12 / 16
12.黒雨(こくう)
しおりを挟む
保健室を後にして、僕と月森は学校に置いてある傘を無断で拝借、おまけに途中で授業を放り出して小山内の家へと向かった。根が生真面目な月森はたいそう罪悪感を抱いていたけれど、僕は「何とかなるって」といい加減な魔法の言葉で彼女を誘導した。実際、そんな細かいことに構っていられる状況ではない。
「本当に、大丈夫かなぁ……」
やましいことをまだ引きずっているのか、学校の正門を出たところで月森が弱々しく言った。
「いちいち気にしててもしょうがないだろ」
「そりゃそうだけど」
傘で雨をしのぎながら二人して舗装路を歩いて行った。これ以上よからぬ噂を立てられぬよう、僕は月森に歩調を合わせつつ、一定の距離を保った。そう難しくないことなのに、余計に神経を使わなければならなかった。
雨粒はあれからずっと容赦なく降り注いでいた。排水溝からは既に水があふれていて、道路には小さな水流ができつつあった。視界も悪く、時折吹く横殴りの風が僕らに襲いかかってきていた。稲光も度々起こり、遅れて空がくぐもった感じで鳴いていた。
雨。
でもこれは、ツバメの涙が降らせたものだ。 だからこの雨は、本物の雨じゃない。それを見抜いているのか、こんな土砂降りの日だっていうのに、珍しく雨蛙の鳴き声は聞こえてこなかった。
ツバメの右目のことは、月森には黙っておくことにした。ツバメと向き合おう時にそれは必要な情報だったかもしれなかったけれど、却って彼女を混乱させる恐れがあったからだ。何より、右目が見えなくなった原因やそれを隠す理由が分からない以上、憶測で物事を考えるしかない。それはそれで面倒だった。
「ねえ荻野君」
視界の端に映る月森が言った。
「何?」
「全然関係ない話なんだけれど、聞いてくれる?」
「……別に、いいけど」
語りかけの切り口にデジャブを感じつつ、ぶっきらぼうに僕は言った。
「まだ小山内さんが転校してきて間もない頃ね、私にある鳥について話してくれたことがあるの」
「鳥?」
「うん。なんでも自分とすごく似てる鳥だからっていうんだけど……」
おもむろに月森が立ち止まり、僕はつんのめりながら彼女の方を振り返った。
「荻野君は『アマツバメ』っていう鳥、知ってる?」
ツバメの住むアパートに着いた時には二人とも雨の被害をかなり受けていた。靴に至っては壊滅的で、靴下まで見事にやられていた。上半身は傘を差していたとはいえ、横殴りの風にあおられた雨風だけはどうしても防げず、ところどころシャツが濡れてだらしなく体に張り付いていた。ぽたぽたと、二人して髪の毛先から水滴を垂らしている。
「しばらく休憩した後で行かない? びしょ濡れだと悪いし」
額に張り付いた髪を片手で払いながら、月森はおもむろにバックからタオルを取り出して僕に向けて差し出した。
「使って。荻野君タオル持ってないでしょ?」
「いいよ、月森が使えよ」
「あたしなら大丈夫だよ」
「びしょ濡れのどこが大丈夫なんだよ」
どこまでお人好しなんだろう。
僕はあきれつつ、月森の言うことにがんとして反対し続けた。ここで引いたら、今度こそ男としてのプライドがなくなるような気がした。
遠慮する僕にとうとう彼女は折れて、それからタオルでわしゃわしゃと頭を拭き始めた。その間、開いた月森のバックの中で、ツバメが持っていた日傘が小刻みに揺れているのが見えた。保健室でけなすように迫った千鶴に圧されても、月森は日傘を捨てようとはしなかった。見る限りもう日を遮るどころか、差すこともままならない。その点で言えば使い道のないただのオンボロ傘だ。けれど、ツバメとの繋がりを絶ちたくないという彼女の気持ちが、そう行動させたのかもしれなかった。
そうこうしているうちに、月森が頭を拭き終えた。
「荻野君、ちょっと濡れてるけど使って」タオルを差し出してくる。「やっぱり濡れたままはダメだよ。そのうち風邪引いちゃうし」
