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第2章、悪夢と狂気の中で

46、フェニキア文字とヘブライ文字(1)

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病院内でしばらくはフアンのすすり泣きの声が聞こえたが、やがてそれも聞こえなくなった。フアンは病院を出て孤児院へ戻されたのだろう。病院内では他の患者の声も聞こえるのだが、私はそれを気にしなくなっていた。ニコラス先生が運んでくれる食事を病室のベッドの上で食べ、薬も飲んでまた眠りについた。薬が効いていたためか、悪夢を見ることもほとんどなくなっていた。どれくらいそうやって生活していたのだろうか?ある日、ニコラス先生は食事と一緒に1冊の本を持ってきた。

「ミゲル、調子はどうだ?」
「はい、大丈夫です」

私は嘘をついた。ニコラス先生には嘘とわかっているだろう。それでも微笑みながら私の食事が終わるのを待っていた。

「ミゲル、今日は薬を飲む前に君に提案したいことがある」

そう言って先生は1冊の本を私に見せてくれた。修道院にある豪華な写本ではなく、粗末な紙の手作りらしいその本は15枚ほどの紙がとじてあるだけであった。表紙には見たことのない記号が書かれている。ページをめくると大きな絵と一緒にスペイン語の説明があった。

「この本は?」
「これは私が5歳の時に叔父から渡された本だ」
「先生の叔父さんが書いたのですか?」
「そうだ。私は5歳の時に母が亡くなった。母はユダヤ人だったから、一族の中で私は厄介者扱いされ、私は母の弟、叔父に引き取られることになった。それまで小さな子供と接することなどなかった叔父はさぞ戸惑ったであろう。おまけに当時の私は母の死にショックを受けて心を閉ざし、今まで会ったことのない叔父に警戒していた。叔父は昼間は医者として忙しく働いていたから、その間私は部屋に1人残された」
「そうだったのですか?」
「私はそれまでにスペイン語とラテン語の読み書きは教わっていた。君と同じだ。だが叔父は私にヘブライ語も教えようと考え、手作りの教科書を作ってくれた。これがその本だ。私が子供の頃長く使った本だから古くなってとことどころ破れたり染みがついたりしているが、それでも十分読むことはできる」

私は恐る恐る渡された本のページをめくった。大きな本の最初のページには牛、次のページには家の絵が描いてある。横に記号があり、下の方にスペイン語でそれぞれ「アレフ」「ベート」と書いてある。

「この本にはフェニキア文字とヘブライ文字が書いてある」
「フェニキア文字というのはカルタゴを建国したフェニキア人が使っていた文字ですか?」
「もちろんそうだ。ハンニバルが活躍したポエニ戦争の話は君も覚えているだろう?」
「もちろんです!」

ハンニバルの話にはアルバロが夢中になっていた。

「私はポエニ戦争については古代ローマの歴史の一部として簡単に説明するつもりだったが、アルバロが許してくれなかった。結局私も本を読み返して詳しく話をすることになった」
「ハンニバルは象と一緒にアルプスを超えたのですよね」
「そうそう、アルバロはハンニバルのアルプス越えについて何度も私に話をさせていた」

ほんの数か月前まで、私はアルバロやフェリペたちと一緒に楽しく勉強していた。勉強だけでない。降誕祭の時にお菓子作りをしたり、それから復活祭の時にはフアンと宝探しもした。あの時の私は何も知らない傲慢な子であったから、フアンに対して酷いことも言っていた。でも、今の私は何もかも失っている。アルバロとフェリペの2人は孤児院を出てアルバロは傭兵の養成所に入り、フェリペは医者の家に引き取られた。もうあの2人に会うこともないだろう。何よりも私は、何も知らないまま突然家族が殺される場面を目撃してしまい・・・







「ミゲル、大丈夫か?」

先生の声で目を開けた。ベッドの上にいる。どうやら私は意識を失っていたらしい。

「無理をしなくていい。君はまだ病人だ。本についての説明はまた別の日にしよう」
「いいえ、聞かせて下さい。どうして先生の叔父さんは、先生にヘブライ文字を教えるために、フェニキア文字も一緒に書いているのですか?」
「フェニキア文字がヘブライ文字だけでなく、ギリシャ文字、ラテン文字、アラビア文字など多くの文字の元になっているからだ」
「でも、フェニキア人の国はかなり前に滅び、植民都市だったカルタゴもポエニ戦争の後に滅ぼされていますよね」
「そう、国としては残っていない。それでも地中海の交易をしたフェニキア人の文字は各地に広まり、それをもとにしてそれぞれの文字が作られた。もちろんフェニキア文字以外にメソポタミアの楔型文字やエジプトの象形文字などたくさんの文字が発明された。だが長く使われ残ったのはフェニキア文字を元にした文字だった」
「つまり、フェニキア文字を覚えれば、ヘブライ文字の他にも様々な文字を覚えられると・・・」
「そう簡単ではない。だが、フェニキア文字を覚えればヘブライ文字への理解も進むであろう」
「どうして先生は僕にこの本を・・・」
「母を失い、絶望のどん底にいた私を救ってくれたのがこの本だった。本を見ながら私は夢中になって文字を書き写した。1人の人間の人生は短く、時に残酷な運命に襲われることもある。だが人間は文字を発明し、本を書くことで多くの知識を後の時代に残した。文字を知れば知らない時代、知らない世界について知ることで、絶望のどん底から救われる。今の君も同じだ。特に君はユダヤ人であるために残酷な運命に襲われた。だからこそ私は君にヘブライ語を学んで欲しい。ヘブライ語で聖書を読めば、いかにそれがラテン語で解釈され教えられてきたことと違っているかがわかるであろう」
「先生、僕はこれからどうすれば・・・」
「急がなくてよい。君はこれからゆっくり必要なことを学べばいい」

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