上 下
136 / 202

135.すり抜ける幸せでも、背骨になって支えている

しおりを挟む
 あゆたはぐっと奥歯を噛んだ。

 花瓶には色鮮やかなケイトウの花束が活けてあった。

(全然、気付かなかった……)

 草花を愛するあゆたなら、いつもだったらすぐに目に入っただろう。それだけ窮していたということだ。どれだけ視界が閉ざされていたのか。

 オレンジヤやピンク、赤。派手なのは八月一日宮と同じだ。刈り上げた首筋のすっきりとした後ろ姿。金色の髪がきらきら揺れてあゆたを振り返る笑顔。万華鏡のように色んな色を纏って八月一日宮との記憶が溢れた。
あゆたは頬を震えさせた。まるで暗い海にぽつんと灯った漁火のようだった。

『あなたが夢中になって話しているの、好きですよ』

 ケイトウの鮮やかさは、あの日の八月一日宮の笑顔を思い出させた。早口になるあゆたをせせら笑うことなく、八月一日宮は楽しそうに言ってくれた。楽しいお出かけ。庭を歩いた午後。おいしいお蕎麦の湯気のむこうにいたひと。

(八月一日宮……)

 そうだ。

 暗いばかりの日々ではなかった。
 
 初恋は実らないのが定石でも、八月一日宮が誰かと恋をしても、八月一日宮と一緒に過ごした時間は消えない。あゆたを尊敬していると言ってくれた事実も。
 
 幸せは指の間をすり抜けていく。自分一人で歩いて行かなければならない。

 しかしその一人きりの道を支えてくれる、確かなものは永遠に胸に残り続ける。
 
 涙が出そうになった。

 そんなことも思い出せなかったなんて。
 
 あゆたは両手で顔をごしごしこすった。ぱんと音が出るほど両手で頬を叩いた。

「がんばれ、がんばれ……」

 あゆたは自分に暗示をかけるように小さく言った。

 生きるのが辛い。生きていても邪魔にされるだけ。
 
 でもたった一人、八月一日宮は先輩としてのあゆたを好きだと、尊敬していると言ってくれたのだ。その一言が背骨になってあゆたの背筋をしゃんと伸ばしてくれた。

 華奢で非力なオメガが多いなか、肉体労働をしてきたあゆたは比較的上背もあるし力も強い。

 死に物狂いで抵抗すれば、この場はやり過ごせるかもしれない。こちらも無傷では済まないだろうが、何かしないで諾々と流されるままに押し通されるのも嫌だ。

 顔を潰された信善は怒り狂うだろう。後から折檻されるに違いない。

 怖い。肉体的暴力も恐ろしいが、心を殺されるのも怖かった。

 これで駄目だったら、もうどうしようもない。

 抵抗してすべてをやり尽くして、それでも駄目だったのだと諦める為の反抗かもしれない。
 
 怖い。
 
 震えながら、あゆたはふらふらと立ち上がった。
 
 ちろりと見やった壁掛け時計。ずっと自失していたので、信善の言っていた時間まで、既に十五分もなかった。

 スツールを持ち上げる。軽い。あゆたはスツールの脚をぎゅっと握りしめた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

孕めないオメガでもいいですか?

月夜野レオン
BL
病院で子供を孕めない体といきなり診断された俺は、どうして良いのか判らず大好きな幼馴染の前から消える選択をした。不完全なオメガはお前に相応しくないから…… オメガバース作品です。

α嫌いのΩ、運命の番に出会う。

むむむめ
BL
目が合ったその瞬間から何かが変わっていく。 α嫌いのΩと、一目惚れしたαの話。 ほぼ初投稿です。

欠陥αは運命を追う

豆ちよこ
BL
「宗次さんから番の匂いがします」 従兄弟の番からそう言われたアルファの宝条宗次は、全く心当たりの無いその言葉に微かな期待を抱く。忘れ去られた記憶の中に、自分の求める運命の人がいるかもしれないーー。 けれどその匂いは日に日に薄れていく。早く探し出さないと二度と会えなくなってしまう。匂いが消える時…それは、番の命が尽きる時。 ※自己解釈・自己設定有り ※R指定はほぼ無し ※アルファ(攻め)視点

僕にとっての運命と番

COCOmi
BL
従兄弟α×従兄弟が好きなΩ←運命の番α Ωであるまことは、小さい頃から慕っているαの従兄弟の清次郎がいる。 親戚の集まりに参加した時、まことは清次郎に行方不明の運命の番がいることを知る。清次郎の行方不明の運命の番は見つからないまま、ある日まことは自分の運命の番を見つけてしまう。しかし、それと同時に初恋の人である清次郎との結婚話="番"をもちかけられて…。 ☆※マークはR18描写が入るものです。 ☆運命の番とくっつかない設定がでてきます。 ☆突発的に書いているため、誤字が多いことや加筆修正で更新通知がいく場合があります。

ハッピーエンド

藤美りゅう
BL
恋心を抱いた人には、彼女がいましたーー。 レンタルショップ『MIMIYA』でアルバイトをする三上凛は、週末の夜に来るカップルの彼氏、堺智樹に恋心を抱いていた。 ある日、凛はそのカップルが雨の中喧嘩をするのを偶然目撃してしまい、雨が降りしきる中、帰れず立ち尽くしている智樹に自分の傘を貸してやる。 それから二人の距離は縮まろうとしていたが、一本のある映画が、凛の心にブレーキをかけてしまう。 ※ 他サイトでコンテスト用に執筆した作品です。

【完結】あなたの妻(Ω)辞めます!

MEIKO
BL
本編完結しています。Ωの涼はある日、政略結婚の相手のα夫の直哉の浮気現場を目撃してしまう。形だけの夫婦だったけれど自分だけは愛していた┉。夫の裏切りに傷付き、そして別れを決意する。あなたの妻(Ω)辞めます!  すれ違い夫婦&オメガバース恋愛。 ※少々独自のオメガバース設定あります (R18対象話には*マーク付けますのでお気を付け下さい。)

貴方の事を心から愛していました。ありがとう。

天海みつき
BL
 穏やかな晴天のある日の事。僕は最愛の番の後宮で、ぼんやりと紅茶を手に己の生きざまを振り返っていた。ゆったり流れるその時を楽しんだ僕は、そのままカップを傾け、紅茶を喉へと流し込んだ。  ――混じり込んだ××と共に。  オメガバースの世界観です。運命の番でありながら、仮想敵国の王子同士に生まれた二人が辿る数奇な運命。勢いで書いたら真っ暗に。ピリリと主張する苦さをアクセントにどうぞ。  追記。本編完結済み。後程「彼」視点を追加投稿する……かも?

初夜の翌朝失踪する受けの話

春野ひより
BL
家の事情で8歳年上の男と結婚することになった直巳。婚約者の恵はカッコいいうえに優しくて直巳は彼に恋をしている。けれど彼には別に好きな人がいて…? タイトル通り初夜の翌朝攻めの前から姿を消して、案の定攻めに連れ戻される話。 歳上穏やか執着攻め×頑固な健気受け

処理中です...