「大丈夫。そこまで濡れてるってわけでもないし、帰って風呂にでも入ればすぐ温まる」
「帰ってからじゃ遅いよ」
「いいよ。それより早く済ませよう」
僕は出張って意地を張りながらアパートの中央階段を上がり、二階の一角にある小山内宅へ向かい、玄関先のインターホンを鳴らした。一度は鳴らしたことがあったせいか、前回ほどの緊張感はなかった。
玄関越しに、訪問者の到着を知らせる軽快な音が流れるのがわずかに聞こえた。けれど期待していた手応えは全然なかった。
もう一度鳴らす。
反応はない。
「いないのかな?」月森が呟く。
「さすがに帰ってるはずだろう」
「どこか途中で寄り道してるとか」
「寄り道って、どこに?」
「んん、それは……」
口籠もる月森を差し置いて、試しに玄関のドアノブに手をかけてみる。
がちゃり。
ドアノブは気味が悪いくらいすんなり降り、ゆっくり引いてみると引き戸が開いた。誰もいないのか室内には明かりは一切付いておらず、暗闇がうっすらと立ちこめていた。
「ちょ、ちょっと」月森が慌てて制してくる。「ダメでしょ勝手に」
「試しに引いてみただけだよ」
「だからって……」
狼狽えるツバメを尻目に室内に向けて声をかけてみる。けれどインターホンを鳴らした時と同じで返事は一向に返ってこない。
普通ならここで大人しく出直すのがベストだ。
でも。
シチュエーション的に見れば、ツバメに近づくことができるかもしれない数少ないチャンスだ。活かさない手はない。
足を一歩前へ踏み出す。
それとほぼ同時に月森にぐいっと右腕を引かれた。振り返ると彼女は深刻な面持ちをしていた。
「荻野君」
ゆっくりと、しかし真っ直ぐな声で彼女は言った。じりじりと、彼女に握られている右腕の部分が痺れてくる。
僕はしばらく月森と睨み合い、ふと彼女の力が緩んだところで手を振り払い、玄関で靴と靴下を脱いで室内へどかどか上がった。後方で月森が必死に呼んでいるのを無視して、リビングの蛍光灯を点けるスイッチを闇雲に探して、そして押した。
ぱっと明るくなり、リビングの全景が露わになった。リビングは前にツバメの父親と対談した時とあまり変わっていなかった。あれから一ヶ月と少し経っているというのに、段ボールは相変わらず荷ほどきが済んでいない物があちこちに点在していた。ソファには通っている中学校のバックが無造作に置かれていた。ツバメの物だ。となると、彼女は一度ここへ帰ってきているということになる。
「聞いてるの荻野君?」玄関先から月野が叫ぶ。「警察に通報されても知らないからね」
「その時は上手く月森が弁護してよ」
「嫌よ」
僕は冗談で言ったつもりなのに、月森はまったく請け合ってくれなかった。
「ねえ、絶対これ悪いって」
「悪いって、授業サボっといて今更何を言ってるんだよ」
「それとこれは別でしょ?」
「どっち道、先生に叱られるのは目に見えてるんだから」
部屋をぐるりと見渡し、それから玄関先の月森へ視線を移す。
「どうせ叱られるなら、徹底的にやった方がいい」
それは僕と浩人がイタズラをやるにつれて学んだことだった。一度悪いことをしたんなら、徹底的にやり込んだ方がすっきりするし、後悔もしない。
「それに」僕は更に言い添えた。「ツバメがああまで拒絶する訳、見つかるかもしれないだろ? 誰かに詰め寄られたら僕に無理矢理やらされたって言えばいい」
それは月森にとってほぼ殺し文句に近かった。
すると根負けしたのか、ようやく月森は玄関先で靴とソックスを脱いで上がってきた。
「……今回だけだからね」
ばつの悪い顔で月森が言う。
「うん、今回だけでいい」
改めて部屋を見渡す。そこで以前ここへ来たときに、奥に戸で閉められている部屋が二つ存在していたことを思い出した。部屋の数からして、どちらかがツバメの部屋に該当するはずだ。
「月森、こっち」
