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三章

6 深夜美の闇、眠る邪悪

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「さあ、あとは深夜美みやびさんの欄です」
 艶子は用紙とペンを差し出した。
 
 ええ、と答えてペンを握ったきり深夜美は動かなくなる。
 婚姻届の氏名欄に筆先を置いたまま、自分の名をすっかり忘れてしまったように。

 その顔を覗き込むと、紅玉の瞳は苦悶に濁っている。
 手が激しく震えていた。
 書痙、というやつだろうか。

 皆が声をかけあぐねていると、深夜美は急に左手で利き腕を掴み、どうにか姓を書ききった――『北原』と。

「え……貴方の苗字って、赤松では?」
 すかさず艶子は声をあげた。
 少し離れて座っている真祈たちも異変に気付いたらしく、目を瞠っている。

「騙していてごめんなさい……私の本当の姓名は、北原深夜美。
 北原は父方の苗字です」
 沈痛な面持ちで青年は語りだす。
 赤松の家名は、彼の母の深海子みみこの頃には絶えていたのだ。

「お母様の旧姓を、通称に使っていたということ?」
「はい。正式には社会では通用しないものと分かってはいたのですが……」

 いつもは燃え盛るように輝く瞳が伏せられ虚のようになる。
 その虚が、ぞくりと艶子を貫く。

 優しく笑いかけてくれる深夜美が、温かくて綺麗で好きだったはずだ。
 憂いを帯びて萎れた不幸な姿など、愛する者にさせたくないはずなのに、
 打ちひしがれた深夜美の露に濡れた長い睫毛に、引き攣れる唇に、影を濃くする頬の稜線に、
 どうしようもなく惹かれてしまう。


「父の姓を書くときだけ、手が動かなくなります。
 口にしようと思えば、喉にものが詰まったように苦しくなるのです。
 あいつは、母のことも赤松家のこともおとしめた。
 不敬だと思われるかもしれませんが、私は本当にあの男を……許せない」

 か細いが地獄の業火のように猛り狂う声が食堂に低く響く。
 深夜美は父親のことをいたく嫌っているようであった。

「もう大丈夫ですよ……貴方はこれで宇津僚うつのつかさという新しい姓を名実共に得られるのです」
 凄艶な美貌に見惚れていることを隠しながら艶子が言ってやると、
 深夜美ははっと我に返ったように明るい表情を取り戻し、頷いた。

「お辛かったでしょうが、艶子様とお幸せになられませ」
 瞳を潤ませながら、田村が深夜美の肩を小突いた。
 深夜美はすっかりいつも通りに戻って、口許には笑みを浮かべている。
「結婚しても、家事は引き続きお任せくださいね」
「それは困ります。赤松さん……
 いえ、深夜美様は主人であらせられるのだから。
 新たにハウスキーパーを探して……」
「その主人が人件費節約を考えているのですよ? 
 意向には従っていただかなくては」
 田村を言いくるめる深夜美は、忌まわしい姓を捨て生まれ変わったように、赤い瞳を爛々と輝かせていた。



 気をよくした深夜美が台所を占拠して作りあげた本格派のボロネーゼパスタがその晩の夕食であった。
 コクのある赤ワインを使ったソースの美味しさに衝撃を受け、小食のくせにおかわりなどしてしまった鎮神は食後に少し気分が悪くなり、濡縁に腰掛け涼んでいた。

「深夜美さんが、おれの親父の本妻さんの後夫……おれの異母姉……いや、異母兄か? まあ、その継父になるわけか……」
 つくづく狂った家系図だ。
 しかし畏れと嫌悪の象徴だった淳一の後釜に居るのが深夜美というのは、悪くないかもしれない。
 
 ぼんやり考えていると、視界の端に白いものがちらついた。
 薄紅色のサンドレスを着た真祈が、月を見上げている。
 弓のように細い月の光でも、その銀髪はわずかに赤く色づいていた。

「首の傷は痛みませんか? 
 もう少し癒えたら、鷲本さんと士師宮ししみやさんに元気な顔を見せに行きませんか。
 来週にでも」
 鎮神が首を切ったところを見つけ、病院へ届けてくれた人たちだ。
 本来ならばすぐお礼に行くべきだったが、傷が痛々しく残っているまま行ってもしょうがないと、先延ばしにしていた。
 来週には新しい皮膚が、赤い傷を塞ぎきるだろう。
「はい。そうします」
「新月が近い。
 私たちの婚儀も明々後日になりますね」
 さらりと言われ、思考が一瞬固まった。

 コンギ、と脳内で何度か繰り返し、やはり婚儀しか無いだろうと確認する。

「なんでそういう大事なことを直近になって言うんですか!」
「あ、前に話してなかったですかね? 
 まあ、ちょっと神殿に顔出して神様に吾宸子の結婚を報告して、届にちゃちゃっと要ること書くだけですよ。
 そりゃ艶子と深夜美さんの婚姻よりは手間はかかりますけれど、一時間あれば終わります」
「そういうことを言ってるんじゃあ……」
 いわゆる心の準備とかそういうことを言いたいのだが、不安があるから心の準備というものが必要になる以上、負の感情が欠落している真祈には何を言っても無駄かもしれない。

 しかし、どれだけ法の力を宇津僚家の権力で捩じ伏せれば何重もの障害をパスして鎮神と真祈の婚姻が受理されてしまうのか。
 考えただけでも、ぞっとする。
 
 それを忘れ去るように、他のことを訊ねた。
「新月の日に結婚するのって、決まってるんですか」
吾宸子あしんすが正妻を迎えるときだけは、神に安荒寿あらずを捧げる者と、それと血を交わすものということで、厳しめに定められていますね。
 新月は、海の底で眠るルルーの民の蠢動が最も弱まる時で、邪悪から新郎新婦を守ってくれるとされていますので」

 ルルーの民。
 カルーの民と呼ばれる宇津僚の人々の原材料となった……と神話で語られる、呪術の民だ。

「月の満ち欠けとルルーの民って関係してるんですか? 
 いや、それよりルルーの民って本当の本当にいたんですか、何かの比喩とかじゃなく?」
「全て真実ですよ。
 ほとんどのルルーの民は我らカルーの民の材料として殺された。
 生き残った二人のエルバルルー、つまりとりわけ邪悪なルルーの民たちも封印された」
「今も、そいつらは地上に出たがってるんですか」
「ええ、きっと。
 言ったでしょう、神話はまだ終わっていないと。
 ここには北欧神話のように終末を予言する巫女の一人も居ない。
 キリスト教のように悪しき行いに正しき罰が与えられることを信じているわけでもない。
 神さえ裏切る気紛れな宇宙の意志こそが全て」

 正直、鎮神はルルーの民に憐れみを感じていた。
 邪悪な呪術の民、とはいえそれが誰から見た邪悪なのかは分からない。
 本人たちはただ懸命に生きていただけかもしれない。
 それを急に神の計画とやらで殺され、カルーの民の材料にされて――。
 神やカルーの民に戦を仕掛けた彼らの方が、よほどヒロイックに思える。
 しかし、二ツ河島の神話では善も悪も無駄なのだ。
 それは真祈が一番分かっているだろう。

「さ、お風呂いただこうっと」
 鎮神が物思いに耽っている間に、真祈はさっさと去って行く。
 あまりの切り替えの早さに、苦笑して見送ることしか出来ずにいると、今度は黒い影が近付いてきた。

「いい月ですね」
 言いながら、深夜美が隣に座ってきた。
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