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四章

8 冒涜的な愛の交錯

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 魚を主にした和食の夕餉ゆうげが、次々と食卓に並んでいく。
 配膳のために、深夜美みやびは軽やかに動き回っていた。

「ビリヤードかあ……やったこと無いです」
「私も」
「興味あるなら、ルールとかコツくらい教えられますよ。後でやりますか?」
 食堂の端に置かれたビリヤード台を眺めてながら、鎮神しずか真祈まきは話している。

 すると深夜美みやびが立ち止まって話しかけた。
「興味あるなら、ルールとかコツくらいなら教えられますよ。後でやりますか?」
 
 珍しく、有沙も話に乗ってくる。
「しゃーねえな、私も賑やかしてやるよ。一応やったことあるし」

 艶子は上座からそれを眺めていた。
 微笑ましい光景。
 微笑ましすぎて、なぜか苛立つ。

「艶子、調味料は何か要る?」
 深夜美に呼び掛けられて我に返る。
「そうね、では辛子を……」

 深夜美の笑顔に、真祈の影が重なった。
 顔は全く似ていないのに何故だ、と頭を抱えたが、すぐに結論は出た。
 真祈も深夜美も、等しく降り注ぐ天からの光のように、誰にでも分け隔てなく接する。
 母であろうと妻であろうと、艶子だけに特別を与えてはくれない。
 和を重んじる鎮神や、そもそも他人に頓着しない有沙はそれでも構わないようだったが、艶子にはとても耐えられないのだ。

 深夜美に初めて貰った贈り物の帽子。
 しかし彼は、炎天下で働いている者があれば、たとえそれが艶子でなくても帽子を買いに与えただろうと、今になって思う。
 下心の無い男と共に幸せな家庭という憧れを満たすことが、真実の恋だと思っていた。
 なのに、今はその清さが、寂しい未亡人への同情から来るものとしか見えなくなっていた。
 夫の笑顔が、くだらない談笑で安売りされている。

 初めて、深夜美を憎いと思った。
 


この島にどれだけの血が流れ、怨嗟が染みても、木々は蒼く、宇津僚を祝福する太陽は白金に輝く。

 何があっても、生まれ育った二ツ河島を嫌いになることはできそうにない。
 私が日に日に嫌いになるものは、自分自身だ。

 訪問看護のため、重い荷物と炎天下に茹だりつつも潮路加ろかは神門を歩いていた。
 あまりに暑いせいか、暇潰し程度の用で屋外へ出る者はおらず、知り合いに捕まることもなく目的地へ辿り着けた。

「橋本さん、おはようございます。血圧測りに来ました……」
 声を掛けながら釣り具店に入る。
 カウンターの中から、店主である七十代の男が商人らしい人懐っこい顔を向けて来た。
「おう、路加くん。いつもあんがとな」

 その横で、朝日の射し込まない暗がりの中に、ふわりと白い顔が浮かびあがった。
 凛々しい目に睨まれ、路加は思わず機器の入った鞄を落としそうになる。

 店主と喋っていたらしい有沙は、路加を見ると気怠げに目を細めた。
「邪魔したな、おっさん」
 ぶっきらぼうに釣りの道具を引っ掴むと、有沙は店を出て行ってしまう。

 当然だ。路加は彼女の父母を殺し、彼女の命も狙った。
 それが有沙をこの島に縛り付けることとなった。
 謝る機会、否、勇気すら無く、互いが見えていないかのように生きていく。
 どんどん自分を嫌いになる――己の罪を知ったことこそが罰だと言うように。



 数年ぶりに荒鏤あらる川を越えた。
 橋を渡りきってから、艶子は詩祈うたき山を振り仰ぐ。

 これより南は死者の世界だ。
 もう宇津僚うつのつかさ家には帰れないのではないかと、理由も無く子どもじみた不安に襲われる。
 しかし帰るわけにもいかず、荒津家の地所へ踏み込む。

「おはようございます、艶子様」
 右の方から声が聞こえる。
 声の方を見ると、庭に楼夫が立っていた。
 ローライズのジーンズを穿き、素肌に薄手の白いワイシャツを羽織って、はさみを手に庭木を整えている最中だった。

