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四章
5 呪物の肖像
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明日はとうとう婚儀だ。
気が重い鎮神とは対照的に、真祈は朝からステーキを三枚も平らげている。
鎮神が思わず漏らした溜め息も、真祈にはただの吐息としか映らないのだろう。
ここ最近、鎮神は工場から送られてきた商品サンプルの点検をしていた。
それに熱中している間も、戸籍の上でも真祈の妻となることに、背中にもう一つ顔でも生えてくるかのような言い知れぬ違和感が付き纏って離れてくれない。
「では、行ってきます。
今日は神殿の中で調査をする予定ですので、帰りは昼頃かと」
真祈は法衣を翻して出て行く。
「はい……行ってらっしゃい」
座ったまま、鎮神は真祈を見送る。
そう、決して真祈を嫌いな訳ではない。
しかも真祈は鎮神の遺伝子を空磯のために必要としながらも、鎮神の意志を尊重して無理には接触しないと約束してくれた。
しかし鎮神の頭を支配する夫婦像は今でも、自身を生んだ玖美と淳一の冷めた関係だった。
ぼんやりとコーンフレークをつついていると、深夜美が食堂に入って来た。
「おはよう、鎮神くん」
「おはよう……深夜美、さん」
もう父子なのだからと、親しげな挨拶をする。
見れば深夜美は朝早くからめかし込んでいた。
不思議そうに見ていると、深夜美はそれを察して答えてくれた。
「昨晩、士師宮庄司さんと会ったよ。
悪い人じゃなかったよ、心配してくれてありがとうね」
「いえ、それなら良かったです」
「それで、庄司さんに絵のモデルを頼まれたから、これからお家に行くんだ」
「絵って……団さんじゃなくて?」
「団さんって、息子さんだよね。
その子も絵を描くの?」
「ええ、画家らしいです」
庄司は息子の話をしなかったらしい。
しかしああいう堅い物腰の大人ならそういうものかもしれない、と鎮神は勝手に納得する。
「そういえば真祈さんとの婚儀、明日だね」
半ば冷やかすように深夜美が言った。
鎮神は少し顔を伏せて、申し訳なさそうに訊ねる。
「よければなんですけど、教えてもらえませんか……失礼かもしれないですけど」
「いいよ、怒ったりしないから」
「深夜美さんって、お母さんのことは凄く大事に思ってますよね。
でも、お父さんは酷い人で、いわば失敗した結婚を見て育ったわけじゃないですか。
なのに結婚を決意できたなんて……どうしてそんな強くあれるんですか」
鎮神が言うと、深夜美は紅い目を見開いた後、苦笑した。
いつになく弱々しく子どもじみた、しかし疲れ果てた大人の自嘲も含んだ、あまりに優しく哀しい表情だった。
「確かに両親の結婚は、主観的に述べるならば完全に失敗だ。
私は家では常に父の顔色を窺い、母を慰めるために多くの時間を費やした。
君の前でこういうことを言うのは悪いけれど、私は自分が母の不貞で生まれた子であればどんなに幸せかと思っているよ。
自分が父の血を受け継いでいることが憎くて、それこそ命なんていらないと思ったこともある。
でも、一番悲しかったのは、父のような虫けらに詰られた時なんかじゃない。
母はぼくの慰めなんて必要としていなかったと気付いた時が……最も苦しかった」
ふいに鎮神の脳裏を、西陽が差し込むアパートの一室に佇む小太りの女の姿が掠めた。
無力で迷惑をかけてばかりの子どもだったから、せめて心だけでも彼女に寄り添おうとした。
しかし結局、互いに何一つ分かり合えぬまま、二度と会えなくなった人。
「母がなぜ父と別れないのか昔は分からなかったが、ある時気付いてしまった。
母は愛に溢れた家庭で生まれ、希望を育まれた。
だから悪い男と夫婦になっても、それを掌の上で転がしながらどうにでも生きていける。
希望を捨てなければ、人は案外強い。
ただぼくには、捨てる希望さえ育まれなかった――それだけの違いだ。
母にぼくの絶望は理解できない。
その違いが虚しくて、母を恨みもした。
ぼくが好きな優しい母と、残酷なまでの希望を掲げる母と、その二つの間で引き裂かれそうになることもあった」
育った環境は全く同じではないが、いつからか自分のことを言われているような気がして、鎮神はだんだんと恐ろしくなってきていた。
しかし、そこまで語ってから、深夜美ははたと止まってしまう。
子どもに戻ったようだった表情は、いつもの温和な大人の顔に覆われていった。
紅い瞳は光を鈍くし、行き場が無いといったふうに湯呑みに注がれる。
「まあ――なんだかんだ言っても恋はタイミングだよ。
私は艶子さんに出会って、こういう優しくて温かな人と居られたら、生まれ育ちのことを忘れられる気がしたから夫婦になった。
