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婚約者としての役割
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気がすすまない。だが、侯爵家への訪問はおそらくこれが最後になるだろう。そう思うと感慨深くもあった。これまで侯爵夫人には何かと世話になったのだから、お別れの挨拶くらいきちんとしなければ──。
何とか勇気を振り絞って侯爵家を訪れたシルヴィだったが、エマ夫人には急ぎの客が来ているということでしばらく待つよりほかなかった。
ギーの用意してくれた花束に顔をうずめるようにして深呼吸をする。少しだけ甘い、けれど青臭い匂いがした。
思えば、ギーと親しく話をするようになったのは侯爵家に持参する花束をどんなものにしたらいいかと相談したのがきっかけだった。ギーは時々侯爵家に花を納めることもあるようで、レオの好みも知っていた。
「レオ様は華美なのはお嫌いですよ。それに、香りの強い花も好まれなかったと思います。まぁ男性にはよくあることですけどね。」
シルヴィの父親もそうだったので、ギーの言葉をシルヴィはすんなりと受け入れることができた。
バラやユリのような芳香の強い花を飾っていると伯爵は一瞬眉をひそめ、香りの出どころを確認する始末だ。だから伯爵家では食堂と父親の寝室には花は飾らない。飾るとしても香りの控えめなものと決まっていた。
それ以降、侯爵家に持参する花束は毎回ギーが用意してくれている。シルヴィもギーの選ぶ花なら大丈夫だろうと全幅の信頼を寄せていた。
侯爵夫妻と初めて顔を合わせた時、レオは不在だった。まだ婚約の決まる前段階だったので当時は何も思わなかったが、今考えてみるとレオ側にも会いたくない理由があったのではないかと思えた。
「成人するまでの役目だということは十分承知しております、なのでこれだけはお許しください。」
シルヴィが侯爵夫妻に一つだけ願い出たのは、このままレオと顔を合わせたくないということっだった。
侯爵夫人は困ったような顔をしていたが、やがてふふふと笑いながら大きく頷き、シルヴィの願いを受け入れてくれた。
「貴女はちょっと変わった子のようね。分かりました、いいでしょう。その代わり婚約している間は婚約者として、きっちりと役割を果たしてもらいますからね?」
脅しのようなその言葉に一瞬怯んだものの、エマ夫人の言う婚約者としての役割というものも風変わりなものだった。
──レオが不在の間、部屋の管理は全てシルヴィに任せる。
言い渡されたのはだたそれだけだった。
いくら婚約をしたとはいえ、会ったこともない赤の他人に自分のいない間に部屋に入られるのはさすがのレオも嫌がるだろうと思ったが、侯爵家の使用人や侍女に聞いてみても、レオがそのことを気にしている様子はないということだった。
それ以来、侯爵家からは何日置きに挨拶に来いとも、手紙を寄越せとも言われなかった。もちろん、レオ本人から連絡はおろか茶会や夜会への招待も一切無かった。
他人の部屋の管理を任せると言われても、侯爵家の使用人によって手入れは十分に行き届いているのでシルヴィには何もすることがなかった。
しかし約束は約束だ。シルヴィはしばらく考えた結果、邪魔にならない程度に部屋に花を飾ることを決めた。
婚約者とは本当に名ばかり。ただ主のいない部屋にこっそりと花を飾る、ただそれだけの関わりは丸一年続いた。
侯爵夫人が約束してくれた通り、シルヴィが訪れる時は決まってレオは不在で、うっかり鉢合わせるということはなかった。
──最後のこの花はもうレオ様の部屋には飾らない。エマ夫人に渡してから帰ろう。
花束から顔を上げた時、目の前に一人の男が現れシルヴィの周りにいた使用人がすっと後ろに退くのが分かった。
顔を上げると目の前にいたのは先日レオからの手紙を届けてくれた例の栗色の髪の男だった。
「シルヴィ様?」
「貴方はあの時の……。」
シルヴィは嫌な予感がした。今、使用人たちのとった態度を見る限りこの男は侯爵家の使用人ではない。それどころか、かなり身分が高い相手のように見受けられる。
シルヴィにレオからの手紙を届けたのは単純にレオから頼まれたからだったとでも言うのだろうか。
