魔物の森のハイジ

カイエ

文字の大きさ
上 下
104 / 135
#5

幕間 : Laakso -2 (Heidi)

しおりを挟む
「お前、俺を殺して、俺の跡を継げ」

 ハイジにとって、アゼムのその言葉は到底受け入れられるものではなかった。

「……師匠、何を言い出すんです?!」

 ハイジは悲鳴を上げた。
 これは一体何の冗談なのか。だがアゼムはわざと偽悪的な冗談を吐くときはあっても、人を傷つけるような冗談は絶対に口にしない。それは師の言葉が冗談などではなく本気であるということを意味する。

 到底受け入れられるものではない。
 それでなくともハイジの心はもう限界をとっくに超えているのだ。
 アンジェの死は今でも毎日のように夢に見る。いい加減慣れればいいものをと自分でも思うが、現実としてその傷は今も些かも癒えてはいない。そこに『はぐれ』の子供だ––––くっきりと目に焼き付いている。その体にスローモーションのように矢が刺さっていく様が。

「何かに祈ったか」とアゼムは言った。
 祈った。当然だ。精霊の存在が明らかなこの世界では、普段どれほど傍若無人に振る舞う者であっても戦場では恰も敬虔な信仰者のように祈る。

 盗賊に串刺しにされて死んだアンジェと、この世界に出現した途端に矢で射られて死んだ、まだ物心がついたばかりに見える子供。ハイジがこれまで出会った『はぐれ』は、みな例外なく脆弱だった。
 なぜ『はぐれ』はこんなにも死に易いのか。
 なぜ誰も『はぐれ』を守ってやらないのか。
 まるで、彼らは異物なのだから死んでも当然なのだと言わんばかりの無関心––––。

 だから、あの時ハイジは自らを見下ろす目に見えぬ精霊たちに対して祈ったのだ。
 ならば、おれが守る、と。
 そのためなら命を投げ出そう。
 誰も守ろうとしないのであれば、おれ一人でも彼らを守ろう。

 それは、ハイジの悲痛な願い。
 目の前には打ち捨てられた、たった今死んだばかりの小さな小さな躯。
 その現実をハイジには受け入れることができなかった。

 だから、ハイジは誓ったのだ。
『はぐれ』達の敵を討ち滅ぼすことを。

 精霊たちよ。
 どうかこの悲しく小さき者たちを助けてくれ。
 それができないのなら、せめておれに、彼らを守る力を与えてくれ。

 そのためなら対価として、この生命を喜んで支払おう。


 ▽


 祈りは精霊たちに届いたのだろうか。実感はなかった。
 だが、もう運命は転がり始めていた。

「ハイジ、よく聞けよ。お前が死の間際に差し出した命は、もはやお前のものじゃない。なぜなら、それはすでに対価として払われたものだからだ」

 アゼムはいつになく真剣にハイジに語った。

「ハイジ。それは祈りではなく、ただの取引だ。戦場では二束三文の価値もない命などを差し出して、精霊を使い走りにする、この上なく傲慢な行為だ」
「そんな……! おれにはそんなつもりは……」
「おまえがどう思うかなど、どうでもいいんだよ。ただ……、それでも、だ。価値があろうがなかろうが、差し出せる全てを差し出した時、精霊は必ずそれに応える。応えてくれる」
「おれに––––『はぐれ』を守る力が与えられた……?」
「ああそうだ。そして、それは同時に、その力を目的以外に使えば、その瞬間に対価が回収されるという意味でもある。––––だから、ハイジ。よく肝に銘じておけ。お前がもしその手で『はぐれ』を死なせることがあれば、お前の命は戦死者の館ヴァルハラ行きだぞ」

 戦死者の館ヴァルハラ行きとは、傭兵たちの言い回しで、戦士が抗いようのない力に導かれて死を迎えることを言う。
 つまり、アゼムはハイジに「はぐれを死なせると、お前も死ぬ」と言っているのだ。

