44 / 117
四章
3 凡俗の嘆き
しおりを挟む
家に帰ると、艶子と深夜美、そして有沙が食堂に居て甘味を食べていた。
話し込んでいるのは夫婦だけで、有沙は高級焦がしバウムクーヘン目当てでその場に居るだけのようだった。
鎮神と真祈もそれに加わる。
しばらくして真祈が思い出したように、深夜美に訊ねた。
「士師宮庄司さんとは、以前に何か関わりでもあったのですか?」
「いえ、心当たりはございませんね。
今日訪問なさった団さんのご家族ですか?」
庄司の名を聞いても、深夜美はきょとんとしている。
「お父様です。
深夜美さんにお祝いを言いたいと熱心に仰っていたので」
「なんかキモいな、そいつ。ストーカーじゃねえの」
有沙が口を挟んだことで、一気に不穏な方向へ話が転がる。
鎮神は、あっと叫んだ。
「深夜美さんが『深海魚』によく行くってこと、士師宮庄司さんに喋っちゃいました!」
庄司が本当にストーカーならば、行きつけの店を教えてしまったのはまずかったのではないか。
「ああ、そういえば。不用意でしたね」
喋ってしまった張本人の真祈はいたって冷静にしている。
そんな真祈を鎮神が睨めつけるのを見て、深夜美はくすっと笑った。
「まだストーカーと決まった訳じゃないでしょう。
本当にお祝いしたいと思ってくれているのかもしれませんし、今夜深海魚に行ってみようかな。
警戒されるとまずいから私一人で」
「大丈夫なの?」
艶子は心配げな顔をする。
深夜美はケーキ用のナイフをひらひらと弄びながら答えた。
「ええ。艶子を不安にさせるものは一刻も早く解決しておかないとね。
夫の義務でしょ」
頬を赤らめる艶子、歯が浮くような台詞にしかめっ面をする有沙、無反応の真祈、と周囲は三者三様だった。
そして鎮神は、頼もしく響く義父の言葉に、安堵の笑みを零していた。
団の奇矯さに驚かなかったのは、真理那と鎮神だけ――その通りだ。
私はかつて息子が風変わりな言動をした時、嫌悪を露わにしてしまった。
今日だってそうだ。
人の傷口にインスピレーションを受けた絵など、不謹慎で悍ましいと思ってしまった。
天才に常識を壊された折の凡俗の狼狽を、歴史は嘲笑混じりに伝える。
そして私は、嘲笑されるべき凡俗の側だ。
息子はアトリエに籠り、妻はリビングで寛いでいる。
庄司は財布と鍵だけを持って外に出て、後ろ手に扉を閉めながら夜空を見遣った。
生まれてから四十年以上この島に住んでいるが、酒の誘惑を振り払いながら生きて来たので、カラオケスナックなど足を踏み入れたこともない。
狭い島なので深海魚の店主とは顔見知りだが、庄司は馴れ馴れしくて過ぎたことをいつまでも覚えている彼女が嫌いだった。
好きなものは、誰も来ないアトリエで絵を描くことただ一つ。
庄司の城は今や団に奪われ、筆胼胝はすっかり癒えてしまった。
しかし、遠目に長い黒髪の青年を見た時、生活の隅に追いやって消してしまったはずの詩情が甦った。
宇津僚深夜美、彼に会いたい。
彼に近付けば、自分が失ってしまった何かが見えてくるような気がするのだ。
その一心で深海魚の扉を押すと、店主が媚びたような声をあげる。
「庄司さん、うちに来てくれるなんて、どうしちゃったの! お酒は解禁?
