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新しい日々の始まり ②
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絢乃さんは大号泣されたおかげで、すっかりふっ切れたらしい。心のデトックスをしたおかげで、気持ちが軽くなられたからだろう。僕が小川先輩の請け売りで「ボスに気持ちよく出社して頂き、快適にお仕事に励んで頂くのが秘書の務めですから」と大真面目に言ったところ、この日初めて朗らかな笑顔を見せて下さった。
やっぱり、彼女には笑顔がよく似合う。お父さまを亡くされた悲しみが消えることはないと思うが、僕の前では笑顔でいてほしい。……いや、彼女がそういられるように、僕が頑張らなければ。それが僕の務めなのだ。
ミラー越しなのをいいことにそれを口に出して言うと、彼女のお顔は真っ赤になった。「あ…………、うん。ありがと。よろしく」とおっしゃる絢乃さんは、きっと照れていらっしゃったのだろう。……っていうか俺、めちゃめちゃキザだな。自分でもすごく恥ずかしい。
* * * *
――お二人を無事にご自宅の前まで送り届けると、加奈子さんが僕の母親のような口調でおっしゃった。
「桐島くん、今日はお疲れさま。明日も出勤でしょう? 家に帰ったらゆっくり休むのよ。お清めの塩も忘れないようにね」
多分、ウチの母も同じようなことを言うだろう。元保育士で礼儀やしつけには厳しい人だから。……そういえば加奈子さんも元教師だったっけな。
「はい。加奈子さん、絢乃さん。これから何かと忙しくなりますが、三人で頑張っていきましょう」
「うん。今日はホントにありがと」
僕が微笑みかけると、絢乃さんは可愛らしくはにかまれた。この先、僕にも新しい日々が待っているが、この笑顔ひとつあればすべて報われるんじゃないかと思わせてくれる笑顔だった。好きな人の笑顔には、それだけの力があるのかもしれない。
――二日後に行われる株主総会の日には、寺田さんが送迎をされるので僕は送迎しなくてもいい、と加奈子さんに言われた。当日が土曜日だったので、僕に休日出勤させるのが申し訳ないと思われたのだろう。僕は別にそれでも構わなかったのだが、加奈子さん(と多分絢乃さんも、だろう)のお気遣いに甘えさせて頂くことにした。
「――桐島さん。今日から貴方を正式に、会長秘書に任命します。正式な辞令ではないけど、心して受けるように」
別れ際、絢乃さんは胸を張って僕にこうおっしゃった。正式な書面での辞令は人事部を通してになるだろうが、次期会長が直々に任命されたのだから、それは僕にとってれっきとした〝辞令〟に他ならなかった。
「はい。謹んで拝命致します」
僕はそれに、神聖な気持ちでお応えしたのだった。
* * * *
――その日の帰りには喪服姿だったのでどこへも寄れず、そのままアパートに帰った。昼食代わりだったはずの仕出し料理もあんな状況だったので食べた気がせず、まだ夕方にもなっていないのに空腹だった。
「あー、腹減ったな……。家に何か食うもんあったっけ」
兄の出勤日なら店に食べに行こうと思っていたが、その日は兄も休みだと聞いていた。だからといって、喪服でコンビニに行くのも気が引けるしな……。
そう思いながらアパートの外階段を上がり、玄関のドアノブを回すと鍵が開いていた。
「――よう、貢! おかえり!」
「兄貴、来てたんだ? ただいま」
ドアが開いて出迎えてくれたのは兄だった。ちょうどよかったので、僕は兄に頼んで斎場から持ち帰ったお清めの塩を振りかけてもらった。
「サンキュ、兄貴。でもどうしたんだよ? 今日来るなんて俺聞いてなかったけど」
部屋に入ると何やらいい匂いがして、僕の腹がグゥと鳴った。多分、この匂いはデミグラス系か?