「そんなバカな……! いえ、おれが『はぐれ』を傷つけることなどありえないことだとは思うのですが……」
「ばか言え、この考えなしの間抜けが。もし敵に『はぐれ』の戦士が居たらどうする? 解ってるのか? 相手は精霊だぞ? 奴ら、人間の都合などお構いなしだ。その力はすでに『はぐれ』のためにしか使えん。お前の人生の選択肢は失われた。お前は……『はぐれ』の守護者として行きていくと、命をかけて精霊たちと契約を交わしたんだよ」

 ハイジは愕然とした。
 元々、『はぐれ』には縁があるからか、戦場や魔物の領域で気配を感じるたびに見つけ出し、保護してきた実績はある。だが、ハイジにとっては『はぐれ』とはすなわちアンジェのことであり、ハイジが本当に守りたかったのは『はぐれ』ではなく、彼らを含むなのだ。

「……これからは『はぐれ』のためにしか戦えないということですか?」
「戦うどころか、『はぐれ』のため以外には、呼吸だってできねぇんだよ、お前は」
「なっ……!」
「ただ、それはお前の認識に依る。お前が『はぐれ』のために生きるというのなら、呼吸だって、飯を食うことも、糞をたれることだって『はぐれ』のためだ。だが、それが『はぐれ』のためじゃないとお前自身が認識するのなら……この世界は猛毒でできているのと同じだ」
「……なんてことだ……」

 ハイジはいきなりのことで困惑したが、しかし無理やり思い直すことにした。

(……いや、それでもいいのかもしれない)

 よく考えれば、それは望むところだったのではないか。
 自分には戦うことしかできない。それでも、だからこそ、脆く者たちが幸せに生きていける世界のために戦ってきた。
 だが、たとえこの世界の人間のためだったとしても、回り回って『はぐれ』のためになるのではないか。

「……わかりました」
「お前はバカだが、物分りはいいよな」

 アゼムはホッとしたように、表情を緩めた。

「でも、まだわからないことがあります」
「ん、なんだ? 言ってみろ」
「なぜ、わたしが師匠を殺さなければならないんですか? それとも、何かの比喩ですか?」
「いいや、違うぞ? そのまんまの意味だ」

 殺すんだよ、敵兵の首を切り落とすみたいに、と笑いながら、アゼムは戯けるように首を掻っ切るジェスチャーをした。

「そんな……軽く言われても納得しかねます! それに、跡を継ぐならおれじゃなくヨーコでしょう! それに、何故師匠が死ぬ必要があるんですか!」
「お前と同じ理由だよ」
「……え?」
「俺も、誓ったんだよ。お前と同じように、精霊たちに命を差し出して、女子供を守るために、後進を育てるための知識と技術をください、ってな」
「なっ……!」

 アゼムに死を恐れる様子はまったくなかった。
 むしろ、笑ってさえいる。
 ただ、ソワソワと、明らかに何かに焦っている様子だった。

「間違いなく、その契約は果たされたぜ? そして手に入った知識と技術で、お前たちを育て上げた。……だけど、もう十分だろ。お前、俺より強いぞ」

 もちろんアイツラもな、とアゼムはクツクツと笑う。

「何を言ってるんですか! おれは、まだ全然……」
「……無駄なんだよ。すでに遅い。女と子供を守るという誓いを、おれは破った。お前を取り囲んで止めを刺そうとしてた少年兵たちを、五人ばかりぶち殺したからな」
「お……おれのために!? 」

 ハイジは悲鳴を上げた。

「おれなんかのために!? 何故、師匠がおれなんかのために!? おれのことなんて放っておいてくれたら良かったのに!! 師匠が犠牲になるくらいなら、おれは何回だって死んだってよかったんだ!!」
「バカめ……お前を見捨てることも、誓いに反することになるだろうが」

 ここでアゼム格好つけるかのようにニヤリと笑った。

「お前を見捨てるか、敵兵を殺すか。どっちみち少年を殺すことになるだろ。お前、図体はでっけぇけど、俺から見ればまだまだガキなんだよ……中身がな。なら、お前を優先するのは、師として、親代わりとして当然だろ」
「でもっ! だからって!!」
「ただ、時間がねぇ。知ってるか? 儀式を捧げてから行われる戦儀礼戦で死んだ魂は、五日後にヴァルハラに召されるんだ」
「それが何ですか!」
「おれの命はあと四日ほどだ––––だからそれまでに、おれの力をお前に継いでもらいたい」