僕は彼女を手招きして、部屋があるリビングの奥へ向かった。部屋は隣同士で隣接する形になっていた。こちらも人手は二人。僕は手分けして中を探索する作戦を頭の中で立てた。
「左の部屋はこっちで見るから、月森はそっちの部屋を見て」
そう言って右の部屋を指す。
「……うん」
おずおずと彼女がオーケーのサインを出したのを確認して、僕は左の部屋のドアノブをゆっくりと回して中へ入った。
まず目に入ったのものが大きな本棚だった。人の背丈分もある本棚に、ぎっしりと書物が詰まっていた。見る限り部屋はツバメの父親の書斎のようだった。本棚には私物用の物もあれば、業務用の資料も並んでいた。父子家庭用の参考書が並んでいるかところからして、子育てが苦手という話は本当だったみたいだった。
部屋の奥にはシングルのベッド、その手前には小型のディスクが置かれており、その上に簡易な電気スタンドと閉じられたノートパソコンが一台、そして写真立てが一つ飾られていた。
近づいて写真を覗いてみると、三十代前後と思われる女性の人が写っていた。撮影したのは夏頃だろうか、生い茂る緑と青空を背景にして、その女性は少しだけ微笑んでこちらを見ていた。
その女性が亡くなったツバメの母親なのだとすぐ気づいた。あの仏像似の父親にはもったいないくらい美人な人だった。黒髪は長く、ツバメと似ている顔のパーツがいくつもあった。優しそうで、子ども思いの母親。それが写真を見てからの第一印象だった
前にここを訪ねた後で会ったツバメは、僕に母親のことを知ってほしくない様子だった。今思えば、重要なことを母親を通して握られたくないという威圧が彼女からにじみ出ていたような気もする。
書斎をぐるりと回り終える。けれどツバメに繋がりそうな物はまったく見あたらなかった。ノートパソコンを立ち上げて中を覗いてみようとしたものの、ご丁寧にパスワードがかけられていた。適当にキーボードを叩きパスワードを入力してみるも、すべて弾き返されたので仕方なく断念した。
だとすれば。
僕はツバメの父親の書斎を後にして、月森がいるはずのツバメの部屋へ向かった。部屋のドアは半分だけ開いていて、その前に月森が佇んでいた。後ろからでは部屋の中を確認することができなかった。
「おい」
僕の声にびくっと月森が反応する。
「どうだった?」
「……まだ入ってはないけど」
「どうして?」
「だってこれ……」
そう言って、月森は何かにおびえるようにして部屋の方を見やった。僕は少しだけ緊張の糸を強めて、ドアを全開にして中へ入った。
僕が抱いていた女の子の部屋というのは小綺麗で、清潔感のあるものだった。現実的には違うのかもしれないけれど、十四歳の僕にはそれくらいのビジョンしか考えつかなかった。
その考えをもとにすれば、ツバメの部屋はかなり異質なものだった。ベッドや勉強机があったのは僕のイメージとうまく合致した。問題はその他だった。部屋の隅にあるタンスは引き出しは剥き出しになっていて、中の衣類が部屋中に散乱していた。まるで空き巣に入られたみたいだった。よくよく目を凝らしてみると、衣類に混じって小さな駄菓子が部屋のあちこちに点在していた。
ウエハース。
確かにツバメがいつも食べていたものだった。パックはそのままの状態の物もあったし、破れて中身が砕け散ったものもあった。粉末状にまで粉々になったウエハースが、部屋を歩いているうちに足の裏にかすかに感触を伝えてきた。
「……ドロボウが入った、のかな?」
「多分違うと思う。向こうの部屋は全然荒らされてなかったし、この部屋だけ荒らされてるのは不自然だ」
「じゃあこれって……」
「……あいつ以外に、誰がいるんだよ」
ためらいながら僕は言った。ヒステリックな光景に僕は息を呑みながらツバメの勉強机に近づいた。机の上には教材がいくつかあったけれど、勉強したような形跡は一切なかった。そんな中、教材の近くに小さく丸い水色のケースのが置いてあるのを僕は見つけた。
なんだ?
