魔物の森のハイジ

カイエ

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#3

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 寝る前には、武器の手入れの時間だ。
 矢を分解したり、やじりや刃物を砥石で研いだりするのだ。

 血をかぶった矢は歪んでしまい、まっすぐ飛ばなくなる。だから、水につけておいて血を落としたあと分解し、鏃と、もし無事なら矢羽も回収する。鏃は研ぎ、新しい矢柄を使って麻紐で組み直す。

 自分の分は自分で手入れするのが鉄則だ。
 たまにハイジがヒョイと矢を取り上げて作った矢を分解して、目の前で作り直されることもある。
 きちんと組めていなければ威力が半減するし、歪んでいれば真っすぐ飛ばないなど、手入れの出来不出来はそのまま命に直結する。
 少しでも可怪しい所があれば、目ざとく指摘されるというわけだ。
 ここでも勉強だ。
 ハイジが組み直しするのと、自分の仕事との違いをしっかりと見定めるため、集中して観察する。
 合格が出たあたしの矢よりも、ハイジの組んだ矢のほうが命中率が高いのは実感している。
 何が違うのだろうか。あたしは指先の動き一つ見落とさないように、ハイジの動きを見つめる。

 それが終われば、刃物の手入れだ。
 今のところほとんど出番のないあたしの短剣は、使った時にさっと洗うだけで十分だが、魔獣を捌いたナイフはしっかりと研ぐ。
 ハイジは長剣を中心に使っているので、手入れに余念がない。
 剣にしろ、短剣にしろ、解体ナイフにしろ、手入れを怠ると切れ味が落ちて、効率がガタ落ちになるのだ。

 全ての手入れが終わると、テーブルに並べて、ハイジに確認してもらう。
 ハイジは一つ一つそれをチェックし、問題がなければ何も言わない。
 もし問題があれば、やり直しさせられる。
 この間、無駄な会話は一切ない。ほとんど無言である。

 深々と舞い降りる雪の音と、薪ストーブから時折聞こえる薪の弾ける音、たまに木々から雪が落ちるドサリという音だけが、世界に満ちている。
 あたしはこのときの音を「この世界の音」だと認識している。
 武器の手入れと世界の音だけの、静かな静かな世界。

 あたしはこの時間が好きだ。

 森へ帰ってすぐの頃は、ちょっとくらい会話があってもいいのでは? などと思ったが、そういえばハイジは街の人とも話しかけられたときにだけ返事をして、自分から話しかけるところは見たことがない。
 そのうちに、あたしは「この人は、こういう男なのだ」と納得し、それからは沈黙が苦ではなくなった。

 早い時間に全てが終われば、寝る前に軽く読書の時間を取る。
 それが終われば、お互い自分の寝室に戻る。
 その時ばかりはあたしから「おやすみなさい」と声をかけるようにしている。
 特に何の言葉も帰ってはこないが、よく見れば軽く頷いてはいるようで、この不器用な男にしてはちゃんと反応があるじゃないか、と満足している。
 口数は極端に少ないものの、よく見れば意外と饒舌だったりするのだ。

 部屋に戻ると薪ストーブに火をくべて、なるべく少ない薪で朝まで保てるように調節する。
 調理、お風呂にサウナ、薪ストーブや燻製作り、虫よけなどなど、薪はあらゆるところで必要だ。薪の節約は最重要事項の一つ。あたしたちはいつも薪の節約に気を配って生きている。なにせ、冬の白樺はスカスカで、雪を被って水気も多く、薪には不向きなのだ。だから秋までに用意した薪で、冬を越さなければならない。無駄遣いは厳禁だ。
 燃料は生命線。食料品と同じくらい、生きていくための必需品なのだ。
 あたしの部屋のストーブは小さいが、通気を抑えることで朝までじんわりと部屋の空気を温め続けてくれる。
 少なくとも寒くてベッドから出られなくなるようなことにはならない。

 部屋は殺風景で、寝台と書棚と本箱があるばかりだ。
 断熱と隙間風防止も兼ねたペルシャ絨毯みたいな分厚いカーペットを除けば、黒い木目と白い漆喰だけ、白黒映画みたいな部屋である。
 もちろん壁には絵の一つもなく、壁に小さな鏡だけがぽつんと掛かっている。
 鏡が掛かっているのははあたしが少し屈めば顔が映るくらいの位置で、それはつまり、この部屋にはこの背丈の子供が住んでいたということだ。
 よく観察すれば、鏡のフレームやドアの周りや窓枠に、花や葉などの植物をモチーフにしたレリーフが彫ってある。
 その風合いは、あたしの弓の彫刻に良く似ていて。

(……元は姫さまの部屋ってことね)

 そういえば、寝台も小めで、長身な人の多いこの世界だと、大人は寝られないだろう。
 あたしの場合、背はさほど高くないので問題はない。

 あたしは姫さまとやらについて思いを巡らす。
 この部屋を見れば、ハイジがどれほどその女の子のことを想っていたかよく分かる。
 どんな女の子だったんだろう? ハイジは優しく接していたのだろうか?
 いや、ヘルマンニが「ハイジが惚れていた」と言っていたくらいだから、きっと大切にはしていたのだろう。
 あの不器用な男が、どうやって小さな女の子を育て上げたのか興味は尽きないが、少なくとも好々爺みたいにデレデレと甘やかすハイジは––––ちょっと想像できない。