「お前今日、篠沢会長のお葬式だって言ってたじゃん? 例の絢乃ちゃん? のお父さんだろ」
「うん、……そうだけど」
確かにそうだが、絢乃〝ちゃん〟って。兄貴、会ったこともないのに馴れ馴れしくないか? 僕だって〝さん〟付けしかできないのに。
「んで、きっと腹空かして帰ってくるんじゃねぇかと思ってさ、メシ作って待ってたんだよ」
「そっか。んで、メシなに? 何かデミ系のいい匂いするな」
「お前の大好きなビーフシチューとポテサラ。今日寒みいし、温ったけぇモンの方がいいかと思ってさ。ちゃんと白メシも炊いてあるぜ」
いや、ポテトサラダは温かくないが。それを言いだしたらキリがないのでそこはツッコまずにいた。
「ありがとな。俺、ちょうど腹ペコだったんだ。仕出しも頂いたんだけど、雰囲気悪い中だからどこに入ったか分かんねえし。じゃあちょっと早いけど、食おうかな」
僕はおいしそうなに匂いの誘惑に負けて、白旗を揚げた。兄は「ほいきた」と狭いキッチンに立ち、甲斐甲斐しく僕の食事の支度を始めた。
「――さ、たーんと食え! おかわりしてもいいぞ」
「いただきまーす。……ん、美味い!」
――僕は兄が作ってくれたビーフシチューで白飯をかきこみながら、この日正式に絢乃さんの秘書に任命されたことを兄に話した。
「そっかそっか、よかったじゃん? お前、これから忙しくなるな」
「うん。いよいよ、って感じがするよ」
これから僕の新しい日々が始まるんだと思うと、何だか気が引き締まる思いだった。
* * * *
ビーフシチューはなんと、夜食の分まであった。兄貴、作りすぎだっつうの。……それはともかく。
――翌日出勤すると、小川先輩は少し元気を取り戻したようだった。
「おはようございます。――先輩、もう大丈夫なんですか?」
「おはよ、……まぁね。社長が、普段どおりに仕事をしてる方が気が紛れていいだろうっておっしゃるから」
そういえば、前日から先輩は会長秘書の任を離れ、村上社長に付いていたのだ。
「そっすか。でも、よく社長秘書を引き受けましたよね。会長秘書から降格したようなもんじゃないっすか」
「別に降格したワケじゃないよ、桐島くん。秘書に格なんか関係ないの。たとえ誰に付こうと、秘書はただ自分の仕事をすればいいだけ。ただ、会長秘書だけの特別待遇は受けられなくなったけど」
「特別待遇って?」
僕は首を傾げた。そんなものがあるなんて初耳だ。ということは、会長秘書になったら僕も同じような待遇を受けられるということだろうか?
「それはこれから分かると思うよ、桐島くん。お楽しみに♪」
「へぇ……、そっすか」
小川先輩にははぐらかされたが、それは実際に受けてみると、経済的にかなり厳しい生活を送っていた僕にはものすごくありがたい待遇だった。
「でも、まだ絢乃さんが正式に会長に就任されるって決まったわけじゃないんですよね」
「えっ、そうなの?」
僕は前日に篠沢家の親族会議がどうなったのか、先輩に話した。加奈子さんのいとこという人が、最後の抵抗で自分の父親を絢乃さんの対立候補に立てたのだ、と。そして、明日の株主総会で決選投票が行われることになったのだ、とも。
「ホンっト、絢乃さんじゃないけど、その人何考えてるんだろうね」
「ね? 先輩もそう思うでしょ? でも多分、かなりの高確率で絢乃さんが会長に就任されるって決まったようなもんですよ。先代の遺言で正式に指名されてるわけですし、株主のみなさんだってそれを無視することはないでしょうから」
「だよねー。そんなワケの分かんない人より、絢乃さんが会長になって下さった方が絶対いいもんね」
「――おはよう、桐島くん。ところで、室長の私にまだ挨拶なしとはどういうことかしら?」
温度の低ぅい声に慌てて振り返ると、ブリザード化した広田室長がそこにいた。小川先輩としゃべることに夢中で、室長の存在が頭の中からスッポリ抜け落ちてしまっていたのだ!
