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延宝五年 夏  半兵衛と弥九郎と浪人と由井正雪

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 忘八という言葉がある。
 仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳目のすべてを失った人でなしの意から、郭通いをする者を指し、転じて、遊女屋の主人を指すようになる。
 そして遊女屋と言えば人の欲と金が男と女で交わる場所だ。それを差配する遊女屋の主人は必然的に暴力を求めるようになり、大名家の取り潰しであぶれた腕利きの浪人を雇う見世まで出るようになった。
 矜持を失い遊女屋の主人に尻尾を振って日々の糧を得るそんな浪人たちを、忘八と呼ばれる吉原の男たちも嫌い、忘八侍とことさらに嫌う事になった。
 吉原の大通りの一角の大店『蓬莱楼』。
 その楼主の楼主の蓬莱弥九郎ともなると、抱える忘八侍も十人を超えていた。
 蓬莱弥九郎はむすっとした顔で煙管を吸い、吐く煙は心情を表すように揺れていた。

「おう、来たかい」
「ただの簪職人を度々呼ぶなよ」
「俺はあんたを職人としてではなく、忘八侍として遇しているつもりなんだがねぇ。
 半兵衛さんよ」

 呼ばれた半兵衛も不機嫌そうに座る。
 前の仕掛けからまだ日が経っていない事もあって、職人というより侍の顔色が出ていた彼に、馴染みの花魁である冬花が茶を差し出す。
 彼女が居るって事は、少なくとも仕掛けではないらしい。

「だからさっきも言ったろ? ただの簪職人だって」

 弥九郎は煙管から灰を落としてぼやく。

「いいや、違うね。
 お前さんに命を助けられた俺としては、ただの簪職人で終わらせるつもりはないぜ」

 どうも今日弥九郎が半兵衛を呼んだのは、ただ愚痴りたいだけらしい。
 口滑らかにぼやく弥九郎だが、気楽に愚痴を言うにも吉原遊郭大店の楼主という地位が邪魔をするらしい。

「まったく、天下泰平とはどこの言葉だか。
 吉原の中も外も噂をすれば酒井だの堀田だの。
 いよいよ、やばいんだろうな」
「ああ……まあそうだな」

 四代将軍徳川家綱は体が弱く、未だ男子が居なかった事もあって、次の将軍を誰にするかで幕閣の中が対立。
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 『蓬莱楼』は先の接待で大老側に取り込まれたと吉原の中では見られていた。
 そうなれば、別の大店が今度は若年寄側につこうとする訳で。
 異界である吉原ですら、その争いに巻き込まれようとしていた。

「やれうちは雅楽頭様だの、ならばこっちは備中守様だの面倒くさくて敵わねえ。
 しがない遊郭の楼主としては、こうして気心が知れたお前さんにぼやきたくなるってもんだ」

 そう言って笑うと、蓬莱弥九郎はまた新しい煙管を取り出し火をつける。
 吸う事もなく煙管から出る煙を眺めると、半兵衛が口を開くまでに少しの間があった。

「愚痴だけなら聞くさ。
 で、何時まで俺はお前さんの愚痴を聞けばいいんだい?」
「そりゃあ、俺の気が済むまでさ。
 まぁ、大門が開くようならここで飯でも食っていけ」

 弥九郎の白々しい声に、部屋に控えていた冬花の顔がぱぁっと明るくなる。
 客が居なければ、そのまま半兵衛と一緒にいていいと言っているようなものだからだ。
 その冬花の顔を見れば半兵衛でも分かる。
 要するに、鉄砲仕事明けの半兵衛の精進落としを、馴染みの冬花でやってやろうという意図なのだろう。
 嬉しそうに支度の為に部屋を出て行った冬花を眺めて半兵衛がぼやく。

「まどろっこしいな。あんたも」
「でないと楼主なんてやってられんよ」

 半兵衛の返事に弥九郎はやっと楽しそうに笑ったのだった。

 

「ねぇ。何であんた楼主と仲がいいのよ?」

 『蓬莱楼』でそこそこの売れっ子花魁のはずなのだが、なぜか今日に限って客がつかなかった冬花の布団の中で冬花が尋ねる。
 行灯の火も消えた暗闇の中、事が終わった半兵衛は何かを吐き出すように思い出を口にした。

「たいした事じゃない。
 あの楼主が外で襲われた時に助けたのが縁でな。
 気づいたらこんな所に来ちまった」

 その言葉は正しくもないが間違ってもいない。
 ただ冬花に語るには少し生臭いってだけの話である。

「じゃあ恩人なんだ」
「いや、ただの仕事だよ」

 半兵衛の言葉に、冬花はふーんと返す。

「仕事ねぇ」
「ああ、そうだ」
「嘘つき。
 あんた優しいもの」

 闇の中なのに冬花が笑っているのが半兵衛にはわかった。
 たしかに、簪職人がどうして遊郭の主人を助けたなんて話が通ると思ったのか。
 冬花はそのまま半兵衛の腕に抱き着く。

