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三章

5 もう一つの婚姻

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「そんな本、うちにありましたっけ。鎮神しずかは心当たりありますか」

 床に積まれた数十冊の本のうち、どれを指しているのかはすぐに分かった。
 言語学や民俗学の厳めしい本に混じって一冊、再婚云々という柔らかな色調のものが入り込んでいた。

「いえ、全く……」
 鎮神が答えると、真祈まきは服を収納してぬいぐるみをベッドに寝かせ、件の本を持って階下へ下りた。
 鎮神も後を追う。

「これの持ち主はどなたでしょうか」
 食堂でテレビを見ながら間食し、雑談していた艶子、田村、深夜美みやびに問う。
 艶子と深夜美が、少し焦ったような声をあげるのは同時だった。
 
 真祈はどちらに本を返せばいいのか判断しかねて、二人を見比べているようだが――
 この本は事実『二人』のものなのかもしれない、と鎮神は思い至った。

「その再婚するっていうのは艶子さんで、お相手が赤松さんなのでは……」

 鎮神が口に出した推測は的中していたらしく、私室で眠っていた有沙も召集されて、艶子が事情を打ち明ける運びとなった。

「確かに私は、少し前から赤松さんとお付き合いしておりました。
 結婚も考えています」

 罪状を告白するかのように沈痛な面持ちで艶子が言う。
 深夜美もその隣で項垂れていた。

「こそこそと隠さなくても良かったのに」
 真祈が呟くと、艶子は半ば呆れたような顔をした。
「婚姻届を用意して貴方たちにどう打ち明けるべきか悩み……
 お恥ずかしながらそのような書籍に頼ろうとしていた折に真祈がご不幸を起こすものだから言い出せなかったのです」

 不幸とは玖美の死のことだ、と、その原因と言っても過言では無い鎮神が委縮する一方で、名指しされた真祈は平然としている。
「そういうものですか。
 では、いつ結婚なさるおつもりなのです?」

「殺人宗教のくせに、変なとこで常識ぶってんじゃねえよ。
 馬鹿じゃねえの」
 有沙が口を挟んだので、真祈は彼女にも意見を求める。
「有沙は、今すぐでも構わないとお考えで?」
「どうでもいい。私はちょっと感想を述べただけだ」
「そうですね。私もどうでもいいと思ってます」
 有沙と真祈は共にドライな反応であった。

 田村は、自分は飽く迄もハウスキーパーであり一切口出ししないといった姿勢らしい。
 
 深夜美は、森で垣間見た蠱惑的な赤い瞳も唇も暗く、借りて来た猫のようだ。
 
艶子が深夜美を好きになる気持ちが、鎮神には分かる気がした。
 鎮神は淳一を――自分の父を、艶子の夫を知らない。
 しかし淳一は艶子にとって決して良い夫ではなかっただろうと、この広い家に流れる寂しさと、自身の存在そのものが告げている。
 父に顧みられることのなかった少年には、夫に棄てられた女の気持ちが、男らしさを厭う気持ちが、悲しみや諦めとして伝わってくる。
 その諦めの日々に、深夜美のような柔和な男が現れれば、そこに救いを求めるのも当然だろう。

「あの……おれはむしろ、喪中とか言わずに今すぐ結婚してもらいたいです」
 深く考えるより先に、言葉が口を衝いて出ていた。
 艶子が、信じられないといたような顔を向けてきた。
「艶子さんと赤松さんには、おれのことは気にせずに幸せになってほしいです」
 一息で言いきると、やや沈黙があって、有沙が口を開いた。
「気ぃ遣ってんの? 
 人死にの後しばらくお祝いごとを避けるのはマナーであって、別にお前のためじゃないから。
 そりゃ、こんな島でマナーもくそもあるかって話だけど」
「いえ、単に、おめでたいことがあった方が、気が紛れると思ったので」
「……あっそ。じゃあいいんじゃねーの。中立三名と賛成一人で可決で」
 有沙は顰めていた僅かに眉を緩めた。

「本当にいいんですか、鎮神様」
 おずおずと確認してくる深夜美に、鎮神は笑って応える。
「……ありがとうございます。
 艶子様、改めて、これからもよろしくお願いしますね」
 深夜美は艶子に向き直ってプロポーズじみたことを言う。
 艶子は頬を仄かに染めながら頷いた。
 
 田村が艶子をせっつき、婚姻届やら印鑑やらを取りに立たせる。
 その後ろ姿を見送りながら、良かった、と鎮神は独り言ちた。

 文机の引き出しから婚姻届を取り出す。
 仕事で役場へ行ったとき、ラックからくすねてきた一枚の紙きれ。
 艶子に希望を与えるもの。
 これが私の、若草色のシートだ。

 女のように優美な顔をこちらに向け、低く甘い声で、「家庭を築くことに憧れていた、その相手が貴女であればどんなにいいか」と深夜美は告白してきた。

 淳一との結婚には、跡継ぎをもうけ空磯へ至るという目的があった。
 宇津僚うつのつかさの義務であるその関係に愛情は無く、ただ人生の選択肢が無いことへの苦悩だけがあった。
 だが、深夜美との結婚には意味も義務も無い。
 しかしその無意味さこそが尊いのだと、それが生きるということなのだと、児戯めいた契約を前にしてはしゃぐ深夜美を見て思った。
 
 これは、少し遅れてきた本当の人生の始まりだ。

 食堂へ戻ると、皆が見守る中、必要事項をさらさらと書きこむ。
「さあ、あとは深夜美さんの欄です」
 用紙とペンを差し出した。

 ええ、と答えてペンを握ったきり深夜美は動かなくなってしまった。
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