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六章

3 美神降臨

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 川辺の店に、高校生くらいの男女が二人組で入って来た。
 夜のバーに未成年二人というのは妙だが、この近辺でイタリアンを提供しているのはここだけなので、おそらくそれが目当てなのだろう。
 子どもらしくピザやパスタを主とした注文を受け、川辺は仕度にとりかかる。

 世間話の一つでも振ろうかと思ったが、二人とも旅行気分といったような陽気さを纏ってはおらず――若いながらに何か込み入った事情を抱えてこの場に居るといった感じがしたので、口を噤んだ。
 案の定、男女は深刻そうに顔を見合わせ、小声で何か話している。
 
 聞くまいと川辺は手元に集中していたが、先に二人の方から話しかけてきた。
「この町って、二ツ河島に渡航する人が泊まったり食事摂ったりすること多いんですよね」
「はい。数自体は少ないですが、二ツ河ふたつがわ島へ行くならほとんどの人がこの地を踏みますね」
「じゃあ、地毛が銀髪の男子を見たことはありますか?
 私たちと同い年の高校生で、見た目はちょっとちゃらちゃらしてるけど大人しい感じの」

 銀髪、という少女の放った言葉に、川辺は思わず顔を引き攣らせた。
 真顔を保とうとするが、見逃すまいとばかりに少年が覗き込んでくる。
「何すかそのリアクション」
「……見てはいない。それは事実ですが……
 銀髪っていうのは、つまり」

 思い浮かんでいたのは、今なお神の名で二ツ河島を統べるという宇津僚うつのつかさ家のことであった。
 数千年にわたり神秘を守り続け、それを暴こうとする者を誅する、銀髪が多く生まれる一族。

 しかし宇津僚家は子息を学校へ遣らないという噂を聞いたことがある。
 高校生が存在するはずはない。
 だとしたら二人が探しているのは、たまたま銀色の髪をもつというだけの無関係な少年なのだろうか。
 
 考えている間にも、二人は川辺を睨めつけてくる。
 話すだけ話して、後の判断は彼らに任せるほかないだろう。

「……お客様が仰ったような方その人については、存じ上げません。
 しかし、異国の血が入っているとか色素欠乏とかいうわけではないのに銀色の髪をもつ、宇津僚家という一族が二ツ河島には住んでいます。
 そこの縁者ではないかと」
「ウツノツカサ……?」
「ええ。独自の宗教を持ち、それで島を治めているという……」

 すると少年は、呼吸を荒くして少女の肩を掴んだ。

「父親だ! 鎮神しずかの髪は親父さんからの遺伝……
 あいつ自身気付いてなかったけれど、鎮神の父方の先祖は宇津僚家、都市伝説の中心人物!」
「ああ、二ツ河島にヒントがあるって私たちの読みは間違ってなかったらしい。
 鎮神が消えたときの状況からして、里帰りなんてものじゃないのは確かだ」

 平静を保っている少女の方も、唇が震えている。
 彼女は確かに『消えた』と口走った。

 二人は、そして彼らが捜している『鎮神』という銀髪の少年は、二ツ河島の暗部に関わって、呑まれてしまったのだろうか。
 川辺も、二ツ河島に関する気味の悪い噂はいくつか聞いたことがあった。
 取材に行くと言ってフェリーで渡って行った者が本土へ戻らなかったというだけでも何件か耳に入っている。

「申し訳ありません、何やら大変そうなのに力になれなくて」
 川辺が言うと、少年は頭を振った。
「いえ、自分たちの読みが間違ってなかったと分かっただけでも有難かったです」

 店内を、ごく弱いが確かに死を齎す毒のような気配が満たしていく。

「明日の便で、二ツ河島へ行くのですか」
 毒の中で喘ぐように、川辺は声を絞り出した。
 それに対しては、二人は迷い無く頷いた。
「はい。友人がちゃんと幸せかどうか、この目で確かめるために」




 やっと仕上がる――私の最高傑作、私の生きた意味、証。

 自身が長らく向き合ってきた、ただの白紙からこの手で命を与えたキャンバス。
 その中に描かれた美神に恭しく仕上げの筆を重ねていく。

 それを深夜美みやびは興味深そうに眺めていた。
 今日の深夜美は、網で編まれたアメリカンアームホールのレオタードを素肌に着込み、ローライズのレザーパンツに踵の高い靴、白いファーのチャビーコートを纏っている。
 靴はあまりに似合っていて、玄関で脱いでしまうのが惜しかったので、アトリエまで持って行って履き直してもらったのだ。
 野性的だが気品の漂うその姿を視界の端に収めて、庄司は愉悦に浸る。

