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第一章
Ⅱ-ⅱ
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いつもより少なくとも半刻ばかりは遅かったであろう夕餉を終えるとリンはそそくさと自分の子屋に戻った。
今日は疲れた。なんてったって生まれて初めて村の北側に下りた日なのだ。結局国境壁は見ることはできなかったけれども、それは完成の儀でもなんでも、これからいくらでも見る機会はあるだろう。
「あの倉庫は何だったんだろうね」
見つけた時の衝撃はすごかった。リンは自分の過去の記憶と相まって、恐怖すら感じていた。それでも、今になって思い返してみれば確かにタックの言う通りとても古いものだったし、深く考えることもないかもしれない。今度怒られること覚悟でジウに訊いてみよう。ジウは怒るととっても怖いが、何でも知っている。きっとリンが納得するような答えを持ち合わせているはずだ。
「明日はどこ行こうかな」
リンは鉢を抱きかかえると床に座った。
どうせ何も起こりはしないと分かっていて、それでもこの子に話しかけてしまうのは、木族に対する憧れが自分の心のどこかにあるからかもしれない。
「私はね、またタックと遊びたいな」
どこでもいい。それこそ刺激的な冒険なんかじゃなくたっていいから、あの心優しい友人と同じ時を過ごしていたい。
「明日は君も連れてってあげるね」
リンは口に出して未だに自分が抱えるこの小さな植物に名前を付けていないことに気が付いた。
「君の名前はそうだなー……」
一向に成長する様子を見せないそのかわいらしい幹を眺める。
「ココにしよう」
ココなら男の子でも女の子でも大丈夫だ。それに、二文字の名前は木族である証だ。この名前を気に入ってくれたのかどうなのか分からないのが残念なとこだが、きっと喜んでいる。そんな気がした。
――カンカンカンカン
いつもは静まり返っているこの村の空に似つかわしくない甲高い金属音が突如として鳴り響いた
「何!?」
リンはココを抱きかかえたまま子屋を飛び出す
明るかった
夜なのに、とても明るかった
国境壁の方角が、燃えていた
――カンカンカンカン
耳をつんざくような金属音に混じって人々の怒号が足の下から聞こえてくる
「なんだ!?火事か!?」
「国境壁のほうだ!」
「走れ!」
「鐘を!鐘を止めさせろ!なんも聞こえねえっ!」
「――ッッ!!」
「リンこっち!降りてきなさい!」
そんな声に交じって聞こえてきたモナの声でリンは意識が鮮明になるのを感じた。
「ねえ!お母さん!何なの!?何なのこれっ!?」
リンはココを片方の腕に抱えたまま、慌てて子屋から巨木を枝伝いに飛び下りると、ちょうど六歩目でモナとその裾を掴んで怯えた顔をしているナナのいる母屋の前に着地した。
「リン、よく聞きなさい」
モナはリンの両肩に自分の手を置くと真剣なまなざしでリンを貫いた。
その表情が、雰囲気があまりにも真剣そのものでリンは自分の持ち合わせている疑問をすべて飲み込んでしまう。
「まず約束して」
モナの腰にナナはしがみついて震えている。
そういえば、ルルがいない。ルルは、ルルはどこに行っちゃったんだろう。
「お母さんとの約束を破らないってことを」
「それって、水族のこと?」
そうだ、水、私の水があればこんな火事、すぐには無理でも被害を最小限に留めることができる。
「しっ!」
怒られた。モナに迷惑はかけちゃいけない。それじゃあ、それじゃあ……
「逃げるのよ」
答えはモナがくれた。
「ナナを連れて逃げなさい。町まで行ったら、いつもの商人さんの家に行くの。いい?」
いや、よくない。その言い方では、まるでモナは逃げないみたいではないか。
「やばい!壁を越された!」
「鍬でも何でもいい!男どもは戦え!」