画業の方は順調? っと……今は息子さんの方が絵描きさんなのよね」
ぺちゃくちゃとよく喋る店主を軽くあしらいながらカウンターの奥を見ると、照明を淀みなく照り返す艶やかな黒髪があった。
薄っすらと刺繍の施されたサテンのブラウスとワイドパンツに、中華王朝風の柄が入った毒々しいジャケットを着ている。
紅を差した華やかな顔は柄物に負けていない。
澄ました顔をしているが下戸なのか、軽食をお供にカラオケの曲目を漁っているのが可笑しかった。
庄司は努めて冷静を装って声を掛けた。
「深夜美さん」
話し込んでいるのは夫婦だけで、有沙は高級焦がしバウムクーヘン目当てでその場に居るだけのようだった。
鎮神と真祈もそれに加わる。
しばらくして真祈が思い出したように、深夜美に訊ねた。
「士師宮庄司さんとは、以前に何か関わりでもあったのですか?」
「いえ、心当たりはございませんね。
今日訪問なさった団さんのご家族ですか?」
庄司の名を聞いても、深夜美はきょとんとしている。
「お父様です。
深夜美さんにお祝いを言いたいと熱心に仰っていたので」
「なんかキモいな、そいつ。ストーカーじゃねえの」
有沙が口を挟んだことで、一気に不穏な方向へ話が転がる。
鎮神は、あっと叫んだ。
「深夜美さんが『深海魚』によく行くってこと、士師宮庄司さんに喋っちゃいました!」
庄司が本当にストーカーならば、行きつけの店を教えてしまったのはまずかったのではないか。
「ああ、そういえば。不用意でしたね」
喋ってしまった張本人の真祈はいたって冷静にしている。
そんな真祈を鎮神が睨めつけるのを見て、深夜美はくすっと笑った。
「まだストーカーと決まった訳じゃないでしょう。
本当にお祝いしたいと思ってくれているのかもしれませんし、今夜深海魚に行ってみようかな。
警戒されるとまずいから私一人で」
「大丈夫なの?」
艶子は心配げな顔をする。
深夜美はケーキ用のナイフをひらひらと弄びながら答えた。
「ええ。艶子を不安にさせるものは一刻も早く解決しておかないとね。
夫の義務でしょ」
頬を赤らめる艶子、歯が浮くような台詞にしかめっ面をする有沙、無反応の真祈、と周囲は三者三様だった。
そして鎮神は、頼もしく響く義父の言葉に、安堵の笑みを零していた。
団の奇矯さに驚かなかったのは、真理那と鎮神だけ――その通りだ。
私はかつて息子が風変わりな言動をした時、嫌悪を露わにしてしまった。
今日だってそうだ。
人の傷口にインスピレーションを受けた絵など、不謹慎で悍ましいと思ってしまった。
天才に常識を壊された折の凡俗の狼狽を、歴史は嘲笑混じりに伝える。
そして私は、嘲笑されるべき凡俗の側だ。
息子はアトリエに籠り、妻はリビングで寛いでいる。
庄司は財布と鍵だけを持って外に出て、後ろ手に扉を閉めながら夜空を見遣った。
生まれてから四十年以上この島に住んでいるが、酒の誘惑を振り払いながら生きて来たので、カラオケスナックなど足を踏み入れたこともない。
狭い島なので深海魚の店主とは顔見知りだが、庄司は馴れ馴れしくて過ぎたことをいつまでも覚えている彼女が嫌いだった。
好きなものは、誰も来ないアトリエで絵を描くことただ一つ。
庄司の城は今や団に奪われ、筆胼胝はすっかり癒えてしまった。
しかし、遠目に長い黒髪の青年を見た時、生活の隅に追いやって消してしまったはずの詩情が甦った。
宇津僚深夜美、彼に会いたい。
彼に近付けば、自分が失ってしまった何かが見えてくるような気がするのだ。
その一心で深海魚の扉を押すと、店主が媚びたような声をあげる。
「庄司さん、うちに来てくれるなんて、どうしちゃったの! お酒は解禁?
画業の方は順調? っと……今は息子さんの方が絵描きさんなのよね」
ぺちゃくちゃとよく喋る店主を軽くあしらいながらカウンターの奥を見ると、照明を淀みなく照り返す艶やかな黒髪があった。
薄っすらと刺繍の施されたサテンのブラウスとワイドパンツに、中華王朝風の柄が入った毒々しいジャケットを着ている。
紅を差した華やかな顔は柄物に負けていない。
澄ました顔をしているが下戸なのか、軽食をお供にカラオケの曲目を漁っているのが可笑しかった。
庄司は努めて冷静を装って声を掛けた。
「深夜美さん」
10
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
赤い部屋
山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。
真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。
東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。
そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。
が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。
だが、「呪い」は実在した。
「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。
凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。
そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。
「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか?
誰がこの「呪い」を生み出したのか?
そして彼らはなぜ、呪われたのか?
徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。
その先にふたりが見たものは——。
パーフェクトアンドロイド
ことは
キャラ文芸
アンドロイドが通うレアリティ学園。この学園の生徒たちは、インフィニティブレイン社の実験的試みによって開発されたアンドロイドだ。
だが俺、伏木真人(ふしぎまひと)は、この学園のアンドロイドたちとは決定的に違う。
俺はインフィニティブレイン社との契約で、モニターとしてこの学園に入学した。他の生徒たちを観察し、定期的に校長に報告することになっている。
レアリティ学園の新入生は100名。
そのうちアンドロイドは99名。
つまり俺は、生身の人間だ。
▶︎credit
表紙イラスト おーい
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる