どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲

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エレーヌの穏やかで幸福な日々2

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刺繍と散策の日々の中に、エレーヌには前向きな気持ちが生まれてきた。

(何も知らない私のままではいけないわ)

居候の立場から遠慮していたが、言葉を学びたいという思いがもう抑えられなくなっていた。

「シュタイン夫人、私と、帝国語で話して欲しいのです」

「まあ、喜んで」

夫人はゆっくりと帝国語で話しかけてきた。

「あなた、べんきょう、したいのね?」

エレーヌがうなずくと、夫人は立ち上がった。

「エレーヌ、ここには、大きな、###、もあるのよ」

エレーヌが首をかしげていると、夫人はブルガン語を混ぜた。

「大きな、《図書室》、よ」

そこから、夫人は帝国語にブルガン語を混ぜながら話してくれることになった。

夫人に案内されながら廊下を行く。図書室はエレーヌが普段使っている東棟ではなく、西棟にあるらしかった。

東棟と西棟の間にはホールがあり、エレーヌが目を向けると、夫人はついでにホールも案内することにしたようで、エレーヌを中に通した。

ホールの縦長の窓には緞子のカーテンがかかっており、日が差し込まず真っ暗だったが、侍女がカーテンを開けて行くと、シャンデリアが見えてきた。

パーティーでは華やかな場所になるのだろうが、誰もいないと寂しく見えた。

シュタイン家は伝統のある家のようで、ホールの壁には、歴代城主やその家族と思われる肖像画がずらりと並んでいた。

エレーヌに当てがわれた部屋の主である赤毛の令嬢もおり、両親に兄らしき人とともに描かれていた。

シュタイン夫妻の肖像画は、何故かどこにも見当たらなかった。修繕中か、現当主夫妻は別の場所に飾るのがしきたりなのかもしれなかった。

「落ち着いたら、ここで晩餐会をしましょうね。あなたを楽しませたいの。多くのお客さまを呼びましょう」

王宮での惨めな晩餐会のことを思い出したが、そのときのエレーヌには、どうして自分があれほどまでに惨めさを感じたのか、不思議になってくるほど気持ちが落ち着いていた。

(貧相でみすぼらしい、などと言われても、今ならきっと平気だわ。私、図々しくなったんだわ。シュタイン夫妻に甘えるのも慣れてしまったし)

今は、良い母親になるためにできることをしなければ、との思いだけが募っている。

シュタイン伯爵は随分と読書家なのか、図書室には大量の本があった。

最近も本を増やしたらしく、増設したらしき本棚からは木の匂いが漂っていた。

ラクア文字の書物が多かったが、ブルガン文字と帝国文字の書物もたくさんあった。

エレーヌは、ブルガン文字は母親が本を読み聞かせてくれるうちに、帝国文字はエヴァンズ夫人から、ラクア文字は王宮や街で見かけていたために、それぞれの文字は判別できた。

「好きなものを部屋に持って行っていいのよ」

エレーヌは三つの文字の書物に、それぞれの辞書を手に取った。手に取り過ぎて両手いっぱいになる前に、侍女が受け取ってきたが、侍女も両手いっぱいになったために、侍従も手伝いに来た。

見知った本が目についた。塔の中でも読んだ本だ。

(まあ、懐かしい……)

塔を出たのはたった四カ月ほど前のことなのに、もう、昔のことのような気がしていた。

塔を出て、一か月馬車に揺られて、次の一か月はラクア王宮で一人で過ごし、次の一か月はゲルハルトと親密に過ごした。そして、今はこんなに穏やかな気持ちで過ごしている。

エレーヌはすべてのことに感謝したいような気持ちになった。

***

エレーヌは心穏やかに、ひたすら、産まれくる赤ん坊のことを思って過ごした。

午前は刺繍をみんなで楽しみ、午後は本を読む。夕方、夫妻と散歩に出る。悪阻も終わり、再び夫妻と晩餐を摂るようになった。

とても穏やかに過ぎゆく日々だった。さざ波の立たない生活の中で、塔の中で母親と住んでいた頃のような穏やかな幸せを感じていた。

ゲルハルトを思い出すも、ゲルハルトの子を抱えた身となっては、身を切るようなつらさよりも、ゲルハルトが与えてくれた喜びを思い出して、心に温かい明かりが灯るような気持ちになった。

(ふふ、ゲルハルトさま、出会ったときは野蛮人のようだったわ)

失神してしまうほどに怖かったゲルハルトの荒ぶった姿も、思い出せば可笑しくなるだけだった。

夏が過ぎて、風に秋の気配が混じり始めた頃には、帝国語やラクア語での会話もかなり上達してきた。

もともと難解なブルガン語が母国語のエレーヌにとっては、曖昧表現の少ない帝国語は難しくはなかった。ラクア語も侍女たちとのおしゃべりのお陰で、会話なら交わせるようになった。

(私、幸せ……、とても穏やかで幸せだわ………)

ただ、穏やかな温もりに包まれてエレーヌは日々を過ごしていた。

そんなエレーヌをシュタイン夫人が、常にじっと観察していた。

***

シュタイン城に来て、半年ほど過ぎた、ある夜のことだった。

ベッドの上で眠りに落ちようとしたとき、声が聞こえてきた。窓の外で誰かが怒鳴っている。

「この城は、乗っ取られたのさあ! ここは男爵さまが領主だったんだ!」

ひどくなまったラクア語だったために、エレーヌには男の言っていることがさっぱりわからなかった。城、という言葉のみかろうじて聞き取れただけだった。

ベッドから起きて窓に向かえば、城の前で年を取った農夫らしき男が叫んでいた。酔っているらしく、足元がおぼつかない。わらわらと現れた兵士らが男をどこかへと連れ去っていく。

「ここには、偽物の主人が、居座ってるのさ!」

男はなおもそんなことを叫んだが、エレーヌにはやはりほとんど聞き取れなかった。

けれどもエレーヌはどこか恐ろしくなって、ベッドに戻って、掛布を被って丸くなった。

しばらくして、侍女が覗きにきたのか、ベッドのそばに人が来た気配があった。

エレーヌはじっと丸まっていれば、低い声が聞こえてきた。

「エレーヌ……、寝ているようね……。あなたは安らかにお眠りなさい……。何も知らずに幸福なままで……」

シュタイン夫人の声だった。

エレーヌは引っ掛かりを感じるも、その引っ掛かりは眠気に紛れてどこかへといった。
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