「ため池なら水が!」
「火族なんかに負けるんじゃねえ!!」
「うおおおおおおおおおおお!!!!!」
「ほらナナはお姉ちゃんと手を繋いで」
モナに言われてナナはよれよれとリンの手を握った。
「ねえ!なに言ってんの!?お母さんも逃げるよ!ねえ!」
必至でモナの手を引っ張るリン。しかしモナはびくりともしない。そこにははっきりと拒絶の意があった。
「どうして……」
リンはモナの手を放す。力なく数歩下がると、その意図をくみ取ろうとモナの瞳を見つめる。
悲しみだった。頑なに一文字に縛った唇と、それを開いてしまえば、リンを傷つけてしまうのが分かっているから、だから何も言うまいとしていることがありありと読み取れる悲しみと決意に満ちた表情。
「もういい!分かった!お母さんがここに残るなら私もここに残る!」
違う、怒りたいんじゃない、そうじゃない。
「行って!!お願いだから行って!!」
モナが声を枯らす。
「家族を!失いたくないの!」
感情的になったモナを見たのはいつぶりだろう。
いつの間にか鐘の音は止んでいた。さっきから怒号を交わしていた大人たちも皆北側に降りて行ったみたいだった。少し遠くのほうで大勢の人々が叫んでいるのがうっすらと、でもその存在を勘違いにはさせてくれないほどにははっきりと聞こえてくる。
「それってお父さんのこと?」
なら、お父さんも一緒に逃げればいい。
それでもモナは話したがらない。
「分んないよ!もう全然分かんない!ちゃんと言って!大丈夫!私は大丈夫だからっ!」
ナナがくいくいとリンの袖を引っ張る。
「何!?」
「お家だよ」
「?」
「巨木(おうち)はね、歩けないから、走れないから。だから一緒にいてあげないと」
――ドッッカアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッッ!!!!
どこからか爆音が聞こえた。リンの視界には炎が見えた。黒煙が見えた。知らない鎧を着た男たちも見えた。リンたちを指さしてなんか言っている。
今日見た倉庫に火が達したんだとすぐに思い至る。あの爆弾が全て爆発したのかもしれない。
みんな死んじゃったかもしれない。
でも、そんなことどうでもよかった。
「お母さんは!お母さんは!木と私どっちが大事なの!」
叫んでいた。涙が止まらなかった。自分の叫びがモナを深く深く傷つけることを知っていながら、それでも、認めたくなかった。木なんかと、木なんかと自分の命が同じ重さだなんて信じたくなかった。
「どっちもよ」
「!」
訊いたのは自分で、傷つきたかったのも自分なのに、傷ついた。どうしようもなく傷付いた。
「木族に、みんなにちょっとは近づけたかなって最近思ってた」
そんなことなかった。絶対に越えられない溝があった。
「木が憎い」
今、私のお母さんの命を奪おうとしている木がとてつもなく憎い。
リンはココを地面に落とした。鉢は盛大な音をたてて割れた。木族にはそんなことはできない。何故なら木族には彼らの声が聞こえるから。
でもリンにはできる。木族じゃないから。彼らの声が聞こえないから。
「うわーーーーーーーん」
涙が止まらない。感情が壊れそうだ。分からないって怖い。家族のことが分からないってとても恐ろしい。
ごめんなさい、お母さん、私は大事なお母さんの隣にいるために大事なお母さんとの約束を破ります。
「うああああああああああああああああああああああああああ」
リンはナナの手を振り払うと両の掌に巨木三つ分の高さはあるであろう大きな水の塊を作った。あーあ、お姉ちゃん嫌われちゃったかもと心のどこか冷静な部分が苦笑する。
「リン!ダメ!見てる!見られてるから!」
「ダメじゃないっ!!」
そう、ダメじゃない。救ってやるんだ、この村の大好きで優しくて、それでもやっぱり理解できないみんなのことを……。