いつまでも過去にとらわれてないで、自分の血と戦うって決めたんだ」
「そう、ですか……ありがとうございました、話してくれて……」
正直、最後の方の深夜美の言葉は、それまでと比べて余りにも軽薄であった。
痛々しいまでの悲しみを語る、子どもじみた彼の方が鎮神には好ましかった。
ただ、戦うという言葉だけは、軽薄な口調の中で唯一重く響いた。
深夜美に茶を注いでやりながら、今頃神に安荒寿を捧げているであろう婚約者のことを想った。
自分が見るべきは玖美の幻影ではない、真祈だ。
たとえ母が、この身に染みわたる覆せない血縁だとしても、自分はそれと戦い、真祈と向き合うのだ。
自ら運営しているサイト『マドカ画廊』の更新を終えると、団はクロッキー帳とコンテを手に、一階へと下りた。
「母さん、ちょっと出かけるよ。お昼には帰るね」
居間で小説を読んでいる真理那に声を掛けると、彼女は行ってらっしゃいのキスとばかりに口を突き出してくる。
さすがに恥ずかしいので、それを軽くあしらって出て行く。
玄関にある真っ赤なキンキーブーツが目に入った。
今、アトリエは父に占拠されている――深夜美と共に。
団が生まれて間もなく絵を描くことをやめたはずの父が、二時間だけでいいからアトリエを使いたいと申し出て来た時は驚いた。
そして、画題として連れて来たのが、噂には聞いていたが面識は無かった、宇津僚艶子の後夫ということにも。
布陣川のほとり、適当な岩の上に腰を据えて、流れる水を捉えようと画材を構えて息を詰める。
しかし聞こえてくるのは異なる音楽だった。
清らかな流れは遠く、渇き、うねった、重々しい調べ――蛇が泥濘を這うようなイメージが頭を支配する。
紙にコンテを滑らせ、叩きつける。
蛇は媚びるような姿態の青年と、靡くその黒髪へと変わっていく。
媚びるといっても、彼の凜とした上がり目には、誘った獲物を喰らわんばかりの棘がある。
素描があらかた出来上がってから、団は苦笑した。
無意識のうちに描いていたのは、今まさに父が描いているであろう深夜美であった。
本人の物腰が柔らかいのに対し、些か蠱惑的に描きすぎた気もする。
しかし、長年絵から離れていた父が彼の美貌に中てられて創作意欲を掻き立てられる程なのだ。
職業画家として常にアンテナを張っている団が彼を見て何も感じないはずがない。
ページを変え、新たに深夜美を模した青年の、最も良い形に筋肉が跳ねる一瞬を、右手で生み出し始めた。
気が重い鎮神とは対照的に、真祈は朝からステーキを三枚も平らげている。
鎮神が思わず漏らした溜め息も、真祈にはただの吐息としか映らないのだろう。
ここ最近、鎮神は工場から送られてきた商品サンプルの点検をしていた。
それに熱中している間も、戸籍の上でも真祈の妻となることに、背中にもう一つ顔でも生えてくるかのような言い知れぬ違和感が付き纏って離れてくれない。
「では、行ってきます。
今日は神殿の中で調査をする予定ですので、帰りは昼頃かと」
真祈は法衣を翻して出て行く。
「はい……行ってらっしゃい」
座ったまま、鎮神は真祈を見送る。
そう、決して真祈を嫌いな訳ではない。
しかも真祈は鎮神の遺伝子を空磯のために必要としながらも、鎮神の意志を尊重して無理には接触しないと約束してくれた。
しかし鎮神の頭を支配する夫婦像は今でも、自身を生んだ玖美と淳一の冷めた関係だった。
ぼんやりとコーンフレークをつついていると、深夜美が食堂に入って来た。
「おはよう、鎮神くん」
「おはよう……深夜美、さん」
もう父子なのだからと、親しげな挨拶をする。
見れば深夜美は朝早くからめかし込んでいた。
不思議そうに見ていると、深夜美はそれを察して答えてくれた。
「昨晩、士師宮庄司さんと会ったよ。
悪い人じゃなかったよ、心配してくれてありがとうね」
「いえ、それなら良かったです」
「それで、庄司さんに絵のモデルを頼まれたから、これからお家に行くんだ」
「絵って……団さんじゃなくて?」
「団さんって、息子さんだよね。
その子も絵を描くの?」
「ええ、画家らしいです」
庄司は息子の話をしなかったらしい。
しかしああいう堅い物腰の大人ならそういうものかもしれない、と鎮神は勝手に納得する。
「そういえば真祈さんとの婚儀、明日だね」
半ば冷やかすように深夜美が言った。
鎮神は少し顔を伏せて、申し訳なさそうに訊ねる。
「よければなんですけど、教えてもらえませんか……失礼かもしれないですけど」
「いいよ、怒ったりしないから」
「深夜美さんって、お母さんのことは凄く大事に思ってますよね。
でも、お父さんは酷い人で、いわば失敗した結婚を見て育ったわけじゃないですか。
