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六章

5 嫉妬の末路

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 父が、鉛筆を削るためのナイフを手にして鼻息荒くこちらを見据えるのを、まどかは呆然と眺めていた。

 深夜美みやびはのんきに突っ立っており、彼の不気味に輝く赤い瞳を中心に、午前の澄んだ空気はどろどろと腐敗していく。
 
 自分が何度筆を奔らせても深夜美を激しいタッチで描いてしまったのは、これが無意識のうちに見えていたからなのだ、と団は悟った。

 深夜美の湛えた苛烈なもの――一個体がこんなにも強く深い感情を生み出せるのかと思うほどの怒りや憎しみ、哀しみが、呪いとも呼べる濃密な暗闇と化して辺りを塗りつぶす。

 事情は全く分からない。
 しかし刃物を向けてくる父は勿論、この異様な空間の支配者と化した深夜美も、とてもまともには見えなかった。

「な……何があったのか分からないけど……落ち着いて、父さん」
 団が言うと、火に油を注いだように庄司はカッとなって、団に突進してきた。
 
 刺される、と身体が硬直した時、団の腕を引く者があって庄司の狙いは外れた。
 庄司はそのままつんのめって、キャビネットや画材の入ったバスケットと共に床へ崩れ落ちる。

「駄目じゃないですか、嫉妬に狂って若い才能を摘むなんて。
 人生の先輩として最低ですよ」

 団を助けた張本人――深夜美は、そう言って笑いながら、団の肩と腰を抱く。

「嫉妬……何、何のこと……」
 団が呻くと、深夜美は高らかに叫んだ。
「ああ、天才は残酷だなぁ! 
 庄司さんは、自分が叶えられなかった画家としての道を若くして掴んだ君を憎み、君の自尊心を折り、交友関係を制限するなんてくだらない真似をしていたのです。
 そして実の息子よりも、素晴らしい画題である私を愛した、可哀想な方なんですよ! 
 君は父親のことなんて全く意識していなかったようだけど」

 華奢な身体がしなだれかかってきて、豊かな黒髪が団の頬を擽る。

『父がぼくを憎んでいた? ぼくは父の中で、深夜美以下の存在?』
 想像できない、何も分からない。
 
 霞む視界の端で、庄司が呻きながら立ち上がった。
「違う……お前なんか、深夜美ではない」
 再び白刃が深夜美を指し示す。
 彼を団ごと刺し殺さんという、濁って血走った眼が迫り来る。
 
 深夜美は逃げる素振りも無く、庄司を一瞥した。
 
 部屋を覆っていた闇が、増幅し、再編されていく。

 一瞬、団の眼前は暗闇に包まれた。
 そして視界が晴れた時、目前に父は居なかった。

 庄司は部屋の入口の辺りで『深夜美』を組み伏せ、滅多刺しにしていた。
 しかし団の身体にはまだ深夜美が触れている。
 ならば、父に殺されているあれは何なのか。

「我が思考で現実を侵食し、お前たちに幻覚を見せた。
 団、君の恐怖が。
 庄司、お前の憎悪が。
 私の呪力を成長させ、この能力を生み出させた!」
 団の耳元で深夜美が言い放つ。

 同時に『深夜美』の切り裂かれた華美な衣装と髪が、血の海に揺蕩う。
 瞼が抉られて剥き出しになった紅い眼球は、虚ろに庄司を見上げていた。
 無惨な屍にオフィーリアの幻を見せるほどに、彼の姿かたちは一つの芸術品として在った。

 許されるのならばずっと鑑賞していたい、とさえ団は感じたが、やがて『深夜美』の屍が形を失い、闇に溶け出す。

 そして現れたのは、見慣れた、素朴で柔和な顔。
 団にこの世で誰よりも優しい人。

「――真理那!」
 先刻まで憎しみを叩きつけていた身体に、庄司は縋る。
 嫉妬に、妄執に、憎悪に囚われて切り裂いてしまった彼女の、剥き出しになった琥珀色の眼球は、苦悶を訴えるように庄司を見上げていた。

 団は深夜美を振りほどいて退り、床にへたり込む。

「君の父親が虚栄心を持っていたことは事実だし、君が父の苦悩に気付かなかったことも事実だ。
 しかし、それ自体が悪いわけじゃない。
 悪いのは、そこにつけこんで化膿させた私だ。
 恨むなら、私を恨め」
 そう言い残すと、震えながら自らが殺した妻を抱き締めている庄司の脇を通り過ぎて、深夜美は部屋を出て行く。

 未だ虚像の美神に固執しているのか、妻の仇をとりたかったのかは分からないが、庄司はナイフを手に立ち上がり、その後を追おうとした。

 しかしナイフは一瞬で錆びて形を失い、踏み出した足は腐った果実のように潰れる。

 庄司の悲鳴がこだまする中、ドアが、床に壁に天井が、母の屍が次々と溶け出す。
 この現象も深夜美が起こした呪いなのだと直感的に理解した。

 迫り来る死を眺めながら、団は意識を飛ばした。
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