「おい」
「あたしの体好きにして良いから、あんたの本音も教えなさいよ」

 半兵衛は溜息をつくと、冬花に背中を向けた。

「嘘じゃないさ。語ってない事もあるがな」

 その言葉を冬花は許さない。
 腕に力を込め、耳元に囁く。

「いいわ。今はそれで我慢してあげる」

 その言葉に半兵衛がびくりと体を震わせた。
 それを誤魔化すように冬花の方を振り向く。
 そして、冬花の顔が間近にある事に気づくと、慌てて顔を背ける。
 そんな初心な反応をする男に、冬花はにやりとした顔を向ける。
 そんな二人のやり取りは、月明かりだけが知っている。



 夢を見た。
 半兵衛がまだ何も知らない餓鬼だったころの話だ。
 捨て子だった彼が食うや食わずやの中生き延びられたのは、神田連雀町に住む浪人たちのおかげであった。
 彼らは仕官の道を絶たれてもなお侍であろうとしていた。
 彼らと混じった餓鬼はいっぱしの浪人風情を名乗り、彼らと共に分からぬご政道を批判したりもした。
 そんな半兵衛が種子島と出会ったのは、慶安四年の春の事。
 紀州徳川頼宣様の支援と称して渡されたそれを見て、由井正雪先生が不思議な顔をしたのを覚えている。

「種子島は常に手入れをせねばならぬ道具だ。
 誰かそれをする者はいないか?」

 正雪先生の問いかけに半兵衛が手を上げたのは、本当の所で彼が侍でなかったというのがあるのだろう。
 簪職人を選んだのは、種子島を扱う細かな道具を持てるからで、彼は決起に先んじて紀州にて種子島と簪職人の修行をする事になった。

「ならば、それ相応の名前が必要だろう。
 雑賀半兵衛。
 雑賀半兵衛と名乗るといい」

 彼みたいな素性も分からぬ者に名と意味を教えてくれた由井正雪先生に半兵衛は今も感謝している。
 ただ、彼が紀伊国にいる間に決起は失敗に終わり、由井正雪先生以下主だった浪人たちが死んでしまった事をのぞいて。
 修行を終えた半兵衛が江戸に帰る事ができたのは、彼程度の下っ端は殺す価値も捕まえる価値もなかったという事なのだろう。
 全てが終わった江戸の外れの小屋の下を掘る。
 決起の際に彼に渡されるはずだった種子島は幕府の手を逃れて、そこに眠ったままだった。
 半兵衛は簪職人として日々の糧を得ながら、その種子島を修繕する。
 今更ではあるが、何かを訴えるには遅すぎ、何もしないとあきらめるには早すぎた半兵衛の前に、浪人に追われた蓬莱弥九郎が逃げてきたのは運命だったのだろう。
 幕府の密偵として働いていた弥九郎は、由井先生亡き後浪人たちが幕閣を襲撃する計画を突き止め、そのために襲撃者から追われていたらしい。
 それを知っていたら半兵衛は弥九郎の方を撃っていただろう。
 だが、知らなかった彼は、由井先生がしただろう弱きを助けて強きをくじくとばかりに、何も持っていなかった弥九郎ではなく、刀を持って今にも斬りかかろうとした浪人の方を撃った。
 紀伊で学んだ種子島の腕は、浪人の命を一撃で失わせるだけの力があった。

「あ、あんた……それは御禁制の種子島じゃないか……」
「行きな。助かった命無駄にしたくはないだろう?
 覚えてくれるなら、そのうちでいいから、由井先生の為に線香でもあげてくんな」
「由井先生……っ!?
 あんた、由井の残党か?」
 切羽詰まった弥九郎の声がおかしくて、半兵衛は種子島を置いて苦笑した。
「残党にすらなれなかった男さ」
 


 その日以来、半兵衛と弥九郎は共にいるようになった。
 弥九郎は幕府の密偵として働き、幕閣襲撃を未然に防いだとして吉原の遊郭の楼主という忘八者としては破格の出世をする事になり、その恩人である半兵衛の赦免の為にかなり無理をしたらしい。
 そうして過ごす内に、いつしか二人は腐れ縁となり、吉原の幕府密偵の頭の一人である弥九郎とその下で鉄砲働きをする忘八侍の半兵衛という関係ができあがる。
 弥九郎の仕掛けで殺した人間の数を半兵衛は覚えておらず、気づけは簪職人を名乗りながら、ここ『蓬莱楼』では忘八侍の古株として一目置かれている始末。

「あ、起きた?」

 半兵衛が目を開けると冬花の顔が広がる。
 開けられた障子の外には明けの空が広がりつつあった。

「朝ご飯どうする?」
「食べる前に、一風呂浴びたいな。
 昨日の合戦で汗まみれだ」
「あら?
 討ち死にしたのは誰だったかしら?」

 そんな掛け合いをしながら下に降りると、待ち構えていたかのように弥九郎が俺の顔を見て笑って奥に消えていった。
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