魔物の森のハイジ

カイエ

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 戦が終わったと聞いたのは、ペトラの店で働き始めて半月後のことだった。
 客の一人がおせっかいにも「ハイジのことを心配してたろ?」と教えてくれたのだ。
 聞けば、戦争は二日ほど前には終わっているという。
 この世界では情報の速度が遅いため、伝わるのに数日かかるのだ。

 すでに敵はほうほうの体で逃げていったとのことで、これでしばらくは平和になるらしい。

 ギルドで詳しい話を聞きたいと思ったが、時間はもう夜。
 お店はそれなりに忙しく、今のあたしには与えられた役目がある。

(ハイジは無事だろうか)

 いや、あの男が簡単に死ぬわけがないとはわかっているのだ。
 ついでにいうと、そもそもあたしがあの男を心配する必要はないのだ。
 恩はあれど、迷惑をかけただけの相手だし、そもそもあの関係をコミュニケーションと呼んで良いものか。

(それでも心配なものは心配だ)

 そんな気持ちを気取られないように、あたしは頭から戦争のことを振り払って、仕事に没入した。

 仕事が終わり、自室に戻ると、明日に備えてニコと交代で沐浴する。

(お風呂に入りたいなぁ)

 森の最後の夜を思い出す。
 お風呂に浸かりながら眺めたオーロラと、ドーナツみたいな天の川は、神秘的で本当に美しかった。
 この街からでも空はきれいに見えるが、街明かりのせいもあって、森とは比べるべくもない。
 もう一度、森でお風呂に入りながらあの星空を見たい、などとバカなことを考える。

 明日はギルドに行こう。
 あの日、最後に別れたあの時に、きちんと伝えられなかった感謝を、今度こそきちんと伝えよう。

「リンちゃん、どうかしたの? ちょっと元気ないよ」

 ニコが心配そうに声をかけてくれたが、うまく説明できなかった。
 ミッラみたいに変な誤解をしてほしくなかったあたしは、「ちょっと疲れただけ」と苦しい言い訳をした。

 * * *

 翌日、あたしはペトラに一言断って、ギルドへ足を運んだ。

 店からギルドはそう遠くない。
 ギルドに着くと、いつもよりもずっとたくさんの人が集まっていて、戦勝を祝い合っている。
 五十人くらいはいるだろうか? みな薄汚れていて、しかし楽しそうに談笑している。

(……まさか、ハイジが戦死したなんてことはないよね?)
(みんな笑ってるけど、戦死者が出たこと、みんな気にならないのかな)

 この街から参加した傭兵は、ほぼ全員が集まっているらしい。
 男たちはみな酒の入ったグラスを持っている。
 どうやら、今日一日はギルドから酒を振る舞われるようだ。ささやかながら、戦勝祝というわけだ。

(なら、ハイジもいるよね)

 そう思ってハイジを探すが、いくら探してもどこにも見当たらない。
 しかたなく、事情を聞こうとミッラをを探すと、ミッラは受付の向こうでハンカチで目を押さえていた。

(えっ!? ミッラ、泣いてる?!)

 じわりと胸に不安が広がった。

 その時、「英雄の凱旋だぞ!」という勇ましい声が聞こえてきた。

 途端、ギルドの緩んだ空気がピンと引き締まった。
 男たちが一斉に扉に注目する。
 皆、背筋を伸ばし、口をつぐむ。

(何? 誰が帰ってくるの?)
(英雄って、もしかしてハイジ……?)

 そうだ、ハイジだ。
 酒場の男たちは、ハイジがこの街の英雄だと言っていた。
 きっと、皆が英雄であるハイジを出迎えようとしているのだ。

 あの無愛想で無口な男が、戦に勝つとこんなにちやほやされるのだと知って、はちょっと可笑しかった。
 一体どんな顔をして現れるのだろうと、あたしは内心ニヤニヤしながら扉を眺める。

 しかし、どうも様子がおかしかった。
 やってきたのは、ハイジではなく、数人の男たち。
 男たちが、数人がかりで大きな箱を運び込んでくる。

 それは––––どう見てもひつぎだった。

(えっ?!)

 ギルドの男たちが見守る中、棺を担いだ男達が大声で叫んだ。

「凱旋だ! 凱旋だ! 英雄の帰還だ! 皆! 勝鬨を上げろ!」
「「「「「うおおおおおおおーーーー!!!!」」」」」

 男たちが一斉に雄叫びを上げ、足を踏み鳴らす。
 あまりの音圧に、思わず耳をふさいだ。
 ドンドン、ドンドン、と踏み鳴らされる足音が揃い始める。

 棺を担ぐ男たちの口上が続く。

「英雄の帰還に涙はいらぬ! 我々を勝利に導いた真の男のために、皆! 勝利を祝え!」
「「「「おおっ!!!」」」」
「凱旋だっ!!」
「「「「おおっ!!!」」」」
「勝鬨を上げろっ!!」
「「「「「うおおおおおおおーーーー!!!!」」」」」

 ギルドが雄叫びで満たされる。
 しゃがみ込みたくなるくらいうるさい。

 ギルドの中央に無骨な木の台が用意される。
 職員によって、台にサッと布がかけられる。

 運ばれる棺に、男たちはみな道をゆずる。
 棺は台の上に移動させられ、ゆっくりと降ろされる。
 ごとり、と音がして、棺が安置される。
 女性職員が歩み寄り、棺の上に花束を置いた。
 
 ザッ、と男たちが一斉に棺を囲む。
 帽子を被っていたものは、帽子をはずして胸に当てている。

 口上を述べていた男が、ひときわ大きな声で叫んだ。

「今日、ここエイヒムに、英雄は帰ってきたっ!!」
「「「「おおっ!!!」」」」
「皆、英雄を讃えよ!!」
「「「「おおっ!!!」」」」
「おかえり、英雄!!」
「「「「「おかえり、英雄!!」」」」」

 男たち全員の声が揃う。
 全員が、手に持った酒を掲げ、そしてグイと飲み干した。
 同時に、受付の奥で「うぅぅううーー!」と呻くようなミッラの泣き声が聞こえてきた。

 隣の職員が、ミッラの背中をさすりながら、慰めている。
 見れば、男たちは一様に貼り付けたような笑顔で涙を堪えていた。
 はじめは普通の笑顔だと思ったが……今ならわかる。
 それは、涙を必死にこらえて無理矢理浮かべた、作り笑顔だった。

 英雄の眠る棺を前に、男たちは笑って飲み交わし、女たちは泣きじゃくっている。
 つまり、これは––––この世界流の、戦死者の弔いなのだ。
 戦死者はこうして、英雄として皆に祝われるのだ。
 祝われる英雄は、もう目を開けることは永遠にないのだ。

(なんだ、これは)

 視界が真っ白になる。
 目眩がする。
 世界がぐるぐる周り、もはやまともに立っていられない。

 本当に、これがハイジなのか。
 この箱の中にハイジが眠っているのか。
 もう動いているハイジを見ることはできないのか。

 ––––嘘だ。
 ––––嘘だ、嘘だ嘘だ!

(あたし、結局……)
(結局、彼に、一度もちゃんとお礼を言えないまま……)

「ヒィイーーーーーーー!!」

 あたしは我慢できずにしゃがみ込むと、自分でもびっくりするような泣き声を上げた。
 涙が溢れて止まらなかった。

 嘘だ。
 あの乱暴でやさしい、無神経で親切な、不器用で強大な男が死ぬなんて。

 死ぬなんて。

「嘘だ!」

 あたしはひと目もはばからず、大声で泣き続けた。
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