リンが大きな大きな叫び声をあげると、水の塊ははじけて、バケツをひっくり返したような勢いの土砂降りの水を、ナリ村に降らせた。
今日は疲れた。なんてったって生まれて初めて村の北側に下りた日なのだ。結局国境壁は見ることはできなかったけれども、それは完成の儀でもなんでも、これからいくらでも見る機会はあるだろう。
「あの倉庫は何だったんだろうね」
見つけた時の衝撃はすごかった。リンは自分の過去の記憶と相まって、恐怖すら感じていた。それでも、今になって思い返してみれば確かにタックの言う通りとても古いものだったし、深く考えることもないかもしれない。今度怒られること覚悟でジウに訊いてみよう。ジウは怒るととっても怖いが、何でも知っている。きっとリンが納得するような答えを持ち合わせているはずだ。
「明日はどこ行こうかな」
リンは鉢を抱きかかえると床に座った。
どうせ何も起こりはしないと分かっていて、それでもこの子に話しかけてしまうのは、木族に対する憧れが自分の心のどこかにあるからかもしれない。
「私はね、またタックと遊びたいな」
どこでもいい。それこそ刺激的な冒険なんかじゃなくたっていいから、あの心優しい友人と同じ時を過ごしていたい。
「明日は君も連れてってあげるね」
リンは口に出して未だに自分が抱えるこの小さな植物に名前を付けていないことに気が付いた。
「君の名前はそうだなー……」
一向に成長する様子を見せないそのかわいらしい幹を眺める。
「ココにしよう」
ココなら男の子でも女の子でも大丈夫だ。それに、二文字の名前は木族である証だ。この名前を気に入ってくれたのかどうなのか分からないのが残念なとこだが、きっと喜んでいる。そんな気がした。
――カンカンカンカン
いつもは静まり返っているこの村の空に似つかわしくない甲高い金属音が突如として鳴り響いた
「何!?」
リンはココを抱きかかえたまま子屋を飛び出す
明るかった
夜なのに、とても明るかった
国境壁の方角が、燃えていた
――カンカンカンカン
耳をつんざくような金属音に混じって人々の怒号が足の下から聞こえてくる
「なんだ!?火事か!?」
「国境壁のほうだ!」
「走れ!」
「鐘を!鐘を止めさせろ!なんも聞こえねえっ!」
「――ッッ!!」
「リンこっち!降りてきなさい!」
そんな声に交じって聞こえてきたモナの声でリンは意識が鮮明になるのを感じた。
「ねえ!お母さん!何なの!?何なのこれっ!?」
リンはココを片方の腕に抱えたまま、慌てて子屋から巨木を枝伝いに飛び下りると、ちょうど六歩目でモナとその裾を掴んで怯えた顔をしているナナのいる母屋の前に着地した。
「リン、よく聞きなさい」
モナはリンの両肩に自分の手を置くと真剣なまなざしでリンを貫いた。
その表情が、雰囲気があまりにも真剣そのものでリンは自分の持ち合わせている疑問をすべて飲み込んでしまう。
「まず約束して」
モナの腰にナナはしがみついて震えている。
そういえば、ルルがいない。ルルは、ルルはどこに行っちゃったんだろう。
「お母さんとの約束を破らないってことを」
「それって、水族のこと?」
そうだ、水、私の水があればこんな火事、すぐには無理でも被害を最小限に留めることができる。
「しっ!」
怒られた。モナに迷惑はかけちゃいけない。それじゃあ、それじゃあ……
「逃げるのよ」
答えはモナがくれた。
「ナナを連れて逃げなさい。町まで行ったら、いつもの商人さんの家に行くの。いい?」
いや、よくない。その言い方では、まるでモナは逃げないみたいではないか。
「やばい!壁を越された!」
「鍬でも何でもいい!男どもは戦え!」
「ため池なら水が!」
「火族なんかに負けるんじゃねえ!!」
「うおおおおおおおおおおお!!!!!」
「ほらナナはお姉ちゃんと手を繋いで」
モナに言われてナナはよれよれとリンの手を握った。