「おはようございます、楼夫さん。
 ……綺麗なお花ですね」
 楼夫が手入れしていた木に咲く花は、死の世界に咲くには余りにも情熱的なピンク色をしていた。
 乙女の粘膜のような彩は、強い生を感じさせる。

夾竹桃きょうちくとうですよ。
 丈夫で美しいけれど、取り扱いが面倒な子で……毒があるのです」
 答えながら楼夫が軍手を外すと、その下にはさらにビニール手袋が嵌っていた。
 よほどの毒らしい。

「何故そんな毒の花を育てるのです」
「何故って、そりゃ好きだからでしょう。
 でなきゃそこらの雑草と等しく放っておいて、等しく枯らしていたはずだ。
 誰にも愛されない毒花に、憐れみくらいなら抱いたかもしれませんがね……。
 興味が無いって、そういうことです」
 憐れみ、という言葉に身が竦んだ。
 誰にでも等しく笑いかける深夜美の姿がフラッシュバックする。


 さっさと儀式を済ませてしまおうと、楼夫を促して荒津家に上がり、祭壇の前に座ると、魂鎮めの歌を詠じた。
 
 しどけない格好に肌を透かしている楼夫は終始真顔で、とても両親を悼んでいるとは思えず、異様な存在感を艶子の背後で放っている。
 お陰で何箇所か歌い間違えてしまった。
 儀式が終わると、楼夫が紙に包んだ礼金に加えて、お茶と茶菓子を出してきた。
 陰気で不気味だった男が、いきなり堂々とした美丈夫になって艶子をもてなそうとする。
 驚きこそすれど、悪い気はしない。

 艶子が湯呑みに手をかけたとき、楼夫は小首を傾げ、艶子の顔を覗き込んできた。
「失礼ですが、何かお悩みでもあるのではないですか?」
 体躯のわりに可憐な声が囁きかけてくる。
 
 驚いて身を引いた瞬間、視界が赤く染まった。
 自らの体すら認めることが出来ない、紅玉の中に意識だけをすっかり閉じ込められたような感覚に陥る。
 赤の中にか細い闇が踊り出て、梵字とも西洋悪魔の記号ともつかない、意味があるのか無いのかさえも分からない図形を描いていく。
 ただ、その図形に根源的な恐怖を感じた。
 これはきっと、宇宙さえ引き裂く冒涜的な文様。
 現し世の一生命体が観測してはならないもの――。

 
 暫くして、だんだん視界が荒津家に戻ってくる。
 体感では一分ほど意識を囚われていたが、楼夫がさっきの体勢のままこちらを見ているので、実際はほんの一瞬だったようだ。
 恐ろしい体験をした後のはずなのに、心は妙に凪いでいた。

「あんなに楽しかった新しい生活が、寂しくなってきたんです……。
 深夜美は確かに淳一と違って良い人ですが……彼は誰に対しても優しい。
 深夜美にとっての特別って何?
 私を特別だと思ったから結婚してくれたんでしょう?
 なのに彼は誰にでも同じように笑う……。
 それを美徳だと思えない私の方が悪だとでも言うように!」

 机に肘をつき、その手にもたせた頭髪を鷲掴みながら喚く。
 結っていた銀色の髪が、業深き血族の証が、ちらちらと乱れて眼前に垂れ下がる。

「旦那様が、憎い?」
「そう、なのかもしれない……。
 ねぇ、私って、そんなに憐れなのでしょうか」
「憐れですね。
 優しすぎて不器用な深夜美様も、欲望に従えない貴女も」
 楼夫はわらって、艶子の手首を掴んだ。

「私なら、自分の欲望に従って生きる。
 例えば、貴女が人妻であっても愛を囁いてしまうほどには」

 縛めは決して強くないのに、動けない。
 動きたくないのかもしれない。

 体格も声も、欲に濡れた昏い瞳も、深夜美とは真逆の男。
 彼ならこの苦しみを取り去ってくれるだろうか。
 淳一や玖美も、こんな気持ちだったのだろうか。
 楼夫の手を取りながら、漠然と思っていた。
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