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七章 心は淡く晴れた
②
しおりを挟む「乙哉」
それは聞き慣れた声だった。
乙哉は眼を剥かんばかりに見開いて、無理やり夢から覚醒した。
嫌な汗をかき、心臓がバクバクと激しく動悸している。
いつのまにか座った状態で寝入っていたらしい。慌てて手元を確認すると、十字架のチャームがついたネックレスは手に巻き付かれたままだ。
ひそかに安堵した乙哉の前に立ち、覗き込む影がある。
周囲が暗く判別しづらいが、月明かりに照らされた人物は紫衣だった。白っぽいダッフルコートを着込み、首まわりにマフラーを巻いている。
「…おまえ、なんで……」
ふたりがいるのは公民館の一室ではない。南の森を分け入ったところにある崖の上。ひっそりと打ち捨てられた小さな教会だ。外から見ると、細長く先が尖った西洋風の屋根と白い壁には緑の蔦が生い茂っている。ここがまだ立ち入り禁止区域の外だった頃は使われていたのだろうが、現在はただの廃墟である。二列で並ぶ古い木製の長椅子や、壊れかけた祭壇はかろうじて残っているものの、天井や壁の至る所が剥がれ、床はそこらじゅう瓦礫で埋め尽くされている。
日付けも変わった深夜、乙哉が公民館を抜け出し向かったのは誰にも話したことのない、ひとりになりたい時に決まって訪れる秘密の場所だった。
「…なんで、この場所がわかった?」
「前に、乙哉が森に入っていくのを見たことがある。度々いなくなるって湍くんが言ってたから、ここへ来ているのじゃないかと思ってた」
「…だからって、ここまで追ってくるやつがあるか。しかも夜中に…。迷ったって探しにくるやつなんかいないんだぞ」
ふつうの森であっても夜間は危険だが、ここの森は不浄と呼ぶだけあって、あちこちに悪い気配が充ちている。そのなかで比較的清浄な道を選んで進めるのは、ひとえに乙哉の特性に因るものだった。邪視である右眼の影響なのか知らないが、左の眼は人よりよく視えるからだ。
「森では、人の通った道は注意深く見ればわかるから。懐中電灯の光を頼りにして来たから、少し時間がかかったけど」
紫衣はなんてことない口ぶりで言う。とはいえ、別段道に目印をつけて歩いてきたわけでもない。まったく狩人か警察犬みたいなやつだと、乙哉は心中でひそかに呆れた。
「…心配しなくても逃げたわけじゃない。時間までには戻る。…ふたりにも慌てんなって伝えてくれ」
逃げてないというのは半分嘘だ。うしろめたい気持ちからぶっきらぼうな口調となったが、紫衣の平坦さは変わらない。
「乙哉が逃げたとは考えてない」
「…じゃあなんで追ってきたんだよ?」
乙哉は訝しみ紫衣をまじまじと見遣る。
乙哉と紫衣は所謂幼馴染の関係で、互いの事情には通じているが、ふたりきりでまともに話をしたことは実はほとんどなかった。紫衣は有事以外では極端に寡黙な質だ。よく口論になる巴との方が、まだ言葉を交わす機会は多かった。
無表情・無感動的であり、鉄仮面なのは小学生の頃から変わらない。だが今、静かに口を開こうとしている紫衣はわずかに焦り、緊張している。乙哉にはわかった。
「悪い事態が起きた」
「…悪い事態?」
疑問が深まるのを感じ、眉を寄せる。
「待った。なんで湍じゃなくて、俺に?」
乙哉の病室で、湍はこの作戦の核を担うのは乙哉だという言い方をした。だが実際リーダー役として皆をまとめ、指揮を取るのは湍だ。紫衣がそのへんの判断を間違えるとは思えなかった。しかし紫衣の様子に迷いは一切感じられない。
「すぐに対処できる手立てがない。今はふたりの精神の休息を優先させた。ここに来たのは――乙哉の友達に関することだから」
乙哉は目を見開く。
紫衣ははっきりと言った。
「古賀君の行方がわからない」
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