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9.たそがれの秋の光のちりぢりと

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 あまりおしゃべりではないあゆただったが、八月一日宮のおかげで気詰まりな空気にはならない。どうでもいい話をしていると、本棟裏の自転車置き場まですぐだった。

 八月一日宮はそろそろとあゆたを下ろして、その辺りの柱に掴まらせた。駐輪場のトタンの屋根が低くて、長身の八月一日宮は首をこごめて鍵を開けた。ハンドルを握って前へ押すと、がちゃんと音を立ててスタンドが跳ねあがる。

 まだ明るさの残る空を背負うように屋根の下から八月一日宮が押してきたのは、銀色のしっかりした荷台のついた、古いタイプの自転車だった。前かごも大ぶりの銀色のフレームで、三河屋さんが配達で使っていた、という風情だった。

「すごい、懐かしいというかレトロというか……」

 まだ現役で使用されていることに驚いてしまう。

「ばあやが、昔使っていたやつが物置にあったんで」
「ばあや」

 養育係の乳母でもいるのだろう。さすが富豪の八月一日宮家だと妙に感心した。

「ちゃんと整備したんで大丈夫ですよ」

 昭和から使われてきたらしい、ある意味骨董品である。

「そういえば、お前って関西出身だよな?」

 苦手だという敬語は標準語だが、語尾にかすかな抑揚があった。

「わかりますか?」
「言葉の抑揚がちょっとあるぐらい」 
「京都ですゥ」

 にこりと笑って、わざと八月一日宮は強くイントネーションをつけてみせた。

「ちゃんとした敬語、頑張らないでいい時は楽な方に流されて、ついつい方言になっちゃいますね」
「そうか」
「社会に出るなら敬語は大事でしょう? 違う言語のひとつだと思って、気を張ってます」
「ふーん」

 ということは今も気を張って敬語を話しているということか。緊張しているようには感じられないが。

「それならご家族も仕事でこっちに?」

 何の気なしに口にした問いに、ふと八月一日宮は唇を結んだ。何か考えるような面持ちだった。プライベートなことを問い質されるのは煩わしかったかもしれない。申し訳なくなって話を変えようとしたら、八月一日宮はぼそぼそと答えた。

「……いえ、両親は京都に。上の兄弟は海外にいたり、家業を手伝ったり」

 不自然に話題も変えずらく、あゆたは気付かないふりをした。
 はかばかしくない様子に、家族のことは聞かれたくないのかもしれないと伺える。あゆたも家族関係は人のことは言えないので、さらりといなすことにした。

「ふーん。じゃ、一人暮らしは大変だな」

 ばあやがいるらしいので、厳密にはひとりではないのかもしれないが。

「いえ、こっちに別宅がありまして」
「別宅」

「別宅というか、もともと祖父の、母方の祖父の持ち家があって……、母の実家ですね。そこに以前から奉公してくれている人たちがまだ残ってくれてるんで助かってます」

「奉公……。なるほど、ばあやさんの自転車もそういうわけか」

「ばあやは母の乳母やですね」
「乳母や」

「ええ、母は一人娘だったので、それこそ乳母日傘おんばひがさの生活だったみたいです」
「乳母日傘」

 衝撃の余りいちいち単語に反応してしまうが、根っからの庶民なのだから仕方ない。
 乳母のいる生活をしていた一人娘の母親。わざわざ単身でこちらの学校にいる。中等部の三年間は海外だ。もしかしたらその母の実家を継ぐ為にひとりでこちらに来たのかもしれない。
 
 八月一日宮は自転車をあゆたの前に止めた。自転車に跨った八月一日宮が片腕を差し伸べる。もう今更遠慮するのも彼を煩わしくさせるだけのような気がして、あゆたは大きな掌を素直に握った。そのままぐっと支えられすとんと後ろの荷台へと腰を下ろす。前に向いて跨ごうとしたが、跨いだ拍子にどこかにぶつけそうで大人しく横座りのまま八月一日宮の腰のベルトをちょこんと掴んだ。

「尻、痛くないですか」
「ん、大丈夫だと思う」
「ベルト、危ないんで、腰にしっかり捕まって下さい」
「……わかった」

 わずかな逡巡の末、さっきも散々負ぶわれていたのだから今更だと八月一日宮の腹へ両腕を回した。自動的に体を寄りかからせる形になってしまい、あゆたはことりと頭を八月一日宮の背中へ預けた。爽やかな瑞々しい香り。あゆたは額を擦りつけた。

「鶯原先輩はどこに住んでるんですか?」
「住所いってもわからないだろ?」

 出身は京都、中等部時代はずっとイギリスにいたのなら土地勘はあまりないはずだ。

「うちは山の手花園ですから、その周りは大体わかります」

 花園はその山の手を登り始めたすぐの辺りだ。花園はこの辺りでも新しく拓けた――といっても五十年ほど前の話だが――高級住宅地として知られている土地だった。小高い丘になっている山の手から、少し入ったところになる。
  
 昔は花街の寮や別荘がぽつんぽつんとあった保養地で、いまでも一軒一軒の敷地が広い。母親の実家を別宅というからには、もう母方の祖父母はいないのだろう。それでも手放さずに別宅として維持しているのだから、新興の財閥だという八月一日宮家の財力が推し量られる。

「ふーん。俺は十禅師だよ」

 十禅師は昔からのお屋敷街で、学校から自転車だと十五分ぐらいかかるだろうか。あゆたはいつも徒歩なのでそのあたりはよくわからない。

「そこならわかります」
「近くまで行ったらまた道案内するな」

「十禅師って古い大きい家ばかりあるところですよね。鶯原先輩もお坊ちゃんじゃないですか」
「俺はお坊ちゃんじゃないよ」

 我知らず覆いかぶさるように否定していた。
 その声の硬さに八月一日宮は不思議そうな顔でちらりとこちらを顧みたが、それ以上は追及しようとしなかった。

「それじゃあ行きますよ」
 
 きーきー軋みながら自転車はゆっくりと秋の黄昏へ走り出した。
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