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第一章前編:声無し少年と堕ちてきた少女
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あれから一年が過ぎた。スカイフォースの改良は今でも続けているし、今も空を飛んでいる。もちろん森の中だけだけれど。必要な食料や油はエグルがどこからか調達してくれる。
あの日から、俺は言葉を話せなくなった。言葉を話そうとすると喉が詰まってうまく声が出ない。音が出てもそれは言葉にならない。かっ、かっと音のような何かが漏れるだけだ。
エグルは何も言わず、俺が声を使わずに意思表示できるように端末を手渡した。文字を打つことで、それが声の代わりになる。エグルが持つ端末と遠くにいてもやりとりができる。
あの日から、これが俺の声になった。
当たり前ができなくなっていく。自分では翔ぶことも喋ることも出来ない。それでも。それでもやっぱり俺はスカイフォースで飛ぶ空が好きで。
飛ぶことで感じられる風も、景色も。あの時怖いと思ったこの世界も、飛ぶだけなら怖くない。
エグルはあれからあまり俺と話さなくなった。やりとりも端末でのメッセージだけで、あの抑揚のない声を聞くことは少なくなった。俺のせいかな、と少しだけ考える。
あの日の夜、エアリーが来てひどく驚いた表情をした後、エグルを大声で怒鳴っていた。何を怒鳴っていたかは覚えていない。エグルは何も言わずそれを聞いていて、エアリーはそれからうちに来ることはなくなった。
――俺が壊したんだ。
エアリーとエグルは俺から見ても仲が良いように見えた。エアリーは羽有りなのに、俺にもエグルにも優しかった。ご飯だって作り方を教えてくれたし、俺はスカイフォースで、エアリーは自分の『羽』で空を飛んで遊ぶこともあった。
そんな彼女は俺から見てもエグルに惚れていて、羽無しとか羽有りとか関係なく彼のことを好きなのだと、そう思っていた。
それを、奪ってしまった。
両開きの窓を押し開け、薄暗い部屋の中に風と太陽の光を入れる。ああ、今日は絶好の飛空日和だ。
晴天で、風も良くて、あの日を思い出してしまうような天気だ。
この世界が、羽無しにとってどんなに残酷であろうと生を受けたからには生きる権利があるはずだ。それを言ったら羽有りたちに否定されるだろうから言わないけれど。
そもそも、言えないが。
もう一年くらい自分の声を自分で聞いていない。どんな声をしていたか忘れそうだ。
髪を梳かしながら、そんなことを考える。だいぶ伸びて来たな、と思いながら。一年前俺を助けてくれたあの人とエグルに憧れて伸ばしているのは俺とスカイフォースだけの秘密だ。
その髪を首のあたりでリボンを使い束ね、鏡を見る。背はあの時から10cmくらい伸びて、165cmくらいになっている。自分としてはせめてあと5cmは欲しいと思っている。
首から下げた端末を手に取ると、日課のメッセージ確認。この端末は長時間のフライト中であっても連絡が取れるようにと太陽の光を使っての充電を採用している。
エアリー曰くこんなものをポンポン開発できるエグルはすごいらしい。羽無しじゃなければどこの研究施設でも引っ張りだこだと。
逆に言えば、エグルのようにどんなに優れた力を持っていても、羽無しというだけでこんな辺鄙な森の中での生活を強いられるということだ。いや、エグルは好きでここで生活しているのかもしれないが。
『おはよう。今日は朝早く出る。帰りは夕飯時になる』
エグルの朝早くは本当に早い。俺が目覚めた頃にはすでに食事を済ませて外に出ている。外で何をしているのかはわからないが、きっと俺には教えてくれないだろう。
そう考えてしまう自分が嫌になる。一年前は前向きだけが取り柄だったはずなのに、あの拒絶が耳に、目に焼き付いて離れない。