(……おもしろっ)

 部屋には明かりもあるが、燃料がもったいないのでつけてはいない。
 明かり取りには、ろうそくや油を使う。防寒と違って命に関わらないので、薪よりはマシとは言え、こちらもそれなりに貴重品だ。
 とても無駄遣いはできない。
 だから、読書は基本的に食後のちょっとした無駄というか、ダイニングでハイジと二人で過ごすための贅沢だったりする。

 明かりはなくとも、月が出ていれば雪の照り返しもあって、部屋は意外とに明るい。少し肌寒いくらいの空気と、窓から差し込む青白い光。シャーベットみたいな色の青い光は、その気になれば本が読めるほどだ。
 朝起きてから寝る直前まで、ずっとハイジの側で修行しているあたしにとって、ここは一人になれる唯一の空間でもある。
 でも、ここにはハイジの、あの極端に不器用な男の、分かりづらい優しさが満ちているような気がして、一人でも少しも寂しいとは感じたことはない。

 怪我や疲れはサウナできれいに癒えているが、それでも失った体力はかなりのものだ。
 あたしはこの小屋で生活するようになって、ほとんど夢を見なくなった。

 そしてあたしは眠りにつく。
 こうして一日が終わる。

 * * *

 朝が来る。
 最近では、ハイジが起き出してくる頃になれば、隣の部屋から聞こえる足音であっさりと目が覚めるようになった。
 仮に寝坊してもハイジは咎めたりはしないだろうが、あたしは夏までの短い時間を無駄にする気はない。

「おはよう、ハイジ」

 ドアを開けて、ハイジに挨拶する。
 ハイジなりの返事(軽く頷くだけ)を見届けて、満足したあたしは、ハイジと並んで歯を磨く。

 歯ブラシは、よく洗った魔獣の毛の硬いものを束ねて切りそろえただけの簡素なものだ。使いづらかったので、あたしはそれを枝にくくりつけて、元の世界式の歯ブラシに改造して使っている。
 歯磨きには甘い味のする、シロップみたいなクリームを使う。
 白樺の樹液を煮詰めたもので、これを使うと虫歯にならないそうだ。
 なんでも、戦士にとって健康な歯はとても大切なんだそうで、虫歯ができるとそれだけで弱くなってしまうという。
 クリームはかなり甘くて、これってむしろ虫歯になりやすくなるんじゃないのと言いたくなるような味だったが、ハイジの言うことに間違いはない。あたしは言う通りにしている。
 ついでにこのクリーム、肌荒れにも効くらしいが、サウナとヴィヒタのおかげでいつもピカピカなあたしには無用の長物である。

 歯磨きが終われば朝食の準備だ。
 この世界では、基本的に作り置きはしない。都度調理して作る。
 作るのは、いつも同じ、野菜と干し肉や燻製を使ったスープである。
 薪の節約という意味では、大鍋で大量に作って数日に分けて作るほうが良いのではないかとも思ったが、考えてみれば温め直すのにだって燃料は必要なのだ。
 大量のスープを保温するよりは、食べる分だけ都度温めるほうが薪の消費は少くて済む。

 ちなみに基本的に炊事当番はあたしである。
 できるだけハイジをキッチンに立たせたくないと思うのだが、どうやらハイジ、料理が好きであるようだ。
 だから、たまにハイジが凝った料理を作り始めることがあって、その時ばかりはご相伴に預かることにしている。
 せめて次は同じ料理を作れるように、横について観察する。
 そんな時、ハイジは少しだけ動作をゆっくりと、そしてあたしから見やすいように作業してくれる。
 あたしはいつの間にかジビエ料理を何種類も作れるようになった。

 スープを煮ている間に、朝の訓練が始まる。
 いつものひたすら転がされるだけの単純な訓練だが、やられることが当たり前になってしまわないように、あたしは毎日なにか一つでも工夫することにしている。
 陸上をやっていた頃もそうだったが、どんなに厳しい訓練も、それが惰性になった瞬間、意味は消失するのだ。
 だから、ほんの一歩、たとえ半歩でもいいから、昨日より今日、今日よりも明日、少しでも強くなれるように、あたしは頭を絞った。

 今日の朝食は珍しく卵が’手に入ったので、それを焼いて食べる。
 卵は冬の森では手に入らない贅沢品だ。たまに街に行ったときに入手するしかないからだ。
 この世界の玉子は日本の鶏の卵と比べるとかなり小さいが、味が濃くてとても美味しい。
 残念ながら、生では食べられないとのことなので、せめてもと半熟の目玉焼きにする。獣脂を使って、鉄のフライパンで焼き上げる目玉焼きは絶品なのである!

 イノシシのベーコンと一緒に目玉焼きを作って、スープと一緒にテーブルに並べれば、朝食の準備は完了だ。
 ハイジは無言で、あたしは「いただきます」と手を合わせてから食べ始める。
 食べ物の味には特に拘りがなさそうな顔をしているくせに、実は美味しいものには目がないハイジである。
 今日の料理には、どうやら満足してくれたらしい。一見いつもと変わりないように見えるが、美味しいときは最後までフォークを手放さないのだ。

 食事が終われば、訓練の再開だ。
 ちょうど夜が明け始めていて、朝らしい白けた光が窓から差し込み始める。
 いつもなら暗いうちに狩りに出るが、ここしばらくは新しいことに挑戦している。

 新しいこととは、––––である。
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