興味をそそられて、小さいケースを開いてみる。開くと持ち手側が映し出されるようにしてフタの裏に鏡が付けられており、奥には小さなボトルとピンセットがあった。底の手前にはL、Rと掘られた小さな容器があって、開けてみると透明な液体の中に薄く丸い物体が入っていた。Lの方は透明なものだが、Rの方は中央は黒く、その周りを茶色が囲んでいる。
化粧品の一種かと思い不思議に眺めていると、
「それ、カラーコンタクトじゃない?」
容器の中を覗きながら月森が言った。
「カラーコンタクト?」
「うん。私はやったことないんだけどね、目に付けて……何だっけ……そう、光彩っていうところの色を変えられるの」
「光彩?」
「人間の眼って、真ん中にこうやって黒いのがあるでしょ? これが瞳孔」説明しながら、月森は自分の右目を指差す。「その周りにあるのが光彩って言うの。私のは茶色。分かる?」
僕は頷いて理解を示した。さすが成績優秀とだけあって月森は物知りだ。
「で、カラーコンタクトは光彩の上から被せるように作ってあるから、普段とは違う色で光彩を表現できるようになるの。簡単に言っちゃえば、瞳の色を変えられるの」
でも、と月森は怪訝そうに続けた。
「これは、ちょっと変だね」
「変? どこが?」
「だって、普通は光彩の部分だけを隠すはずなのに、瞳孔の部分も塗っちゃてるから……そうすると視界を絶っているのと変わらないよ」
視界を絶つ。
それは、ツバメの右目と繋がっているように思えた。片方のカラーコンタクトの中央が黒く塗られているのも、Rが「右」を表しているのなら頷ける。元々失明しているのなら、視界が絶たれようと関係ない。
問題は、月森が言う瞳孔や光彩といった部分を何故隠す必要があるのかということだった。
その時。
どこかの戸が開いた音が聞こえた。
同時に鮮明な雨音が外から部屋へ駆け込んできた。きっと玄関だ。
僕ら二人は反射的に部屋から出てリビングへと向かった。嫌な予感がした。
照らされたリビング。
その先にある玄関で、恐ろしい剣幕で立っているツバメの姿があった。昨日の夜に見かけた時と同じで、白いワンピースを着ていた。右目には洗浄綿の眼帯を付けている。
「……何してるの?」
玄関の戸が閉まる直前、雷によって一線の閃光がほとばしった。
「本当に、大丈夫かなぁ……」
やましいことをまだ引きずっているのか、学校の正門を出たところで月森が弱々しく言った。
「いちいち気にしててもしょうがないだろ」
「そりゃそうだけど」
傘で雨をしのぎながら二人して舗装路を歩いて行った。これ以上よからぬ噂を立てられぬよう、僕は月森に歩調を合わせつつ、一定の距離を保った。そう難しくないことなのに、余計に神経を使わなければならなかった。
雨粒はあれからずっと容赦なく降り注いでいた。排水溝からは既に水があふれていて、道路には小さな水流ができつつあった。視界も悪く、時折吹く横殴りの風が僕らに襲いかかってきていた。稲光も度々起こり、遅れて空がくぐもった感じで鳴いていた。
雨。
でもこれは、ツバメの涙が降らせたものだ。 だからこの雨は、本物の雨じゃない。それを見抜いているのか、こんな土砂降りの日だっていうのに、珍しく雨蛙の鳴き声は聞こえてこなかった。
ツバメの右目のことは、月森には黙っておくことにした。ツバメと向き合おう時にそれは必要な情報だったかもしれなかったけれど、却って彼女を混乱させる恐れがあったからだ。何より、右目が見えなくなった原因やそれを隠す理由が分からない以上、憶測で物事を考えるしかない。それはそれで面倒だった。
「ねえ荻野君」
視界の端に映る月森が言った。
「何?」
「全然関係ない話なんだけれど、聞いてくれる?」
「……別に、いいけど」
語りかけの切り口にデジャブを感じつつ、ぶっきらぼうに僕は言った。
「まだ小山内さんが転校してきて間もない頃ね、私にある鳥について話してくれたことがあるの」
「鳥?」
「うん。なんでも自分とすごく似てる鳥だからっていうんだけど……」
おもむろに月森が立ち止まり、僕はつんのめりながら彼女の方を振り返った。
「荻野君は『アマツバメ』っていう鳥、知ってる?」
ツバメの住むアパートに着いた時には二人とも雨の被害をかなり受けていた。靴に至っては壊滅的で、靴下まで見事にやられていた。上半身は傘を差していたとはいえ、横殴りの風にあおられた雨風だけはどうしても防げず、ところどころシャツが濡れてだらしなく体に張り付いていた。ぽたぽたと、二人して髪の毛先から水滴を垂らしている。