男はシルヴィがその正体に思いを巡らせていることなど気にも止めず、にこやかに話を続けていく。
「エマ夫人に御用ですか?でしたら私が直接ご案内致しましょう。」
「いえ、案内は結構です。それよりも……。」
「何か?」
シルヴィは当然のように案内を申し出た男の顔を改めてまじまじと見つめた。
侯爵も侯爵夫人も金髪碧眼──。それに引き換えこの男は栗色の髪に琥珀色の瞳の持ち主だ。だからきっと大丈夫、単に自分が考えすぎなのだ。
それでもこの機会に確認してもいいだろう。次にこの相手といつ会えるか分からないのだから。
「貴方がレオ様……というこはないですよね?」
「私がですか?」
男は目を丸くして楽しそうに笑うと、胸に手を当てておどけた様に一礼した。
「そういえば名乗っていませんでしたね。申し遅れました、私はロジェといいます。残念ながらレオ・アングラードではありません。」
「……そうでしたか。」
「アングラード家の親戚──のようなものです。どうです?安心しましたか?」
シルヴィは曖昧な笑みを浮かべながら小さく頷いた。
その間、記憶を総動員する──。確かにレオの兄弟にはそのような名前はなかったはずだ。アングラード侯爵家と親戚のようなものということは貴族であるはずだ。ロジェは家名をあえて名乗らなかった。しかし、どこかで聞いたことがある名前だった──。
「では、用がありますので私はこれで失礼します。」
ロジェはシルヴィとの会話が途切れたのを確認すると即座に立ち去ろうとした。
シルヴィはすれ違いざまにはっとしたようにロジェを呼び止めた。
「あの……。」
ロジェはシルヴィの隣りで足を止めると少し間をおいて視線を向けた。
シルヴィは申し訳ないと思いつつ一つだけどうしても確認をしておきたいことがあった。
「貴方が帰還されているということはもしかして今この屋敷にレオ様も戻っておいでなのでしょうか?」
「あ、その事ですか……。確かに婚約を破棄した相手と今更顔を合わせるのは気まずいですからね。」
確かに本当のことだが、ここまでストレートに言われるとどう反応したものかとシルヴィは戸惑った。
「大丈夫ですよ、顔を合わせることはありません。」
ロジェはそう簡潔に答えると、今度こそ足早にその場を後にした。
何とか勇気を振り絞って侯爵家を訪れたシルヴィだったが、エマ夫人には急ぎの客が来ているということでしばらく待つよりほかなかった。
ギーの用意してくれた花束に顔をうずめるようにして深呼吸をする。少しだけ甘い、けれど青臭い匂いがした。
思えば、ギーと親しく話をするようになったのは侯爵家に持参する花束をどんなものにしたらいいかと相談したのがきっかけだった。ギーは時々侯爵家に花を納めることもあるようで、レオの好みも知っていた。
「レオ様は華美なのはお嫌いですよ。それに、香りの強い花も好まれなかったと思います。まぁ男性にはよくあることですけどね。」
シルヴィの父親もそうだったので、ギーの言葉をシルヴィはすんなりと受け入れることができた。
バラやユリのような芳香の強い花を飾っていると伯爵は一瞬眉をひそめ、香りの出どころを確認する始末だ。だから伯爵家では食堂と父親の寝室には花は飾らない。飾るとしても香りの控えめなものと決まっていた。
それ以降、侯爵家に持参する花束は毎回ギーが用意してくれている。シルヴィもギーの選ぶ花なら大丈夫だろうと全幅の信頼を寄せていた。
侯爵夫妻と初めて顔を合わせた時、レオは不在だった。まだ婚約の決まる前段階だったので当時は何も思わなかったが、今考えてみるとレオ側にも会いたくない理由があったのではないかと思えた。
「成人するまでの役目だということは十分承知しております、なのでこれだけはお許しください。」
シルヴィが侯爵夫妻に一つだけ願い出たのは、このままレオと顔を合わせたくないということっだった。
侯爵夫人は困ったような顔をしていたが、やがてふふふと笑いながら大きく頷き、シルヴィの願いを受け入れてくれた。
「貴女はちょっと変わった子のようね。分かりました、いいでしょう。その代わり婚約している間は婚約者として、きっちりと役割を果たしてもらいますからね?」
