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第1章 修道院での子供時代

10、修道女の偏見

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「カルロス院長、お話ししたいことがあります」

私が8歳の頃、ニコラス先生が突然学習室に入ってきた。その日の私の日課はカルロス先生からラテン語を習う予定であった。

「なんだ?またミゲルのことか?」
「いえ、フアンのことについてです」
「フアンのことか。いいだろう、話しを聞こう。ミゲルは今説明したラテン語の文をノートに書いていなさい」
「はい、わかりました」

ニコラス先生とカルロス先生は学習室の中で私から離れた場所に座って話し始めた。

「フアンも3歳になった。この前面会に行った時、ちゃんと私のことを覚えていてくれた。歩く時少し足を引きずっていたが、よく笑う愛らしい子であった」
「申し訳ございません。私の不手際でフアンは生まれる時に足を怪我してしまいました」
「いや、そなたは本当によくやってくれた。そなたがいなければフアンは無事生まれなかった。生まれた後もそなたが定期的に乳児院を訪れて治療をしてくれたからこそ3歳になった今、歩くこともできるようになった。そなたには感謝している」
「ありがとうございます。ですが最近乳児院で働く修道女たちが妙なことを話しています」
「妙なこととはなんだ?」

ニコラス先生は顔を上げて私を見て、それから下を向いて低い声でこう話した。

「フアンは娼婦の子だという噂が流れています。そしてカルロス院長には大変申し上げにくいのですが・・・フアンは院長の隠し子ではないかと言う者もおります」
「何を馬鹿げたことを・・・」

カルロス先生は拳で机を叩き、私はドキリとした。

「あの子の母親の夫、つまりあの子の父親は私の古い知り合いであった。夫が亡くなり身寄りのない彼女を憐み、修道院で世話をすることにした。それを娼婦だの隠し子だの、誰がそんな馬鹿げた噂を流している!」
「おそらく院長をよく思わない者がそのような話をしたのでしょう」
「今から女子修道院へ行ってその噂を取り消してくる!」

カルロス先生は大声で叫んでいた。

「お待ちください!院長が取り消そうとすればするほど噂は大きく広まってしまう、噂とはそういうものです」
「ならどうすればよい!」



しばらくの間沈黙が続いた。やがてニコラス先生がゆっくり話し出した。

「修道女たちが根も葉もない噂話に夢中になるのは、今の生活に不満を抱いているからです」
「修道士も修道女も世俗を捨て神に仕える誓いを立ててここで生活している。不満など抱くわけがない」
「自らの意志で修道院に来た者はもちろんそうでしょう。でも修道院に来るのは自らの意志で神に仕える誓いを立てた者ばかりではありません。特に修道女の場合は病や怪我で顔に痕が残って結婚できなくなった者、身分の高い者の愛人となっていたが捨てられた者、後妻となったが先妻の子が跡継ぎとなって追い出された者、さまざまな事情を抱えた者が修道女となり、彼女たちは世俗への未練を完全に断ち切れてはいません」
「そうしたこともあるが・・・」
「彼女たちは自分たちよりより惨めで蔑まれている者、たとえば娼婦やその子供を蔑み苛めることで、自身の不幸を忘れ、神に仕える清らかな修道女として生きようとしているのです」
「そのようなこともあるのか?」



「フェリペの場合は立場が逆ですが、継母に苛められて見かねた父親に連れられここに預けられました。継母にしてみれば跡継ぎとなる長男がいる限り、いつ自分が追い出されるかわからない不安定な立場に置かれる、全力で継子を苛めて追い出すのです」
「人間とはなんと罪深いものか・・・」
「私たち修道院で暮らす者は本来なら世俗の感情を捨て神と向き合って生きなければなりません。けれども人間は完全に感情を捨てることはできません。捨てきれない感情が恨みや不安だった場合、その感情はより弱い立場の者に向けられてしまいます。娼婦の子であると噂されたフアンはその攻撃の対象となってしまうのです」
「・・・」



「医者である私ですら乳児院や女子修道院の敷地に入ることは滅多にできません。そこでどのような苛めがあっても私たちは知ることもできないのです」
「だが、ミゲルの場合は乳児院で働く修道女たちが熱心に世話をしていた」
「ミゲルは多額の寄付金があったから大切にされました」
「ならばどうすればいい?」
「フアンを乳児院から孤児院に移すのがよいかと思われます。まだ3歳という年齢ですが、孤児院ならば私たちが頻繁に訪れることができます。そして私は孤児たちに勉強を教えてもいますので、孤児院の中の様子はすぐにわかります。まだ幼いフアンを孤児院に入れるのは心配もあるかと思われますが、このまま乳児院で修道女たちに世話を任せるのは危険です。カルロス院長、どうかご決断ください」



「そなたの言いたいことはよくわかった。フアンは乳児院から出すが孤児院に入れることもしない。フアンはミゲルと一緒に修道士の宿舎に入れて、この私が育てる」

カルロス先生ははっきりとした声でそう言った。
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