「しばらく休憩した後で行かない? びしょ濡れだと悪いし」
額に張り付いた髪を片手で払いながら、月森はおもむろにバックからタオルを取り出して僕に向けて差し出した。
「使って。荻野君タオル持ってないでしょ?」
「いいよ、月森が使えよ」
「あたしなら大丈夫だよ」
「びしょ濡れのどこが大丈夫なんだよ」
どこまでお人好しなんだろう。
僕はあきれつつ、月森の言うことにがんとして反対し続けた。ここで引いたら、今度こそ男としてのプライドがなくなるような気がした。
遠慮する僕にとうとう彼女は折れて、それからタオルでわしゃわしゃと頭を拭き始めた。その間、開いた月森のバックの中で、ツバメが持っていた日傘が小刻みに揺れているのが見えた。保健室でけなすように迫った千鶴に圧されても、月森は日傘を捨てようとはしなかった。見る限りもう日を遮るどころか、差すこともままならない。その点で言えば使い道のないただのオンボロ傘だ。けれど、ツバメとの繋がりを絶ちたくないという彼女の気持ちが、そう行動させたのかもしれなかった。
そうこうしているうちに、月森が頭を拭き終えた。
「荻野君、ちょっと濡れてるけど使って」タオルを差し出してくる。「やっぱり濡れたままはダメだよ。そのうち風邪引いちゃうし」
「大丈夫。そこまで濡れてるってわけでもないし、帰って風呂にでも入ればすぐ温まる」
「帰ってからじゃ遅いよ」
「いいよ。それより早く済ませよう」
僕は出張って意地を張りながらアパートの中央階段を上がり、二階の一角にある小山内宅へ向かい、玄関先のインターホンを鳴らした。一度は鳴らしたことがあったせいか、前回ほどの緊張感はなかった。
玄関越しに、訪問者の到着を知らせる軽快な音が流れるのがわずかに聞こえた。けれど期待していた手応えは全然なかった。
もう一度鳴らす。
反応はない。
「いないのかな?」月森が呟く。
「さすがに帰ってるはずだろう」
「どこか途中で寄り道してるとか」
「寄り道って、どこに?」
「んん、それは……」
口籠もる月森を差し置いて、試しに玄関のドアノブに手をかけてみる。
がちゃり。
ドアノブは気味が悪いくらいすんなり降り、ゆっくり引いてみると引き戸が開いた。誰もいないのか室内には明かりは一切付いておらず、暗闇がうっすらと立ちこめていた。
「ちょ、ちょっと」月森が慌てて制してくる。「ダメでしょ勝手に」
「試しに引いてみただけだよ」
「だからって……」
狼狽えるツバメを尻目に室内に向けて声をかけてみる。けれどインターホンを鳴らした時と同じで返事は一向に返ってこない。
普通ならここで大人しく出直すのがベストだ。
でも。
シチュエーション的に見れば、ツバメに近づくことができるかもしれない数少ないチャンスだ。活かさない手はない。
足を一歩前へ踏み出す。
それとほぼ同時に月森にぐいっと右腕を引かれた。振り返ると彼女は深刻な面持ちをしていた。
「荻野君」
ゆっくりと、しかし真っ直ぐな声で彼女は言った。じりじりと、彼女に握られている右腕の部分が痺れてくる。
僕はしばらく月森と睨み合い、ふと彼女の力が緩んだところで手を振り払い、玄関で靴と靴下を脱いで室内へどかどか上がった。後方で月森が必死に呼んでいるのを無視して、リビングの蛍光灯を点けるスイッチを闇雲に探して、そして押した。
ぱっと明るくなり、リビングの全景が露わになった。リビングは前にツバメの父親と対談した時とあまり変わっていなかった。あれから一ヶ月と少し経っているというのに、段ボールは相変わらず荷ほどきが済んでいない物があちこちに点在していた。ソファには通っている中学校のバックが無造作に置かれていた。ツバメの物だ。となると、彼女は一度ここへ帰ってきているということになる。
「聞いてるの荻野君?」玄関先から月野が叫ぶ。「警察に通報されても知らないからね」
「その時は上手く月森が弁護してよ」
「嫌よ」
僕は冗談で言ったつもりなのに、月森はまったく請け合ってくれなかった。
「ねえ、絶対これ悪いって」
「悪いって、授業サボっといて今更何を言ってるんだよ」
「それとこれは別でしょ?」
「どっち道、先生に叱られるのは目に見えてるんだから」
部屋をぐるりと見渡し、それから玄関先の月森へ視線を移す。
「どうせ叱られるなら、徹底的にやった方がいい」
それは僕と浩人がイタズラをやるにつれて学んだことだった。一度悪いことをしたんなら、徹底的にやり込んだ方がすっきりするし、後悔もしない。