なのに結婚を決意できたなんて……どうしてそんな強くあれるんですか」
鎮神が言うと、深夜美は紅い目を見開いた後、苦笑した。
いつになく弱々しく子どもじみた、しかし疲れ果てた大人の自嘲も含んだ、あまりに優しく哀しい表情だった。
「確かに両親の結婚は、主観的に述べるならば完全に失敗だ。
私は家では常に父の顔色を窺い、母を慰めるために多くの時間を費やした。
君の前でこういうことを言うのは悪いけれど、私は自分が母の不貞で生まれた子であればどんなに幸せかと思っているよ。
自分が父の血を受け継いでいることが憎くて、それこそ命なんていらないと思ったこともある。
でも、一番悲しかったのは、父のような虫けらに詰られた時なんかじゃない。
母はぼくの慰めなんて必要としていなかったと気付いた時が……最も苦しかった」
ふいに鎮神の脳裏を、西陽が差し込むアパートの一室に佇む小太りの女の姿が掠めた。
無力で迷惑をかけてばかりの子どもだったから、せめて心だけでも彼女に寄り添おうとした。
しかし結局、互いに何一つ分かり合えぬまま、二度と会えなくなった人。
「母がなぜ父と別れないのか昔は分からなかったが、ある時気付いてしまった。
母は愛に溢れた家庭で生まれ、希望を育まれた。
だから悪い男と夫婦になっても、それを掌の上で転がしながらどうにでも生きていける。
希望を捨てなければ、人は案外強い。
ただぼくには、捨てる希望さえ育まれなかった――それだけの違いだ。
母にぼくの絶望は理解できない。
その違いが虚しくて、母を恨みもした。
ぼくが好きな優しい母と、残酷なまでの希望を掲げる母と、その二つの間で引き裂かれそうになることもあった」
育った環境は全く同じではないが、いつからか自分のことを言われているような気がして、鎮神はだんだんと恐ろしくなってきていた。
しかし、そこまで語ってから、深夜美ははたと止まってしまう。
子どもに戻ったようだった表情は、いつもの温和な大人の顔に覆われていった。
紅い瞳は光を鈍くし、行き場が無いといったふうに湯呑みに注がれる。
「まあ――なんだかんだ言っても恋はタイミングだよ。
私は艶子さんに出会って、こういう優しくて温かな人と居られたら、生まれ育ちのことを忘れられる気がしたから夫婦になった。
いつまでも過去にとらわれてないで、自分の血と戦うって決めたんだ」
「そう、ですか……ありがとうございました、話してくれて……」
正直、最後の方の深夜美の言葉は、それまでと比べて余りにも軽薄であった。
痛々しいまでの悲しみを語る、子どもじみた彼の方が鎮神には好ましかった。
ただ、戦うという言葉だけは、軽薄な口調の中で唯一重く響いた。
深夜美に茶を注いでやりながら、今頃神に安荒寿を捧げているであろう婚約者のことを想った。
自分が見るべきは玖美の幻影ではない、真祈だ。
たとえ母が、この身に染みわたる覆せない血縁だとしても、自分はそれと戦い、真祈と向き合うのだ。
自ら運営しているサイト『マドカ画廊』の更新を終えると、団はクロッキー帳とコンテを手に、一階へと下りた。
「母さん、ちょっと出かけるよ。お昼には帰るね」
居間で小説を読んでいる真理那に声を掛けると、彼女は行ってらっしゃいのキスとばかりに口を突き出してくる。
さすがに恥ずかしいので、それを軽くあしらって出て行く。
玄関にある真っ赤なキンキーブーツが目に入った。
今、アトリエは父に占拠されている――深夜美と共に。
団が生まれて間もなく絵を描くことをやめたはずの父が、二時間だけでいいからアトリエを使いたいと申し出て来た時は驚いた。
そして、画題として連れて来たのが、噂には聞いていたが面識は無かった、宇津僚艶子の後夫ということにも。
布陣川のほとり、適当な岩の上に腰を据えて、流れる水を捉えようと画材を構えて息を詰める。
しかし聞こえてくるのは異なる音楽だった。
清らかな流れは遠く、渇き、うねった、重々しい調べ――蛇が泥濘を這うようなイメージが頭を支配する。
紙にコンテを滑らせ、叩きつける。
蛇は媚びるような姿態の青年と、靡くその黒髪へと変わっていく。
媚びるといっても、彼の凜とした上がり目には、誘った獲物を喰らわんばかりの棘がある。
素描があらかた出来上がってから、団は苦笑した。
無意識のうちに描いていたのは、今まさに父が描いているであろう深夜美であった。
本人の物腰が柔らかいのに対し、些か蠱惑的に描きすぎた気もする。
しかし、長年絵から離れていた父が彼の美貌に中てられて創作意欲を掻き立てられる程なのだ。
職業画家として常にアンテナを張っている団が彼を見て何も感じないはずがない。
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