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79.もっと深くもっと近くに
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おいしい。驚いて、顔を見合わせた。蕎麦の味がしっかりしている。厨房の横のガラスの向こうで打ったばかりなのだろう。
「……蕎麦、おいしいですね」
「うん、信夫が勧めてくるだけあるな」
信夫はおいしいものばかり食べつけているので、かなり舌が肥えているのだ。次期当主として信善に伴われ社交界にも顔を出しているので、交友関係は計り知れない。高校生が蕎麦屋に精通しているのが一般的か知らないが、あゆたは信夫の食通振りに舌を巻いた。
「梅渓さんに、お礼言っておいてください」
「どうせ会うだろ? あの、アルファの集まりとか」
「そうですね、でも出入りするアルファの数も多いので、梅渓さんと話す機会があるかどうか」
夏の終わりの嵐の夜、梅渓の母屋であったパーティーのことが思い出された。
あゆたは部外者で、庭の植物が痛まないように鉢を移したり、紐や添え木をしたりと汗まみれになっていた。真夜中の海に浮かぶ豪華客船のようにパーティーの大広間の灯りを横目に遠く眺めていた。
あの遠い灯りの下にいた八月一日宮が、今は目の前にいる。
「あゆたさん?」
いきなり食べ止めてぼけっとしてしまった。
「もうお腹いっぱいになりましたか? 残りは全部俺が食べましょうか?」
まだ入れそうだが、食べ過ぎはよくない。素直にあゆたは降参した。
「そうだな、後はまかせていいか?」
「喜んで。僕は西の出身ですから、蕎麦よりうどん派ですが、ここの蕎麦はおいしいですね。認識を変えなければ」
「そうか。連れてきてよかった」
「はい、今度兄が……」
あゆたはふたつの湯呑に急須からお茶を注いだ。緑の香気がふわりと広がる。静かに鍋はくぷくぷ煮えている。あゆたは湯飲みのひとつを八月一日宮のほうへ置いた。
「すぐ上の兄が、秋の休みに一時帰国するんです。それで俺の様子見がてら別邸に来てくれると。その時にここに連れて行きたいです」
「そうか。よかったな。お兄さんと仲がいいんだな。わざわざ京都じゃなくてお前に会いに来てくれるんだから」
八月一日宮はどこか遠い目の色をしているだけだった。食べ差していた箸も止まっている。
あゆたは話題を変えようかとどぎまぎしていた。しかしここで下手に動いてはまた墓穴を掘るかもしれない。あゆたはなすすべもなく口を結んでいた。
「兄が先にイギリスに留学していて、俺もおいでと誘ってくれたんです」
八月一日宮の箸がまたそばを手繰る。
「仲がいいって考えたことなかったです。……兄の面倒見がいいのは確かです」
くつくつと鍋の中に小さな泡が沸いている。奥の席の客がお勘定をお願いする声がする。
「そうか。あちらは勉強になったか?」
知り合いのない場所。故郷になにか思うところがあるらしい八月一日宮は、そこで息を吐けただろうか。
新しい町。新しい人々。新鮮な空気の中で八月一日宮はのびのびと生きていたのだろう。語っている目が遠くを見ている。その中に優しい光が揺蕩っていた。
「……蕎麦、おいしいですね」
「うん、信夫が勧めてくるだけあるな」
信夫はおいしいものばかり食べつけているので、かなり舌が肥えているのだ。次期当主として信善に伴われ社交界にも顔を出しているので、交友関係は計り知れない。高校生が蕎麦屋に精通しているのが一般的か知らないが、あゆたは信夫の食通振りに舌を巻いた。
「梅渓さんに、お礼言っておいてください」
「どうせ会うだろ? あの、アルファの集まりとか」
「そうですね、でも出入りするアルファの数も多いので、梅渓さんと話す機会があるかどうか」
夏の終わりの嵐の夜、梅渓の母屋であったパーティーのことが思い出された。
あゆたは部外者で、庭の植物が痛まないように鉢を移したり、紐や添え木をしたりと汗まみれになっていた。真夜中の海に浮かぶ豪華客船のようにパーティーの大広間の灯りを横目に遠く眺めていた。
あの遠い灯りの下にいた八月一日宮が、今は目の前にいる。
「あゆたさん?」
いきなり食べ止めてぼけっとしてしまった。
「もうお腹いっぱいになりましたか? 残りは全部俺が食べましょうか?」
まだ入れそうだが、食べ過ぎはよくない。素直にあゆたは降参した。
「そうだな、後はまかせていいか?」
「喜んで。僕は西の出身ですから、蕎麦よりうどん派ですが、ここの蕎麦はおいしいですね。認識を変えなければ」
「そうか。連れてきてよかった」
「はい、今度兄が……」
あゆたはふたつの湯呑に急須からお茶を注いだ。緑の香気がふわりと広がる。静かに鍋はくぷくぷ煮えている。あゆたは湯飲みのひとつを八月一日宮のほうへ置いた。
「すぐ上の兄が、秋の休みに一時帰国するんです。それで俺の様子見がてら別邸に来てくれると。その時にここに連れて行きたいです」
「そうか。よかったな。お兄さんと仲がいいんだな。わざわざ京都じゃなくてお前に会いに来てくれるんだから」
八月一日宮はどこか遠い目の色をしているだけだった。食べ差していた箸も止まっている。
あゆたは話題を変えようかとどぎまぎしていた。しかしここで下手に動いてはまた墓穴を掘るかもしれない。あゆたはなすすべもなく口を結んでいた。
「兄が先にイギリスに留学していて、俺もおいでと誘ってくれたんです」
八月一日宮の箸がまたそばを手繰る。
「仲がいいって考えたことなかったです。……兄の面倒見がいいのは確かです」
くつくつと鍋の中に小さな泡が沸いている。奥の席の客がお勘定をお願いする声がする。
「そうか。あちらは勉強になったか?」
知り合いのない場所。故郷になにか思うところがあるらしい八月一日宮は、そこで息を吐けただろうか。
新しい町。新しい人々。新鮮な空気の中で八月一日宮はのびのびと生きていたのだろう。語っている目が遠くを見ている。その中に優しい光が揺蕩っていた。
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