脅しのようなその言葉に一瞬怯んだものの、エマ夫人の言う婚約者としての役割というものも風変わりなものだった。
──レオが不在の間、部屋の管理は全てシルヴィに任せる。
言い渡されたのはだたそれだけだった。
いくら婚約をしたとはいえ、会ったこともない赤の他人に自分のいない間に部屋に入られるのはさすがのレオも嫌がるだろうと思ったが、侯爵家の使用人や侍女に聞いてみても、レオがそのことを気にしている様子はないということだった。
それ以来、侯爵家からは何日置きに挨拶に来いとも、手紙を寄越せとも言われなかった。もちろん、レオ本人から連絡はおろか茶会や夜会への招待も一切無かった。
他人の部屋の管理を任せると言われても、侯爵家の使用人によって手入れは十分に行き届いているのでシルヴィには何もすることがなかった。
しかし約束は約束だ。シルヴィはしばらく考えた結果、邪魔にならない程度に部屋に花を飾ることを決めた。
婚約者とは本当に名ばかり。ただ主のいない部屋にこっそりと花を飾る、ただそれだけの関わりは丸一年続いた。
侯爵夫人が約束してくれた通り、シルヴィが訪れる時は決まってレオは不在で、うっかり鉢合わせるということはなかった。
──最後のこの花はもうレオ様の部屋には飾らない。エマ夫人に渡してから帰ろう。
花束から顔を上げた時、目の前に一人の男が現れシルヴィの周りにいた使用人がすっと後ろに退くのが分かった。
顔を上げると目の前にいたのは先日レオからの手紙を届けてくれた例の栗色の髪の男だった。
「シルヴィ様?」
「貴方はあの時の……。」
シルヴィは嫌な予感がした。今、使用人たちのとった態度を見る限りこの男は侯爵家の使用人ではない。それどころか、かなり身分が高い相手のように見受けられる。
シルヴィにレオからの手紙を届けたのは単純にレオから頼まれたからだったとでも言うのだろうか。
男はシルヴィがその正体に思いを巡らせていることなど気にも止めず、にこやかに話を続けていく。
「エマ夫人に御用ですか?でしたら私が直接ご案内致しましょう。」
「いえ、案内は結構です。それよりも……。」
「何か?」
シルヴィは当然のように案内を申し出た男の顔を改めてまじまじと見つめた。
侯爵も侯爵夫人も金髪碧眼──。それに引き換えこの男は栗色の髪に琥珀色の瞳の持ち主だ。だからきっと大丈夫、単に自分が考えすぎなのだ。
それでもこの機会に確認してもいいだろう。次にこの相手といつ会えるか分からないのだから。
「貴方がレオ様……というこはないですよね?」
「私がですか?」
男は目を丸くして楽しそうに笑うと、胸に手を当てておどけた様に一礼した。
「そういえば名乗っていませんでしたね。申し遅れました、私はロジェといいます。残念ながらレオ・アングラードではありません。」
「……そうでしたか。」
「アングラード家の親戚──のようなものです。どうです?安心しましたか?」
シルヴィは曖昧な笑みを浮かべながら小さく頷いた。
その間、記憶を総動員する──。確かにレオの兄弟にはそのような名前はなかったはずだ。アングラード侯爵家と親戚のようなものということは貴族であるはずだ。ロジェは家名をあえて名乗らなかった。しかし、どこかで聞いたことがある名前だった──。
「では、用がありますので私はこれで失礼します。」
ロジェはシルヴィとの会話が途切れたのを確認すると即座に立ち去ろうとした。
シルヴィはすれ違いざまにはっとしたようにロジェを呼び止めた。
「あの……。」
ロジェはシルヴィの隣りで足を止めると少し間をおいて視線を向けた。
シルヴィは申し訳ないと思いつつ一つだけどうしても確認をしておきたいことがあった。
「貴方が帰還されているということはもしかして今この屋敷にレオ様も戻っておいでなのでしょうか?」
「あ、その事ですか……。確かに婚約を破棄した相手と今更顔を合わせるのは気まずいですからね。」
確かに本当のことだが、ここまでストレートに言われるとどう反応したものかとシルヴィは戸惑った。
「大丈夫ですよ、顔を合わせることはありません。」
ロジェはそう簡潔に答えると、今度こそ足早にその場を後にした。
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