「わぁぁぁっ!? すみません室長! おはようございますっ!」
やっぱり、彼女には笑顔がよく似合う。お父さまを亡くされた悲しみが消えることはないと思うが、僕の前では笑顔でいてほしい。……いや、彼女がそういられるように、僕が頑張らなければ。それが僕の務めなのだ。
ミラー越しなのをいいことにそれを口に出して言うと、彼女のお顔は真っ赤になった。「あ…………、うん。ありがと。よろしく」とおっしゃる絢乃さんは、きっと照れていらっしゃったのだろう。……っていうか俺、めちゃめちゃキザだな。自分でもすごく恥ずかしい。
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――お二人を無事にご自宅の前まで送り届けると、加奈子さんが僕の母親のような口調でおっしゃった。
「桐島くん、今日はお疲れさま。明日も出勤でしょう? 家に帰ったらゆっくり休むのよ。お清めの塩も忘れないようにね」
多分、ウチの母も同じようなことを言うだろう。元保育士で礼儀やしつけには厳しい人だから。……そういえば加奈子さんも元教師だったっけな。
「はい。加奈子さん、絢乃さん。これから何かと忙しくなりますが、三人で頑張っていきましょう」
「うん。今日はホントにありがと」
僕が微笑みかけると、絢乃さんは可愛らしくはにかまれた。この先、僕にも新しい日々が待っているが、この笑顔ひとつあればすべて報われるんじゃないかと思わせてくれる笑顔だった。好きな人の笑顔には、それだけの力があるのかもしれない。
――二日後に行われる株主総会の日には、寺田さんが送迎をされるので僕は送迎しなくてもいい、と加奈子さんに言われた。当日が土曜日だったので、僕に休日出勤させるのが申し訳ないと思われたのだろう。僕は別にそれでも構わなかったのだが、加奈子さん(と多分絢乃さんも、だろう)のお気遣いに甘えさせて頂くことにした。
「――桐島さん。今日から貴方を正式に、会長秘書に任命します。正式な辞令ではないけど、心して受けるように」
別れ際、絢乃さんは胸を張って僕にこうおっしゃった。正式な書面での辞令は人事部を通してになるだろうが、次期会長が直々に任命されたのだから、それは僕にとってれっきとした〝辞令〟に他ならなかった。
「はい。謹んで拝命致します」
僕はそれに、神聖な気持ちでお応えしたのだった。
* * * *
――その日の帰りには喪服姿だったのでどこへも寄れず、そのままアパートに帰った。昼食代わりだったはずの仕出し料理もあんな状況だったので食べた気がせず、まだ夕方にもなっていないのに空腹だった。
「あー、腹減ったな……。家に何か食うもんあったっけ」
兄の出勤日なら店に食べに行こうと思っていたが、その日は兄も休みだと聞いていた。だからといって、喪服でコンビニに行くのも気が引けるしな……。
そう思いながらアパートの外階段を上がり、玄関のドアノブを回すと鍵が開いていた。
「――よう、貢! おかえり!」
「兄貴、来てたんだ? ただいま」
ドアが開いて出迎えてくれたのは兄だった。ちょうどよかったので、僕は兄に頼んで斎場から持ち帰ったお清めの塩を振りかけてもらった。
「サンキュ、兄貴。でもどうしたんだよ? 今日来るなんて俺聞いてなかったけど」
部屋に入ると何やらいい匂いがして、僕の腹がグゥと鳴った。多分、この匂いはデミグラス系か?
