での目的地は済州島と偽っていたこともあって、沖合に出るまではひたすら南下し、徐々に東へ転進、博多を目指していたとされている。場所が五島列島沖合であった事から当時の朝鮮各勢力は日本による攻撃として一致して大々的に日本非難を始めることになる。
紛争当事者がこの事態にだけは一丸となるという異常事態であったが、その思惑はほぼ一致していた。
この当時、内戦を逃れて日本へ密航するものが後を絶たなかったので、日本が如何に怖い国かを強調したかったのだと言われている。
日本国内でもこれに呼応する勢力が存在し、国会でも大きな問題となるが、新軍発足の僅か数か月後の事である。
議場で新軍の関与を声高に叫ぶ議員に対して、政府側は未だ実戦投入可能な有力な艦船など存在しないと答弁を繰り返す以外になかった。
もちろん、この時点で行動している潜水艦など存在しない。唯一、戦後すぐから活動を始めた掃海部隊が活動しているだけであり、何とか米軍から払い下げられた艦船の習熟に勤しむ状態であったのだが。
この事件を機に、対馬沖や日本海には多くの朝鮮海軍艦船が遊弋しだす。
彼らの口実は自国民保護だが、実体は自国民の密航阻止にあるのは明白であった。
こうして、対馬、竹島、壱岐に朝鮮海軍が徘徊するようになると、日本側も何もしない訳にはいかず、海軍艦艇の展開が行われ、小競り合いが発生する。
1954年6月には済州島周辺で襲撃事件が起こり、朝鮮海軍の潜水艦部隊が活動を始めた事が明確になるが、本格的な海軍戦力を持たない韓国政府には成す術がなかった。
当時の朝鮮海軍潜水艦の多くは、実際にはソ連軍人が運用しており、実体はほぼソ連海軍であった。
当然、本来であればセオル号事件も朝鮮海軍による襲撃を疑うべきなのだが、なぜか、揃って日本批判の姿勢を崩そうとはしなかった。
こうして戦火が拡大する中で、米国は介入すべきか否かを迷っていた。ただ、介入すればそれが半島だけでおさまるという根拠はどこにもなく、南樺太や千島が危険に晒される事態も考えられたことから、全面戦争を回避するという立場から、物資援助に留め置かれることになり、それがかえって日本への危険も増加させてしまう。
もちろんと言うべきか、やはりと言うべきか、対馬沖で日本船舶まで雷撃を受ける事態となって、日本政府は自国周辺での警備体制を強化すると表明し、現有艦船による警備をはじめ、戦闘許可を出すに至った。
もちろん、国会においても抗議する政党があり、メディアも批判的に扱った。
だが、自国の船が現に被害に遭い、犠牲者が出ている事を見れば、批判で済ませて良い事件では無かった。
1954年を迎える頃には戦後設計の伊201型である、くろしお型潜水艦の竣工が始まっており、夏以降には4隻ほどが実戦配備につくことになった。
くろしお型では呂101型で採用された45センチ魚雷が採用され、電池や電動機の改良、音響誘導装置の更なる発展もあって性能は飛躍的に向上していた。
ただ、45センチ魚雷では水上艦への打撃力で劣る事は明白であったが、戦後の新生海軍の潜水艦戦術は対潜潜水艦へと大きくシフトしており、対潜攻撃を重視した45センチ魚雷で十分とされた。
その為、伊201型に近い1200tの船体に8門を備え、16本の魚雷を搭載するという仕様であった。
戦後の技術革新もあって電動機技術も向上しており、水中速力は最大で22ノットを可能とし、更には減速機の精度向上や蓄電池の性能向上もあって巡航航続力も向上していた。
1954年中には日本周辺で12隻の船舶が襲撃され、347人もの犠牲者を出すことになったが、10月に潜水艦1隻を撃沈したのに続いて、1954年中に3隻の撃沈報告が上がる事になった。
水上艦は沿岸警戒を行う程度の規模しかないのに対し、1954年中に8隻の潜水艦が活動をはじめ、1955年に入ると1月だけで4隻を撃沈している。
相手は第二次大戦型潜水艦であった事もあって、くろしお型で容易に撃沈できた。
この事態に朝鮮政府は日本周辺での活動を停止する。あまりにも明白な事から非難声明などを出す愚行には至っていないが、朝鮮に追い詰められている韓国政府が代弁者として日本を非難しているのだから良く分からない。
その後、朝鮮内戦は圧倒的優位な共産派が半島内を制圧し、済州島制圧を恐れた米国が済州島周辺に艦隊を展開した事でほぼ終了する事となった。
日本においては短期間に大量の潜水艦撃沈を実現した事から対潜潜水艦の重要性が改めて着目され、くろしお型やその改良型であるおおしお型潜水艦が22隻整備整備されることになる。
しかし1960年には、ソ連が原子力潜水艦を実用化した事から通常動力潜水艦では能力不足だとして原潜保有論が巻き起こる事になる。
多くの反対がありながらも1965年には原潜建造が正式に決定し、おおしお型の後継とされた次世代型をベースに発電機を原子力に置き換えるという手法で建造されることになった。
こうして建造されたふそう型は大型化が著しく、水中速力が低下して18ノットとなり一部では問題視されたが、必要なのは最高速力ではなく、ソナーの性能を維持できる静粛な速度であった事から量産されることになった。
以後、艦形の変化や1軸化などが行われ、今に至っている。
ただ、原子力潜水艦は建造費や維持費が高額であり、潜水艦の保有隻数は原子力化によって最大時の22隻から減少し、今では14隻となっている。
これでもまだ潜水艦偏重として問題視されている。
非核国でありながら原子力潜水艦を持つという稀有な国となっているが、米国にとって太平洋におけるソ連封じ込めに不可欠であったことから、厳しい燃料監視はあるものの、これまで原潜保有が問題視されたことは無い。
ただ、朝鮮や中国が強襲揚陸艦や空母を持つにもかかわらず、日本の水上戦力は欧米基準でフリゲートにあたる6000t級駆逐艦8隻、4000t級駆逐艦18隻、8900t型ドック型揚陸艦4隻と、国防費に比してお世辞にも強力とは言えない規模に甘んじている。
もちろん、大きなしわ寄せは陸上にも及び、南樺太や千島の防備には充実した戦力を配置しているモノの、それ以外の地域には郷土防衛隊レベルの軽装備部隊しか配備できていない。
最近では中国による東シナ海での経済水域や離島を巡る緊張も高まっているのだが、海上保安庁や国境警備隊の重点配備でお茶を濁す事しか出来ないのが現状である。
ただ、かと言って潜水艦戦力を減らして陸上や水上へと配分すれば良いかと言うと、そう言う訳にも行かない事情がある。
潜水艦14隻と言うのは適切なコストで原子力潜水艦を維持する最低ラインとされ、これ以上減らせば更なる高コストや技術力低下も懸念されるという問題があり、削減に踏み切れてはいない。なにより、戦中、戦後の伝説的な活躍は大きな抑止力でもあり、潜水艦戦力の削減が不用意なメッセージとなりかねないのだから、安易に削減して他の戦力に転換する訳にも行かず、大きな国防上の問題となっているのは何の皮肉だろうか。
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