「ねえ!なに言ってんの!?お母さんも逃げるよ!ねえ!」
必至でモナの手を引っ張るリン。しかしモナはびくりともしない。そこにははっきりと拒絶の意があった。
「どうして……」
リンはモナの手を放す。力なく数歩下がると、その意図をくみ取ろうとモナの瞳を見つめる。
悲しみだった。頑なに一文字に縛った唇と、それを開いてしまえば、リンを傷つけてしまうのが分かっているから、だから何も言うまいとしていることがありありと読み取れる悲しみと決意に満ちた表情。
「もういい!分かった!お母さんがここに残るなら私もここに残る!」
違う、怒りたいんじゃない、そうじゃない。
「行って!!お願いだから行って!!」
モナが声を枯らす。
「家族を!失いたくないの!」
感情的になったモナを見たのはいつぶりだろう。
いつの間にか鐘の音は止んでいた。さっきから怒号を交わしていた大人たちも皆北側に降りて行ったみたいだった。少し遠くのほうで大勢の人々が叫んでいるのがうっすらと、でもその存在を勘違いにはさせてくれないほどにははっきりと聞こえてくる。
「それってお父さんのこと?」
なら、お父さんも一緒に逃げればいい。
それでもモナは話したがらない。
「分んないよ!もう全然分かんない!ちゃんと言って!大丈夫!私は大丈夫だからっ!」
ナナがくいくいとリンの袖を引っ張る。
「何!?」
「お家だよ」
「?」
「巨木(おうち)はね、歩けないから、走れないから。だから一緒にいてあげないと」
――ドッッカアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッッ!!!!
どこからか爆音が聞こえた。リンの視界には炎が見えた。黒煙が見えた。知らない鎧を着た男たちも見えた。リンたちを指さしてなんか言っている。
今日見た倉庫に火が達したんだとすぐに思い至る。あの爆弾が全て爆発したのかもしれない。
みんな死んじゃったかもしれない。
でも、そんなことどうでもよかった。
「お母さんは!お母さんは!木と私どっちが大事なの!」
叫んでいた。涙が止まらなかった。自分の叫びがモナを深く深く傷つけることを知っていながら、それでも、認めたくなかった。木なんかと、木なんかと自分の命が同じ重さだなんて信じたくなかった。
「どっちもよ」
「!」
訊いたのは自分で、傷つきたかったのも自分なのに、傷ついた。どうしようもなく傷付いた。
「木族に、みんなにちょっとは近づけたかなって最近思ってた」
そんなことなかった。絶対に越えられない溝があった。
「木が憎い」
今、私のお母さんの命を奪おうとしている木がとてつもなく憎い。
リンはココを地面に落とした。鉢は盛大な音をたてて割れた。木族にはそんなことはできない。何故なら木族には彼らの声が聞こえるから。
でもリンにはできる。木族じゃないから。彼らの声が聞こえないから。
「うわーーーーーーーん」
涙が止まらない。感情が壊れそうだ。分からないって怖い。家族のことが分からないってとても恐ろしい。
ごめんなさい、お母さん、私は大事なお母さんの隣にいるために大事なお母さんとの約束を破ります。
「うああああああああああああああああああああああああああ」
リンはナナの手を振り払うと両の掌に巨木三つ分の高さはあるであろう大きな水の塊を作った。あーあ、お姉ちゃん嫌われちゃったかもと心のどこか冷静な部分が苦笑する。
「リン!ダメ!見てる!見られてるから!」
「ダメじゃないっ!!」
そう、ダメじゃない。救ってやるんだ、この村の大好きで優しくて、それでもやっぱり理解できないみんなのことを……。
リンが大きな大きな叫び声をあげると、水の塊ははじけて、バケツをひっくり返したような勢いの土砂降りの水を、ナリ村に降らせた。
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