 ハイジは目の前が真っ暗になったように感じた。
 師匠が死ぬ? たった今、目の前で果物をつまみながら飄々と喋っているこの人が?
 到底信じられない。同時に、師がそんな馬鹿げた嘘を付く男でないことだけは、心から信じることができた。

「な……ぜ……、なぜ、殺す必要が……」
「そりゃ、お前、殺せばおれの経験値が手に入るだろうが」
「はぁ!? そんなことのために!?」
「そんなことだと? アホ言うな。お前、おれがこれだけの技術やら知識やらを手に入れるのにどれほど苦労したかちょっとでも考えたことあんのか。万一そのまま死んでみろ、全部無駄になっちまうだろうが!」
「でも、いくら何でも殺すなんて!」
「それに、知ってるか? 敵を殺すと敵の魔力と経験値の一部を奪えるが、同意の元、信頼関係のあるもの同士でそれを行うと、一部ではなく、そのほとんどを譲渡できるんだぜ。それも、敵同士だと引き継げないような技術や能力まで」
「い、嫌です! それだけはできません! それなら、せめておれじゃなく、ヨーコに……!」
「言っておくが、すでにお前は聞いてしまっている」

 アゼムは偽悪的に顔を歪めて笑う。
 師匠のいつもの癖である。

「おまえだってわかってんだろ? おれの力と知識が手に入れば、お前の目的である『はぐれ』の保護にだって役立つことが。なら、もしそれを理解した上で、それを行わないというのなら……精霊たちはどう判断するだろうな?」
「なっ?!」
「な? 要するにこれも連中の計画の一部なんだよ。お前は力を手に入れたいと願った。俺は少年兵を殺さざるを得ない状況に追い込まれ、殺すことを覚悟して受け入れた。それを偶然だと思うか? いいや、ちがうね! 俺の力がお前に譲渡され、引き継がれることは、精霊たちにとって織り込み済みの決定事項だってことだ」
「嘘だっ!」

 ハイジの悲痛な叫びを、アゼムはどこか面白そうに観察している。

「嘘じゃねぇって。でも、嘘か真か……試すわけにもいかねぇだろ? 言っとくが逃げても無駄だぜ? おれはお前以外にこの力を譲渡するつもりはねぇからよ。潔く諦めてスッパリとやってくれや」

 泣きべそをかくハイジを慮ってのことか、アゼムは少しだけ優しく言葉を続ける。

「……でもよぅ……どうせ死ぬなら、おれはお前ら全員に囲まれて死にたい。お前らは、既にいつでも独り立ちできるだけの力がある。俺の手からは、とっくに巣立っちまった。だから––––これは俺の、ただのわがままだ」

 師匠の最後のわがままくらい、聞いてくれてもいいだろ? といって、アゼムはニヤリと笑った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

王太子の子を孕まされてました

杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。 ※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

My Doctor

west forest
恋愛
#病気#医者#喘息#心臓病#高校生 病気系ですので、苦手な方は引き返してください。 初めて書くので読みにくい部分、誤字脱字等あると思いますが、ささやかな目で見ていただけると嬉しいです! 主人公:篠崎 奈々 (しのざき なな) 妹:篠崎 夏愛(しのざき なつめ) 医者:斎藤 拓海 (さいとう たくみ)

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

甘い誘惑

さつらぎ結雛
恋愛
幼馴染だった3人がある日突然イケナイ関係に… どんどん深まっていく。 こんなにも身近に甘い罠があったなんて あの日まで思いもしなかった。 3人の関係にライバルも続出。 どんどん甘い誘惑の罠にハマっていく胡桃。 一体この罠から抜け出せる事は出来るのか。 ※だいぶ性描写、R18、R15要素入ります。 自己責任でお願い致します。

処理中です...