「それに」僕は更に言い添えた。「ツバメがああまで拒絶する訳、見つかるかもしれないだろ? 誰かに詰め寄られたら僕に無理矢理やらされたって言えばいい」
それは月森にとってほぼ殺し文句に近かった。
すると根負けしたのか、ようやく月森は玄関先で靴とソックスを脱いで上がってきた。
「……今回だけだからね」
ばつの悪い顔で月森が言う。
「うん、今回だけでいい」
改めて部屋を見渡す。そこで以前ここへ来たときに、奥に戸で閉められている部屋が二つ存在していたことを思い出した。部屋の数からして、どちらかがツバメの部屋に該当するはずだ。
「月森、こっち」
僕は彼女を手招きして、部屋があるリビングの奥へ向かった。部屋は隣同士で隣接する形になっていた。こちらも人手は二人。僕は手分けして中を探索する作戦を頭の中で立てた。
「左の部屋はこっちで見るから、月森はそっちの部屋を見て」
そう言って右の部屋を指す。
「……うん」
おずおずと彼女がオーケーのサインを出したのを確認して、僕は左の部屋のドアノブをゆっくりと回して中へ入った。
まず目に入ったのものが大きな本棚だった。人の背丈分もある本棚に、ぎっしりと書物が詰まっていた。見る限り部屋はツバメの父親の書斎のようだった。本棚には私物用の物もあれば、業務用の資料も並んでいた。父子家庭用の参考書が並んでいるかところからして、子育てが苦手という話は本当だったみたいだった。
部屋の奥にはシングルのベッド、その手前には小型のディスクが置かれており、その上に簡易な電気スタンドと閉じられたノートパソコンが一台、そして写真立てが一つ飾られていた。
近づいて写真を覗いてみると、三十代前後と思われる女性の人が写っていた。撮影したのは夏頃だろうか、生い茂る緑と青空を背景にして、その女性は少しだけ微笑んでこちらを見ていた。
その女性が亡くなったツバメの母親なのだとすぐ気づいた。あの仏像似の父親にはもったいないくらい美人な人だった。黒髪は長く、ツバメと似ている顔のパーツがいくつもあった。優しそうで、子ども思いの母親。それが写真を見てからの第一印象だった
前にここを訪ねた後で会ったツバメは、僕に母親のことを知ってほしくない様子だった。今思えば、重要なことを母親を通して握られたくないという威圧が彼女からにじみ出ていたような気もする。
書斎をぐるりと回り終える。けれどツバメに繋がりそうな物はまったく見あたらなかった。ノートパソコンを立ち上げて中を覗いてみようとしたものの、ご丁寧にパスワードがかけられていた。適当にキーボードを叩きパスワードを入力してみるも、すべて弾き返されたので仕方なく断念した。
だとすれば。
僕はツバメの父親の書斎を後にして、月森がいるはずのツバメの部屋へ向かった。部屋のドアは半分だけ開いていて、その前に月森が佇んでいた。後ろからでは部屋の中を確認することができなかった。
「おい」
僕の声にびくっと月森が反応する。
「どうだった?」
「……まだ入ってはないけど」
「どうして?」
「だってこれ……」
そう言って、月森は何かにおびえるようにして部屋の方を見やった。僕は少しだけ緊張の糸を強めて、ドアを全開にして中へ入った。
僕が抱いていた女の子の部屋というのは小綺麗で、清潔感のあるものだった。現実的には違うのかもしれないけれど、十四歳の僕にはそれくらいのビジョンしか考えつかなかった。
その考えをもとにすれば、ツバメの部屋はかなり異質なものだった。ベッドや勉強机があったのは僕のイメージとうまく合致した。問題はその他だった。部屋の隅にあるタンスは引き出しは剥き出しになっていて、中の衣類が部屋中に散乱していた。まるで空き巣に入られたみたいだった。よくよく目を凝らしてみると、衣類に混じって小さな駄菓子が部屋のあちこちに点在していた。
ウエハース。
確かにツバメがいつも食べていたものだった。パックはそのままの状態の物もあったし、破れて中身が砕け散ったものもあった。粉末状にまで粉々になったウエハースが、部屋を歩いているうちに足の裏にかすかに感触を伝えてきた。
「……ドロボウが入った、のかな?」
「多分違うと思う。向こうの部屋は全然荒らされてなかったし、この部屋だけ荒らされてるのは不自然だ」
「じゃあこれって……」
「……あいつ以外に、誰がいるんだよ」
ためらいながら僕は言った。ヒステリックな光景に僕は息を呑みながらツバメの勉強机に近づいた。机の上には教材がいくつかあったけれど、勉強したような形跡は一切なかった。そんな中、教材の近くに小さく丸い水色のケースのが置いてあるのを僕は見つけた。
なんだ?