汚い。あれから毎日体を洗っているはずなのに、自分でも時々そう思うことがある。だから、俺の両親も俺を棄てたんだろうな、とも思う。
部屋から出て、キッチンに立つ。卵を適当に焼いたものと、用意されていた硬めのパンを朝食に食べる。一人での朝食も最近多くなった。一年前まではほとんどエグルと一緒に食べていたから。
食べ終わってから、皿を洗っていつものようにガレージへと向かう。
白と水色の大きな鳥は、今日もそこにいる。お前とエグルがいるから、きっと俺はまだ空を飛べる。
言葉にすることはできない。お前にすら拒絶されたら、エグルにさえ拒絶されたらきっと俺は生きていけないから。
コックピットに乗り込む前に、機体を隅々まで磨く。きっと、スカイフォースも俺と同じで綺麗な方が嬉しいだろうから。
この世界にはきっと俺に自由はなくて。
こいつに乗ってもきっともうどこにも行けなくて。
ずっとこのままただ生きていくんだと、そう思っていた。
充分に滑走し、風が吹いたタイミングでペダルを力強く踏みブースターを起動させる。上昇していく。地を離れ、浮き上がる。あの日と同じように、今日は一人で空へ上がった。
目的もなく、理由もなく、当てもなく。ただ空を飛ぶ。ただ、あの部屋にいても息が詰まる。それだけだった。それが理由になるなら、それが理由だ。でも、こんなことをしたって気分転換にもなりはしない。
外が怖い。
ヒトが怖い。
羽有りが怖い。
そんなふうに思っていても現実は変わらないのだから、俺は空を飛ぶしかないのだ。その先に何も待っていないとしても。
あの日俺が信じた世界は全て幻想だった。それは自惚れで、間違いで。
それでも、空を飛ぶことを恐れたりはしたくない。
エグルは今までと変わらない。ただ、俺が避けているだけだ。彼の言った「ヒトもどき」という言葉が今も耳の奥に、俺にあるのかさえわからない心とかいうものの奥にこびりついて、その正体不明の塊が言葉を塞きとめる。
なあ、スカイフォース。
俺は、
俺はこのまま生きていてもいいのだろうか。
答えが返ってこないからこそ安心して問いかけられる。その問いかけすら誰にも聞かれることはない。だから、安心して問い掛けられる。
空に一筋の光が見える。幻かとおもったが、しっかりと、飛行機雲とも羽有りたちが翔ぶ光とも違う白い光が、空から落ちてくる。
ゴーグルの倍率を上げ、それがなんなのか目を凝らした。隕石か、それともただの鳥か、羽有りか。それを確かめるために。
結論から言うと、――そのどれでもなかった。
隕石でも、鳥でもない。羽もない。ただの、人。
気付いた時にはブースターを起動させ、必死にゴーグルの倍率から計測した落下地点までスカイフォースを飛ばす。
コックピットのハッチをレバーを引き、開けてからソレに手を伸ばした。
白い淡い光に包まれた、短い白い髪の少女。肌も白く透き通るようで、それはまるで御伽噺の天使のようだった。輪っかも翼もない、ただ堕ちてきた――天使。
その体は驚くほど軽く、息を呑む。
どうやら眠っているようで、俺の腕の中で身動ぎ一つしない。女の子が眠りながら空からおちてきた、なんて誰が信じるだろうか。もしかしたら羽有りで、翔んでいる最中に居眠りでもしたのだろうか。
もし彼女が羽有りだったら、また俺は――。
「……ん」
少女が身を捩る。その白い髪が風に触れて揺れ、色素の薄い灰色にも白にも見える瞳がこちらを向く。俺の体は固まってしまって動かず、少女は俺の瞳を見つめたまま「……空、飛んでる」と呟いた。透き通るような、良い声。まるで聴いているこっちの体が軽くなるような。
俺は慌てて端末を取り出し文字を打ち、彼女に見せる。
『大丈夫? 空からおちてきたけど。俺はシエル。君は?』
彼女はその端末を「なにこれー」とまじまじと覗き込んだ後、「だいじょうぶ? そらからおちてきたけど。おれはしえる。きみは?」と俺の書いたメッセージを読み上げる。なんかそう真剣に読まれると恥ずかしい。
「あ、これ、もしかすると私に質問? なるほど。大丈夫、痛いとかは問題ない。君はシエル、理解した。私の名前、私は――わたし、は」
妙な言葉遣いをする少女だ。しかし、名前のところでその流暢な言葉は止まってしまう。
「私は――誰かな?」
にこにこな笑顔で逆に聞かれてしまった。俺に聞かれてもわからない。ただ空から降ってきた君を受け止めただけなんだから。
端末を受け取ってそう返すと、彼女は「私が? 空から? あはは、じゃあ君は命の恩人かな。空から地面に叩きつけられたら私は死んでいたよ。なむなむ」と言って俺に向かって手をすり合わせる。なむなむ。聴いたことのない言葉だ。
「助けてくれてありがとう。で、私の名前。全く見当もつかない。かといって名前がないのも確かに不便極まりない。なので――シエルくんがつけてくれるとありがたい」
おそらく俺より年上に見える少女は、そう言ってふわりと笑う。硬い口調のわりにはよく笑う子だ、と思った。不思議な雰囲気の女の子。
『俺でいいの?』
「ここには君と私しかいない。安心していい、君のネーミングセンスが絶望的ならちゃんと却下する」
それなら安心、なのだろうか。この子と会話しているとよくわからなくなってくる。空から落ちてきた白い光を纏った女の子。翔ばずに堕ちてきた、女の子。もし、彼女が俺と同じなら。
――トモダチに、なれるのだろうか。
散々考えて、端末にその四文字を打ち込む。
『ファレン』
「ファレン。音はすき。意味はある?」
『落ちてきたから。この国の古い言葉で、落ちるって意味のファレン』
流石に不謹慎だっただろうか。そう思って相手の顔を見れないで言うと、「なるほど。いい。ファレン。うん、いいな」と言って笑顔を見せる。彼女の顔を見上げると、不思議な淡い白の瞳が太陽の光を受けて輝いた。
『ファレンは羽有りなの?』
先程から聞けなかったことを聞いてみる。あれ、でも羽有りは羽があることが当たり前だから羽有りとは呼ばないんだっけ。
「羽? 羽があったら落ちてなんて来ない」
ということは、本当に彼女は羽無しで、俺と同じ――。と、そろそろ自動操縦を切らないと。かなり予定の進路を外れてしまっている。しかもこの方角は――羽有りたちの街がある。早く引き返さないと。彼女が羽無しなら、尚更。
旋回するべく視界を前から逸らした時、見知った格好の男性が目に入った。
見間違えるはずがない黒髪に、電動車いすに乗った男。エグルだ、なんでこんなところに。買い物だろうか。エグルは時々こうやって街に向かう。当然ながら俺は連れて行ってもらえない。
「そういえばシエルくんは言葉が話せないのか?」
後ろからかけられた声に、ハッとして片手で端末を持って答える。ただ一言。
『怖いから』
ただそれだけ答えて、急いで家のある方角へ引き返す。
「こわい。こわいからか。私もか?」
彼女はそう言って俺の顔を覗き込む。その色のない不思議な瞳は、俺の心を見透かすように細められる。笑っている。その笑みの理由が、俺にはわからない。
その言葉に返答はしなかった。でも、彼女が近くにいても不思議と震えはなかった。
「そうか、そうか」
ファレンはそう静かに呟くと、俺の頭をポンポンと軽く叩く。その行動にどんな意図があるかなんて、それこそわからない。ただただ、子供をあやすように、彼女は笑った。この不思議な少女には俺はどのように見えているのだろうか。
「そういえばこの、私たちを乗せて飛んでいるこれはなんだ?」
ファレンはスカイフォースEXの全貌を見ようと立ち上がってキョロキョロと見回す。
『スカイフォースEX。俺が作ったんだ』
端末を見た彼女の表情が嬉々として綻んだ。まるで小さな子供みたいに。最初の無表情が嘘かのように。
「これを作った!? すごい!! シエルくんはすごいんだなあ! とてもすごい!すかいふぉーすいーえっくす! 名前もすごいなあ! かっこいいぞ!」
おそらく彼女の今持てる全ての語彙力で褒めてくれているのだろうけど、すごいを連呼するそれがなんだかおかしくて吹き出してしまう。
彼女は満面の笑みで俺の表情を見ていた。
「ようやく笑った。笑えないのかと思った。安心安心」
ファレンはそういうとニコニコ笑う。俺はそんなに真剣な表情をしていたのだろうか。スカイフォースEXが褒められて嬉しかったのはあるけれど。
スカイフォースEX。こいつは俺の相棒で、翔べない俺の代わりの羽で。褒められて嬉しい。それでも、俺の声は出ない。端末に『ありがとう』と打ち込んでファレンに見せる。彼女はそれを眺めながら、「どういたしまして」と笑った。笑うととても可愛くて、気づくと俺は赤面している。
「最初の印象より感情表現豊かだな、安心安心」
安心安心、と繰り返すのは彼女の喋り方の癖なのだろうか。さっきのなむなむもそうだがあまり聞かない口癖だ。それは当たり前かもしれない。彼女は空高くから堕ちてきたのだから。
「今はどこに向かっているんだ?」
『俺の家だよ。羽なしは街じゃ暮らせないんだ』
「街では暮らせない……なるほどなるほど。変な取り決めだな。ふむふむ」
彼女はそう言って何かを考えているように目を閉じて腕を組んだ。街は怖い。エグル以外の他人も怖い。そんな気持ちを、彼女はわかってくれるだろうか。もしかしたら、わかってくれないかもしれない。そう思うと怖かった。
空から堕ちてきた彼女には想像がつくだろうか。羽有りに拒絶される絶望が。嫌悪されることが。彼女には味合わせたくないという思いが、舵を家へと切る。エグルにはちゃんと説明しなきゃ。彼女は羽有りじゃないって。俺とスカイフォースEXを褒めてくれたんだって。まるであの日会った男の人みたいに。
「なあシエルくん、シエルくんは一人で住んでいるのか?」
『エグルっていう大人と住んでいるんだ。夕飯時には帰ってくるだろうから紹介するよ』
「そうか、そうか。一人じゃないんだな、よかったよかった」
彼女――ファレンはそう言うと朗らかに笑う。その笑顔が優しくて、俺は彼女を疑ったことに罪悪感を覚えた。ファレンは地上が珍しいのか、下をキョロキョロと見渡している。俺はそんなファレンを見て、俺とえぐる二人の家を指差しながら『あれが俺たちの家だよ』と端末を見せた。
「ほうほうあれが。ログハウスというやつだな。隣のがスカイフォースEXの家か? 大きいなあ。よかった、よかったなあ」
スカイフォースEXの家という表現が少し面白くて、思わず吹き出してしまう。彼女の喋り方は本当に独特で、まるで俺に感情をくれたようだった。
◆
羽無しの少年は、空から堕ちてきた不思議な少女と出会う。この出会いが少年の運命を変えるとは、この時誰も知らなかった。
あの日から、俺は言葉を話せなくなった。言葉を話そうとすると喉が詰まってうまく声が出ない。音が出てもそれは言葉にならない。かっ、かっと音のような何かが漏れるだけだ。
エグルは何も言わず、俺が声を使わずに意思表示できるように端末を手渡した。文字を打つことで、それが声の代わりになる。エグルが持つ端末と遠くにいてもやりとりができる。
あの日から、これが俺の声になった。
当たり前ができなくなっていく。自分では翔ぶことも喋ることも出来ない。それでも。それでもやっぱり俺はスカイフォースで飛ぶ空が好きで。
飛ぶことで感じられる風も、景色も。あの時怖いと思ったこの世界も、飛ぶだけなら怖くない。
エグルはあれからあまり俺と話さなくなった。やりとりも端末でのメッセージだけで、あの抑揚のない声を聞くことは少なくなった。俺のせいかな、と少しだけ考える。
あの日の夜、エアリーが来てひどく驚いた表情をした後、エグルを大声で怒鳴っていた。何を怒鳴っていたかは覚えていない。エグルは何も言わずそれを聞いていて、エアリーはそれからうちに来ることはなくなった。
――俺が壊したんだ。
エアリーとエグルは俺から見ても仲が良いように見えた。エアリーは羽有りなのに、俺にもエグルにも優しかった。ご飯だって作り方を教えてくれたし、俺はスカイフォースで、エアリーは自分の『羽』で空を飛んで遊ぶこともあった。
そんな彼女は俺から見てもエグルに惚れていて、羽無しとか羽有りとか関係なく彼のことを好きなのだと、そう思っていた。
それを、奪ってしまった。
両開きの窓を押し開け、薄暗い部屋の中に風と太陽の光を入れる。ああ、今日は絶好の飛空日和だ。
晴天で、風も良くて、あの日を思い出してしまうような天気だ。
この世界が、羽無しにとってどんなに残酷であろうと生を受けたからには生きる権利があるはずだ。それを言ったら羽有りたちに否定されるだろうから言わないけれど。
そもそも、言えないが。
もう一年くらい自分の声を自分で聞いていない。どんな声をしていたか忘れそうだ。
髪を梳かしながら、そんなことを考える。だいぶ伸びて来たな、と思いながら。一年前俺を助けてくれたあの人とエグルに憧れて伸ばしているのは俺とスカイフォースだけの秘密だ。
その髪を首のあたりでリボンを使い束ね、鏡を見る。背はあの時から10cmくらい伸びて、165cmくらいになっている。自分としてはせめてあと5cmは欲しいと思っている。
首から下げた端末を手に取ると、日課のメッセージ確認。この端末は長時間のフライト中であっても連絡が取れるようにと太陽の光を使っての充電を採用している。
エアリー曰くこんなものをポンポン開発できるエグルはすごいらしい。羽無しじゃなければどこの研究施設でも引っ張りだこだと。
逆に言えば、エグルのようにどんなに優れた力を持っていても、羽無しというだけでこんな辺鄙な森の中での生活を強いられるということだ。いや、エグルは好きでここで生活しているのかもしれないが。
『おはよう。今日は朝早く出る。帰りは夕飯時になる』
エグルの朝早くは本当に早い。俺が目覚めた頃にはすでに食事を済ませて外に出ている。外で何をしているのかはわからないが、きっと俺には教えてくれないだろう。
そう考えてしまう自分が嫌になる。一年前は前向きだけが取り柄だったはずなのに、あの拒絶が耳に、目に焼き付いて離れない。
汚い。あれから毎日体を洗っているはずなのに、自分でも時々そう思うことがある。だから、俺の両親も俺を棄てたんだろうな、とも思う。
部屋から出て、キッチンに立つ。卵を適当に焼いたものと、用意されていた硬めのパンを朝食に食べる。一人での朝食も最近多くなった。一年前まではほとんどエグルと一緒に食べていたから。
食べ終わってから、皿を洗っていつものようにガレージへと向かう。
白と水色の大きな鳥は、今日もそこにいる。お前とエグルがいるから、きっと俺はまだ空を飛べる。
言葉にすることはできない。お前にすら拒絶されたら、エグルにさえ拒絶されたらきっと俺は生きていけないから。
コックピットに乗り込む前に、機体を隅々まで磨く。きっと、スカイフォースも俺と同じで綺麗な方が嬉しいだろうから。
この世界にはきっと俺に自由はなくて。
こいつに乗ってもきっともうどこにも行けなくて。
ずっとこのままただ生きていくんだと、そう思っていた。
充分に滑走し、風が吹いたタイミングでペダルを力強く踏みブースターを起動させる。上昇していく。地を離れ、浮き上がる。あの日と同じように、今日は一人で空へ上がった。
目的もなく、理由もなく、当てもなく。ただ空を飛ぶ。ただ、あの部屋にいても息が詰まる。それだけだった。それが理由になるなら、それが理由だ。でも、こんなことをしたって気分転換にもなりはしない。
外が怖い。
ヒトが怖い。
羽有りが怖い。
そんなふうに思っていても現実は変わらないのだから、俺は空を飛ぶしかないのだ。その先に何も待っていないとしても。
あの日俺が信じた世界は全て幻想だった。それは自惚れで、間違いで。
それでも、空を飛ぶことを恐れたりはしたくない。
エグルは今までと変わらない。ただ、俺が避けているだけだ。彼の言った「ヒトもどき」という言葉が今も耳の奥に、俺にあるのかさえわからない心とかいうものの奥にこびりついて、その正体不明の塊が言葉を塞きとめる。
なあ、スカイフォース。
俺は、
俺はこのまま生きていてもいいのだろうか。
答えが返ってこないからこそ安心して問いかけられる。その問いかけすら誰にも聞かれることはない。だから、安心して問い掛けられる。
空に一筋の光が見える。幻かとおもったが、しっかりと、飛行機雲とも羽有りたちが翔ぶ光とも違う白い光が、空から落ちてくる。
ゴーグルの倍率を上げ、それがなんなのか目を凝らした。隕石か、それともただの鳥か、羽有りか。それを確かめるために。
結論から言うと、――そのどれでもなかった。
隕石でも、鳥でもない。羽もない。ただの、人。
気付いた時にはブースターを起動させ、必死にゴーグルの倍率から計測した落下地点までスカイフォースを飛ばす。
コックピットのハッチをレバーを引き、開けてからソレに手を伸ばした。
白い淡い光に包まれた、短い白い髪の少女。肌も白く透き通るようで、それはまるで御伽噺の天使のようだった。輪っかも翼もない、ただ堕ちてきた――天使。
その体は驚くほど軽く、息を呑む。
どうやら眠っているようで、俺の腕の中で身動ぎ一つしない。女の子が眠りながら空からおちてきた、なんて誰が信じるだろうか。もしかしたら羽有りで、翔んでいる最中に居眠りでもしたのだろうか。
もし彼女が羽有りだったら、また俺は――。
「……ん」
少女が身を捩る。その白い髪が風に触れて揺れ、色素の薄い灰色にも白にも見える瞳がこちらを向く。俺の体は固まってしまって動かず、少女は俺の瞳を見つめたまま「……空、飛んでる」と呟いた。透き通るような、良い声。まるで聴いているこっちの体が軽くなるような。
俺は慌てて端末を取り出し文字を打ち、彼女に見せる。
『大丈夫? 空からおちてきたけど。俺はシエル。君は?』
彼女はその端末を「なにこれー」とまじまじと覗き込んだ後、「だいじょうぶ? そらからおちてきたけど。おれはしえる。きみは?」と俺の書いたメッセージを読み上げる。なんかそう真剣に読まれると恥ずかしい。
「あ、これ、もしかすると私に質問? なるほど。大丈夫、痛いとかは問題ない。君はシエル、理解した。私の名前、私は――わたし、は」
妙な言葉遣いをする少女だ。しかし、名前のところでその流暢な言葉は止まってしまう。
「私は――誰かな?」
にこにこな笑顔で逆に聞かれてしまった。俺に聞かれてもわからない。ただ空から降ってきた君を受け止めただけなんだから。
端末を受け取ってそう返すと、彼女は「私が? 空から? あはは、じゃあ君は命の恩人かな。空から地面に叩きつけられたら私は死んでいたよ。なむなむ」と言って俺に向かって手をすり合わせる。なむなむ。聴いたことのない言葉だ。
「助けてくれてありがとう。で、私の名前。全く見当もつかない。かといって名前がないのも確かに不便極まりない。なので――シエルくんがつけてくれるとありがたい」
おそらく俺より年上に見える少女は、そう言ってふわりと笑う。硬い口調のわりにはよく笑う子だ、と思った。不思議な雰囲気の女の子。
『俺でいいの?』
「ここには君と私しかいない。安心していい、君のネーミングセンスが絶望的ならちゃんと却下する」
それなら安心、なのだろうか。この子と会話しているとよくわからなくなってくる。空から落ちてきた白い光を纏った女の子。翔ばずに堕ちてきた、女の子。もし、彼女が俺と同じなら。
――トモダチに、なれるのだろうか。
散々考えて、端末にその四文字を打ち込む。
『ファレン』
「ファレン。音はすき。意味はある?」
『落ちてきたから。この国の古い言葉で、落ちるって意味のファレン』
流石に不謹慎だっただろうか。そう思って相手の顔を見れないで言うと、「なるほど。いい。ファレン。うん、いいな」と言って笑顔を見せる。彼女の顔を見上げると、不思議な淡い白の瞳が太陽の光を受けて輝いた。
『ファレンは羽有りなの?』
先程から聞けなかったことを聞いてみる。あれ、でも羽有りは羽があることが当たり前だから羽有りとは呼ばないんだっけ。
「羽? 羽があったら落ちてなんて来ない」
ということは、本当に彼女は羽無しで、俺と同じ――。と、そろそろ自動操縦を切らないと。かなり予定の進路を外れてしまっている。しかもこの方角は――羽有りたちの街がある。早く引き返さないと。彼女が羽無しなら、尚更。
旋回するべく視界を前から逸らした時、見知った格好の男性が目に入った。
見間違えるはずがない黒髪に、電動車いすに乗った男。エグルだ、なんでこんなところに。買い物だろうか。エグルは時々こうやって街に向かう。当然ながら俺は連れて行ってもらえない。
「そういえばシエルくんは言葉が話せないのか?」
後ろからかけられた声に、ハッとして片手で端末を持って答える。ただ一言。
『怖いから』
ただそれだけ答えて、急いで家のある方角へ引き返す。
「こわい。こわいからか。私もか?」
彼女はそう言って俺の顔を覗き込む。その色のない不思議な瞳は、俺の心を見透かすように細められる。笑っている。その笑みの理由が、俺にはわからない。
その言葉に返答はしなかった。でも、彼女が近くにいても不思議と震えはなかった。
「そうか、そうか」
ファレンはそう静かに呟くと、俺の頭をポンポンと軽く叩く。その行動にどんな意図があるかなんて、それこそわからない。ただただ、子供をあやすように、彼女は笑った。この不思議な少女には俺はどのように見えているのだろうか。
「そういえばこの、私たちを乗せて飛んでいるこれはなんだ?」
ファレンはスカイフォースEXの全貌を見ようと立ち上がってキョロキョロと見回す。
『スカイフォースEX。俺が作ったんだ』
端末を見た彼女の表情が嬉々として綻んだ。まるで小さな子供みたいに。最初の無表情が嘘かのように。
「これを作った!? すごい!! シエルくんはすごいんだなあ! とてもすごい!すかいふぉーすいーえっくす! 名前もすごいなあ! かっこいいぞ!」
おそらく彼女の今持てる全ての語彙力で褒めてくれているのだろうけど、すごいを連呼するそれがなんだかおかしくて吹き出してしまう。
彼女は満面の笑みで俺の表情を見ていた。
「ようやく笑った。笑えないのかと思った。安心安心」
ファレンはそういうとニコニコ笑う。俺はそんなに真剣な表情をしていたのだろうか。スカイフォースEXが褒められて嬉しかったのはあるけれど。
スカイフォースEX。こいつは俺の相棒で、翔べない俺の代わりの羽で。褒められて嬉しい。それでも、俺の声は出ない。端末に『ありがとう』と打ち込んでファレンに見せる。彼女はそれを眺めながら、「どういたしまして」と笑った。笑うととても可愛くて、気づくと俺は赤面している。
「最初の印象より感情表現豊かだな、安心安心」
安心安心、と繰り返すのは彼女の喋り方の癖なのだろうか。さっきのなむなむもそうだがあまり聞かない口癖だ。それは当たり前かもしれない。彼女は空高くから堕ちてきたのだから。
「今はどこに向かっているんだ?」
『俺の家だよ。羽なしは街じゃ暮らせないんだ』
「街では暮らせない……なるほどなるほど。変な取り決めだな。ふむふむ」
彼女はそう言って何かを考えているように目を閉じて腕を組んだ。街は怖い。エグル以外の他人も怖い。そんな気持ちを、彼女はわかってくれるだろうか。もしかしたら、わかってくれないかもしれない。そう思うと怖かった。
空から堕ちてきた彼女には想像がつくだろうか。羽有りに拒絶される絶望が。嫌悪されることが。彼女には味合わせたくないという思いが、舵を家へと切る。エグルにはちゃんと説明しなきゃ。彼女は羽有りじゃないって。俺とスカイフォースEXを褒めてくれたんだって。まるであの日会った男の人みたいに。
「なあシエルくん、シエルくんは一人で住んでいるのか?」
『エグルっていう大人と住んでいるんだ。夕飯時には帰ってくるだろうから紹介するよ』
「そうか、そうか。一人じゃないんだな、よかったよかった」
彼女――ファレンはそう言うと朗らかに笑う。その笑顔が優しくて、俺は彼女を疑ったことに罪悪感を覚えた。ファレンは地上が珍しいのか、下をキョロキョロと見渡している。俺はそんなファレンを見て、俺とえぐる二人の家を指差しながら『あれが俺たちの家だよ』と端末を見せた。
「ほうほうあれが。ログハウスというやつだな。隣のがスカイフォースEXの家か? 大きいなあ。よかった、よかったなあ」
スカイフォースEXの家という表現が少し面白くて、思わず吹き出してしまう。彼女の喋り方は本当に独特で、まるで俺に感情をくれたようだった。
◆
羽無しの少年は、空から堕ちてきた不思議な少女と出会う。この出会いが少年の運命を変えるとは、この時誰も知らなかった。
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月日は遥か遠く流れて過ぎさり、ー
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【R18】異世界魔剣士のハーレム冒険譚~病弱青年は転生し、極上の冒険と性活を目指す~
泰雅
ファンタジー
病弱ひ弱な青年「青峰レオ」は、その悲惨な人生を女神に同情され、異世界に転生することに。
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・【♡(お相手の名前)】はとりあえずエロイことしています。悪しからず。
・【☆】は挿絵があります。AI生成なので細部などの再現は甘いですが、キャラクターのイメージをお楽しみください。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・思想・名称などとは一切関係ありません。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません
※この物語のえちちなシーンがある登場人物は全員18歳以上の設定です。
キャンピングカーで往く異世界徒然紀行
タジリユウ
ファンタジー
《第4回次世代ファンタジーカップ 面白スキル賞》
【書籍化!】
コツコツとお金を貯めて念願のキャンピングカーを手に入れた主人公。
早速キャンピングカーで初めてのキャンプをしたのだが、次の日目が覚めるとそこは異世界であった。
そしていつの間にかキャンピングカーにはナビゲーション機能、自動修復機能、燃料補給機能など様々な機能を拡張できるようになっていた。
道中で出会ったもふもふの魔物やちょっと残念なエルフを仲間に加えて、キャンピングカーで異世界をのんびりと旅したいのだが…
※旧題)チートなキャンピングカーで旅する異世界徒然紀行〜もふもふと愉快な仲間を添えて〜
※カクヨム様でも投稿をしております
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