「お前今日、篠沢会長のお葬式だって言ってたじゃん? 例の絢乃ちゃん? のお父さんだろ」
「うん、……そうだけど」
確かにそうだが、絢乃〝ちゃん〟って。兄貴、会ったこともないのに馴れ馴れしくないか? 僕だって〝さん〟付けしかできないのに。
「んで、きっと腹空かして帰ってくるんじゃねぇかと思ってさ、メシ作って待ってたんだよ」
「そっか。んで、メシなに? 何かデミ系のいい匂いするな」
「お前の大好きなビーフシチューとポテサラ。今日寒みいし、温ったけぇモンの方がいいかと思ってさ。ちゃんと白メシも炊いてあるぜ」
いや、ポテトサラダは温かくないが。それを言いだしたらキリがないのでそこはツッコまずにいた。
「ありがとな。俺、ちょうど腹ペコだったんだ。仕出しも頂いたんだけど、雰囲気悪い中だからどこに入ったか分かんねえし。じゃあちょっと早いけど、食おうかな」
僕はおいしそうなに匂いの誘惑に負けて、白旗を揚げた。兄は「ほいきた」と狭いキッチンに立ち、甲斐甲斐しく僕の食事の支度を始めた。
「――さ、たーんと食え! おかわりしてもいいぞ」
「いただきまーす。……ん、美味い!」
――僕は兄が作ってくれたビーフシチューで白飯をかきこみながら、この日正式に絢乃さんの秘書に任命されたことを兄に話した。
「そっかそっか、よかったじゃん? お前、これから忙しくなるな」
「うん。いよいよ、って感じがするよ」
これから僕の新しい日々が始まるんだと思うと、何だか気が引き締まる思いだった。
* * * *
ビーフシチューはなんと、夜食の分まであった。兄貴、作りすぎだっつうの。……それはともかく。
――翌日出勤すると、小川先輩は少し元気を取り戻したようだった。
「おはようございます。――先輩、もう大丈夫なんですか?」
「おはよ、……まぁね。社長が、普段どおりに仕事をしてる方が気が紛れていいだろうっておっしゃるから」
そういえば、前日から先輩は会長秘書の任を離れ、村上社長に付いていたのだ。
「そっすか。でも、よく社長秘書を引き受けましたよね。会長秘書から降格したようなもんじゃないっすか」
「別に降格したワケじゃないよ、桐島くん。秘書に格なんか関係ないの。たとえ誰に付こうと、秘書はただ自分の仕事をすればいいだけ。ただ、会長秘書だけの特別待遇は受けられなくなったけど」
「特別待遇って?」
僕は首を傾げた。そんなものがあるなんて初耳だ。ということは、会長秘書になったら僕も同じような待遇を受けられるということだろうか?
「それはこれから分かると思うよ、桐島くん。お楽しみに♪」
「へぇ……、そっすか」
小川先輩にははぐらかされたが、それは実際に受けてみると、経済的にかなり厳しい生活を送っていた僕にはものすごくありがたい待遇だった。
「でも、まだ絢乃さんが正式に会長に就任されるって決まったわけじゃないんですよね」
「えっ、そうなの?」
僕は前日に篠沢家の親族会議がどうなったのか、先輩に話した。加奈子さんのいとこという人が、最後の抵抗で自分の父親を絢乃さんの対立候補に立てたのだ、と。そして、明日の株主総会で決選投票が行われることになったのだ、とも。
「ホンっト、絢乃さんじゃないけど、その人何考えてるんだろうね」
「ね? 先輩もそう思うでしょ? でも多分、かなりの高確率で絢乃さんが会長に就任されるって決まったようなもんですよ。先代の遺言で正式に指名されてるわけですし、株主のみなさんだってそれを無視することはないでしょうから」
「だよねー。そんなワケの分かんない人より、絢乃さんが会長になって下さった方が絶対いいもんね」
「――おはよう、桐島くん。ところで、室長の私にまだ挨拶なしとはどういうことかしら?」
温度の低ぅい声に慌てて振り返ると、ブリザード化した広田室長がそこにいた。小川先輩としゃべることに夢中で、室長の存在が頭の中からスッポリ抜け落ちてしまっていたのだ!
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