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第一章 弱くてニューゲーム?

第1話 感覚の違い

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 育江はトイレから出ようとするが、あることを思い出して戻っていく。

「――ちょっと待って、水、水っ、これどこで水流すのっ?」

 育江は近年まれに見るほどにテンパっている。そんな状態だったからか、先日まで見ていた、ネタとしか思えないほどに見事な意匠の便器や便座が、より現実的で機能的になっている今とものと違っていることに気づけていない。育江的に大ピンチと思っている状態から逃れたいという焦りから、換気のためにトイレにある小窓を開くらいしかできなかったようだ。
 それでも、水が入っているであろうタンクの周りをまさぐると、やっとボタンらしきものを見つけ、反射的に押してみた。水がやっと流れてる音が出て、目でもしっかり流れたことが確認できたからだろう、ほっと一安心できた育江だった。

「……よかったわ。このまま水が流れなかったらどうしようと思っちゃった」

 トイレの壁にある手洗い場で手を洗いながら、独り言を言う。

「――ってそうよ、そんな場合じゃなかった。おかしくない? これ絶対に何かおかしいわよ」

 トイレット-ベーパーはあった。けれど紙の端は、三角に折られてはいない。紙の質も拭き心地も、それほど良いとは思えない。若干固かったし、ごわごわしていた。
 育江は、ログアウト前と記憶と混同していて気持ち悪った。とにかく見るもの全てが違和感だらけ。どうにもならないほど、モヤモヤした気持ちが晴れてくれない。

 ベッドに戻ろうとしたとき、直接耳に入るほどの『ごんっ』という鈍い音。生まれて初めて感じた衝撃と激痛に、喉の奥から嗚咽しか出てこない。

「――ぐっふぅ、……つぅうっ」

 椅子の角に左足の小指をぶつける。そのあまりの痛さに、目の端から涙がこぼれてきた。その流れでベッドに転がってしまう。それでも、痛みを堪えている間は何も考えられなかった。

 どれだけ長い間耐えていたか忘れるほど、実際はそれほど時間は経ってないのかもしれないが、やっとのことで痛みが引いていく。だが、まだ小指は赤くなっている。それでも冷静になって考えるとおかしいことばかり。

 まずはこの痛み。本来痛みは、不快感へ変換されていたはずだ。例外として、喉の渇きを癒やす際、『とまじゅー』を切らしていた場合は生肉を嫌々食べる。その際、種族的デバフが発動して、腹痛になる。あれ以外の痛みを感じたことは、こちらでは覚えがまったくなかった。

 それよりなによりもっとおかしいこと。PWOでの排泄行動はありえない。絶対にしたことがなかった。トイレも単に、演出過剰なイミテーションだったという記憶しかない。

「……でも痛くなかった。気分爽快だったのよねぇ」

 ここでの『痛くなかった』は、小指の痛みではない。育江にとって忘れたい時間。コクーンの外にあるトイレでは、何故か幻肢痛に悩まされることが多かったからか、彼女にとって嫌いな場所しかなかった。

(おかしくない? 夢でも見てるの? ……あれ? ベッドからホームに戻れない?)

 そう。ベッドに座って『ホームへ戻るように念じる』だけで、空間は遮断され、いつも見慣れたホームへ行けるはず。けれど、何度戻るように念じても、お願いしても、戻れる感じがまったくない。

 どうしたらいいか思案しつつ、部屋を見回すとこれも何か違う。小綺麗なのは変わらないけれど、大理石のようにすべすべした石造りだったはずの天井や壁も、上等そうな木造に変わっている。マジックアイテムとは思えないが、それでも明かりが灯っている古めかしいランプもそうだ。

 今までなかったはずの、壁に掲げられた一メートルほどの姿見。そこに映るのは、着たことがない麻製の涼しげな寝間着の上下。手作りで、肌触りも悪くはない。

 姿見に顔を映して見ると、そこには見慣れた自分の顔。色白、オッドアイ、白髪のような前髪ぱっつんのプラチナブロンド、外耳部分が少しとがった感のある耳。寝汗でぺとりと額に張り付いた前髪はちょっとだけリアル。

 とにかく手元にあったタオルを掴み、風呂場へ行き、顔を洗ってくることにした。

「……ふぅ、さっぱりした」

 洗面所も少し違っている。前よりも水の質感がリアルだった。しっとりするというか、じわっと染み込むというか、潤ってる感じというか。

(PWOの神アップデート? 凄くない? あ、でも。痛みがアップデートされるなんて、噂もなかったはずだけど?)

 出窓になっているのも、部屋が違うからか。いつの間に移動したのか? それとも、アップデートで模様替えになったのか?
 出窓にある取っ手を引っ張ると、引き戸になっている雨戸。そこを開けると、下には人がいつものように歩いている。けれど、何かが違う。ただ、何が違うのか、はっきりしないのだ。

「この水。ラグがまったく感じられないわ」

 テーブルの上にあった、ガラスポットのような水差しに入った水。揺らしてみると違和感ばりばり。グラスに注いでみても違和感だらけ。
 育江の言う『ラグ』とは、通信のタイムラグ時に発生するゆらぎのようなもの。視認できるぎりぎりの違和感とでも言えばいいだろうか?

「あ、爪割れてる……、痛いはずよね。血だって滲んで――あれ? 何で? ここまで神アプデとか、ありえないでしょう?」

 爪が割れるなどの細かい演出。血の滲みなどのエフェクトも、今まではあり得ない。それにこの、継続的にじくじくと感じる痛み。

 ベッドからホームに戻れない。小指をぶつけたときの痛み。赤くなった腫れ。
 以前運営の公式サイトで見たQ&Aにもあった、の運営からの回答。

『必要あると思いますか? 私たちはあるとは思えません。皆さまからの要望が一定数以上あったとしましても、当社開発チームで必要性を感じない限り、実装の予定はございません』

 そうマジレスされた、『排泄行動の実装について』。これが決定的だった。

「何もかもおかしいわよ。ホームにも戻れないし。それにその、トイレだって、一部の変態さんに忖度した、十八禁のアップデートじゃあるまいし、……ねぇ? もしかして、あり得ないと思うけど、これって『あれ』だったりしないわよね?」

 彼女が言う『あれ』を確かめる方法。頰をぺちぺち叩いて感じる痛み。左腕と、左太股を、ちょっと強めにつねっても同じ痛みを感じる。何よりあのときぶつけた小指に感じた激痛。夢じゃないことは明白だ。

「……あそうだ」

 確認する一番の方法があった。びっくりしていて、忘れていた、PWOを最初にログインした際、育江自身が決めたキーワード。

 右手人差し指を中空に置いて口ずさむ。

「ぽちっとな」

 すると、当たり前のように出てきたシステムメニュー。ベッドに座って『ホームへ戻る』ボタンを押すが。

「え? 何よこれ?」

 押し感が全く感じられない。『ホームへ戻る』ボタンが不可ディセーブルになっていて、背景と同じ色になり、見えづらくなっている。ここが不可になってしまっては、この先にある『緊急時の強制ログアウト』も使えない。

「ホームに戻れないどころか、ログアウトできないじゃないの? これってまさか『あの』『異世界転生』? 違った、赤ちゃんじゃないから『転移』?」

 読んだことがある、昔のライトノベルなどにあった、ある現象。そこでやっと、答えにたどり着く。

「……まさか、そんなのあり得ないじゃないの」
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