 筆を離し、数歩下がって絵の全体を確認する。
「……完成だ」

 かつて頻繁に絵を描いていた頃と比べ、技法の変化は無い。
 ただ、画題が深夜美その人というだけで、それはかつて生み出して日の目を見ることのなかったどんな作品たちよりも、王が挙って求めたどんな美術よりも、そして団なんかの描く絵よりも恐るべき光輝を放っているように見える。

「ボン・トラヴァイユ。パパ」
 深夜美がフランス語で完成を祝い、軽く拍手をした。
 庄司は彼を抱き締めようとするが、手もエプロンも画材でどろどろであることに思い至り、代わりに跪く。

「天から私の元へ来てくださって、ありがとう、深夜美さん。
 これは私の最高傑作だ……私はこれを世に出そうと思います。
 そしてこれを、第二のモナ・リザに……いや、違う。
 貴方の名こそを、美の代名詞にするのです!」

「モデルと言ったって、私はここで寛いでいただけですよ。
 その絵は紛れもなく、貴方が見た私、貴方の実力だ」
 謙虚に返す様が、ますます愛おしい。
 
 境界を失ったかのように緩みだす唇を引き締め、庄司は立ち上がった。
「お祝いにお茶でもしましょう。
 身体を洗ってきますので、リビングでお待ちください」
 そう言い残し、アトリエを出ると風呂場に直行する。
 乾いた身体にこびりついた絵の具を洗い流しながら、肩や腰を伸ばす。
 久しく忘れていた、長時間キャンバスに向かった後の痺れ。心地よい疲れ。
 
 風呂を出ると清潔な部屋着に着替えて、パルファムの霧を潜り、深夜美の待つ台所へ向かう。
 しかし台所には、そしてアトリエにも深夜美の姿は無かった。
 風呂場の隣にあるトイレに居る様子も無かった。
 
 ならば、二階だろうか。
 二階なんて家族それぞれの私室しか無いのに。
 そこには真理那と、まどかしか居ないはずなのに――。


 階段に足をかける。
 一歩。

 厭な予感で身体が重い。
 二歩。

 誰よりも芸術を愛してきた。
 三歩、四歩。

 生活のために仕方なく退いたが、想いは今も変わらない。
 五歩、六歩、七歩。
 
 絵を描きあげている間、深夜美だけを見続けてきた。
 寂れた漁村に似合わぬ華々しさ、しかし雑然とした都会に置いておくのも惜しい神々しさ、尊さ。
 彼こそ天上人であり、それを写しとったものはイコンの域に達すると信じた。
 八、九、十、十一、十二。

 ――深夜美を、団には奪われたくない。
 最後の一段を上り、そっと息子の部屋の前に立つと、僅かなドアの隙間から中を覗く。

「マドカ画廊、か。
 個人でホームページを持っているなんて、凄いね。
 絵が上手いうえにコンピューターにも強いなんて」
「いえ、そんな……これくらいしか、特技も楽しみも無いもので」

 学習机の所で、深夜美と団がパソコンを見ながら話し込んでいる。

「そうだ、もう一度見せてはくれないかな。
 団くんのクロッキー帳に描いた、私の姿……」

 深夜美の言葉に耳を疑った。
 いつの間に団が深夜美を、私の神を奪っていたというのだ。

 照れながら団がクロッキー帳を渡す。
 見て取れたのは、荒々しい線で模られた長髪の男。
 あんなものは深夜美ではない。
 優美さの欠片も無い。
 あれは天使を悪魔が如く描く不敬だ。

「すみません、ぼくの絵、ちょっと癖が強いですよね。
 不快にさせたらすみません」
「まさか。君には物事の本質を見抜く眼がある。
 君のお父上に無いものを君は持ってるよ」

 思わず扉を押して、団の部屋に踏み込んでいた。
 団は驚いた様子でこちらを見るが、深夜美は微動だにしない。

「貴方は天使だ。美神なんだ。そんなふうに描かれていい存在じゃない」
 庄司は震える声で、深夜美を礼賛する。

「そう思いますか?」
 赤い目が、血の気を増して爛々と輝く。

「父殺しの予行演習です。
 見せてあげましょう、邪悪に荒れ狂う、私の瞳の奥……」

 深夜美の低い声が、頭の中に直に響いて、骨を震わす。
 眼に、鼻に、耳に、口に、臓腑に、赤くて冷たくてぬるぬるした、触れると痺れの走る、汚らわしい管とも蒸気ともつかない何かが満ちていく。
「憎しみや妬みを糧に満ちる呪いの器、それが我が一族、赤松家の力」

 認めたくない。こんなものが深夜美の中身だなんて――。
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