興味をそそられて、小さいケースを開いてみる。開くと持ち手側が映し出されるようにしてフタの裏に鏡が付けられており、奥には小さなボトルとピンセットがあった。底の手前にはL、Rと掘られた小さな容器があって、開けてみると透明な液体の中に薄く丸い物体が入っていた。Lの方は透明なものだが、Rの方は中央は黒く、その周りを茶色が囲んでいる。
化粧品の一種かと思い不思議に眺めていると、
「それ、カラーコンタクトじゃない?」
容器の中を覗きながら月森が言った。
「カラーコンタクト?」
「うん。私はやったことないんだけどね、目に付けて……何だっけ……そう、光彩っていうところの色を変えられるの」
「光彩?」
「人間の眼って、真ん中にこうやって黒いのがあるでしょ? これが瞳孔」説明しながら、月森は自分の右目を指差す。「その周りにあるのが光彩って言うの。私のは茶色。分かる?」
僕は頷いて理解を示した。さすが成績優秀とだけあって月森は物知りだ。
「で、カラーコンタクトは光彩の上から被せるように作ってあるから、普段とは違う色で光彩を表現できるようになるの。簡単に言っちゃえば、瞳の色を変えられるの」
でも、と月森は怪訝そうに続けた。
「これは、ちょっと変だね」
「変? どこが?」
「だって、普通は光彩の部分だけを隠すはずなのに、瞳孔の部分も塗っちゃてるから……そうすると視界を絶っているのと変わらないよ」
視界を絶つ。
それは、ツバメの右目と繋がっているように思えた。片方のカラーコンタクトの中央が黒く塗られているのも、Rが「右」を表しているのなら頷ける。元々失明しているのなら、視界が絶たれようと関係ない。
問題は、月森が言う瞳孔や光彩といった部分を何故隠す必要があるのかということだった。
その時。
どこかの戸が開いた音が聞こえた。
同時に鮮明な雨音が外から部屋へ駆け込んできた。きっと玄関だ。
僕ら二人は反射的に部屋から出てリビングへと向かった。嫌な予感がした。
照らされたリビング。
その先にある玄関で、恐ろしい剣幕で立っているツバメの姿があった。昨日の夜に見かけた時と同じで、白いワンピースを着ていた。右目には洗浄綿の眼帯を付けている。
「……何してるの?」
玄関の戸が閉まる直前、雷によって一線の閃光がほとばしった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
リモート刑事 笹本翔
雨垂 一滴
ミステリー
『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。
主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。
それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。
物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。
翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?
翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
赫然と ~カクゼント
茅の樹
青春
昭和の終わりに新人類と称された頃の「若者」にもなりきれていない少年たちが、自分自身と同じような中途半端な発展途上の町で、有り余る力で不器用にもぶつかりながら成長していく。
周囲を工事中の造成地にかこまれている横浜の郊外にある中学校に通う青野春彦は、宇田川、室戸 と共にUMA(未確認生物)と称されて、一部の不良生徒に恐れられていて、また、敵対する者ものも多かった。
殴り殴られ青春を謳歌する彼らは、今、恋に喧嘩に明け暮れ「赫然と」輝いている。
私たち、博麗学園おしがまクラブ(非公認)です! 〜特大膀胱JKたちのおしがま記録〜
赤髪命
青春
街のはずれ、最寄り駅からも少し離れたところにある私立高校、博麗学園。そのある新入生のクラスのお嬢様・高橋玲菜、清楚で真面目・内海栞、人懐っこいギャル・宮内愛海の3人には、膀胱が同年代の女子に比べて非常に大きいという特徴があった。
これは、そんな学校で普段はトイレにほとんど行かない彼女たちの爆尿おしがまの記録。
友情あり、恋愛あり、おしがまあり、そしておもらしもあり!? そんなおしがまクラブのドタバタ青春小説!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる