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第十話A 大公は踊る
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「くそっ、離せ!」
レナート様がどんなに暴れても男性の腕から逃れることはできません。
突然現れた男性は私の父と兄の中間くらいの年齢に見えました。
かなりの長身で、しなやかな体躯を仕立ての良い服で包んでいます。
「もっとも母親そっくりの彼女が、絶対に問題を起こすと見込んでの婚約だったから予想通りではあるのですが。いくら愛しい妻の冤罪を晴らすためとはいえ、彼女の遺した愛しい息子を犠牲にするわけにはいきませんものね」
額を見せる型に整えられた前髪から乱れて落ちた、ひと筋の艶やかな黒髪が風に揺れています。微笑を浮かべた男性の骨ばった長い指が、暴れるレナート様の両手を掴んでいます。そして彼の動きに合わせて、ご自身も体を動かし始めました。
その優雅な動きはまるで踊りのようなのに、ひとつの動作ごとにレナート様が叫び声を上げます。
どうやら踊っているのではなく攻撃しているらしいです。
私は暴力が嫌いです。
仕方がないこともあるとわかっていても嫌い……というか怖いのです。
まだボリス様と仲良くしていたころ、ポリーナ様と騎士科の特別訓練を見学に行って訓練中の皆様の雄叫びを聞いて怯えてしまいました。以来、水を浴びた後のボリス様達を拭くための布を持って訓練場所から離れた場所で待つようになったのでした。
ポリーナ様とふたり、未来の貴族家の夫人として情けないと嘆き合ったものです。
夫がいないときに領内の騎士や兵士を鼓舞するのも貴族家の夫人の大切な役目なのですから。
ですが、目の前の男性の動きはとても美しく、私はいつしか見惚れてしまっていたのでした。レナート様に襲われたことへの恐怖も消えていきます。
やがて、男性が手を離すとレナート様はその場に崩れ落ちました。
体に力が入らないらしく、自力では立ち上がれないようです。
ギリオチーナ王女殿下の側にいるときは美しく取り澄ましていた彼が、泥だらけで呻いています。
「ううっ。痛い、動けない……俺になにをしたんだ」
「腱を切ったり骨を外したり、いろいろです。早く治療しないと元に戻りませんよ。君は王女の護衛だったのでしょう? 外された骨くらいは自分で嵌め込めないのですか? うちの息子でもできますよ」
「そんなこと知るもんか。俺はギリオチーナの機嫌さえ取ってれば良かったんだ。頼む。学園の救護室へ運んでくれ」
「か弱い女性を襲うような騎士道のかけらもない人間にかける情けはありませんよ。後で学園の人間に報告しておきます。不審者がいましたよ、って。私にはこのご令嬢を安全なところへお連れする役目があるし、ほかにも用事がありますから、報告するまで間が空いてしまうかもしれませんけど」
地面に座り込んでいた私に、男性が手を差し伸べてくださいました。
正面から見つめると、知っている方にとてもよく似ています。
あの方はご兄弟はいないとおっしゃっていました。目の前の男性が父と同年代だとはとても思えないのですけれど、
「ありがとうございました。もしかしてイヴァン様のお父様ですか?」
「はい。私も貴女のことを存じていますよ。エゴロフ伯爵家のリュドミーラ嬢でいらっしゃいますね。その節は息子がお世話になりました」
「こちらこそ。初めまして、アダモフ子爵」
手を引いて立たせていただいたので、私は男性にカーテシーをさせていただきました。
アダモフ子爵は私の言葉を聞いて、少しだけ不思議そうな顔になります。
「子爵?……ああ、そうでしたね」
先ほど『我がアダモフ大公家』と聞こえましたが、アダモフ子爵家はおそらくアダモフ大公家の血縁なのでしょう。
国によってさまざまですけれど、我が国と隣国では高位貴族が複数の爵位を有するのは当たり前のことで、余裕があれば次男三男ときには令嬢がふたつ目以降の爵位を受け継ぐことがあります。
アダモフ子爵は優しく微笑みました。そのお顔はイヴァン様をそのまま年を取らせたようにそっくりで、それでいて彼よりも艶っぽく感じました。
カーテシーの後で再び手を伸ばされて、私は子爵にエスコートされてポリーナ様のもとへ向かうことになりました。
子爵の所作はとても優美で、なんだかこれから夜会へでも行くような気分です。
背後からはレナート様の呻き声が聞こえてきます。
「……あのう……」
「なんですか、リュドミーラ嬢」
「あのままではあんまりなので、ポリーナ様のところへ着いたら、レナート様のところへだれかを向かわせてもよろしいでしょうか。アダモフ子爵はお忙しいでしょうが、私が教員に頼むのは良いですよね?」
子爵は目を見開きました。
その瞳は、イヴァン様と同じ琥珀色です。
「あなたを襲った男ですよ?」
「もちろん罪は罪として罰を受けていただきます。けれど罪人だからと言って、怪我を治療せずに放置するのは違うと思うのです」
「彼が怖くはないのですか?」
「襲われたときは怖かったです。でも……アダモフ子爵の戦う姿の美しさに見惚れていたら、いつの間にか恐怖を忘れていました」
ふっ、と子爵は微笑みました。とても優しい笑みです。
彼の用事は隣国の大公家とギリオチーナ王女殿下の婚約解消に関することだそうです。
やはり王女殿下とボリス様が結ばれることになって、自棄になったレナート様がだれかれなしに八つ当たりしようとしての襲撃だったのでしょう。
「息子に聞いていましたが、リュドミーラ嬢は本当に愛らしい方ですね。出会ったころの亡き妻を思い出します。その深い焦げ茶色の髪も青玉よりも澄んだ瞳も本当にお美しい」
「ありがとうございます」
初めて会ったイヴァン様のお父様は、とても褒め上手な方でした。
レナート様がどんなに暴れても男性の腕から逃れることはできません。
突然現れた男性は私の父と兄の中間くらいの年齢に見えました。
かなりの長身で、しなやかな体躯を仕立ての良い服で包んでいます。
「もっとも母親そっくりの彼女が、絶対に問題を起こすと見込んでの婚約だったから予想通りではあるのですが。いくら愛しい妻の冤罪を晴らすためとはいえ、彼女の遺した愛しい息子を犠牲にするわけにはいきませんものね」
額を見せる型に整えられた前髪から乱れて落ちた、ひと筋の艶やかな黒髪が風に揺れています。微笑を浮かべた男性の骨ばった長い指が、暴れるレナート様の両手を掴んでいます。そして彼の動きに合わせて、ご自身も体を動かし始めました。
その優雅な動きはまるで踊りのようなのに、ひとつの動作ごとにレナート様が叫び声を上げます。
どうやら踊っているのではなく攻撃しているらしいです。
私は暴力が嫌いです。
仕方がないこともあるとわかっていても嫌い……というか怖いのです。
まだボリス様と仲良くしていたころ、ポリーナ様と騎士科の特別訓練を見学に行って訓練中の皆様の雄叫びを聞いて怯えてしまいました。以来、水を浴びた後のボリス様達を拭くための布を持って訓練場所から離れた場所で待つようになったのでした。
ポリーナ様とふたり、未来の貴族家の夫人として情けないと嘆き合ったものです。
夫がいないときに領内の騎士や兵士を鼓舞するのも貴族家の夫人の大切な役目なのですから。
ですが、目の前の男性の動きはとても美しく、私はいつしか見惚れてしまっていたのでした。レナート様に襲われたことへの恐怖も消えていきます。
やがて、男性が手を離すとレナート様はその場に崩れ落ちました。
体に力が入らないらしく、自力では立ち上がれないようです。
ギリオチーナ王女殿下の側にいるときは美しく取り澄ましていた彼が、泥だらけで呻いています。
「ううっ。痛い、動けない……俺になにをしたんだ」
「腱を切ったり骨を外したり、いろいろです。早く治療しないと元に戻りませんよ。君は王女の護衛だったのでしょう? 外された骨くらいは自分で嵌め込めないのですか? うちの息子でもできますよ」
「そんなこと知るもんか。俺はギリオチーナの機嫌さえ取ってれば良かったんだ。頼む。学園の救護室へ運んでくれ」
「か弱い女性を襲うような騎士道のかけらもない人間にかける情けはありませんよ。後で学園の人間に報告しておきます。不審者がいましたよ、って。私にはこのご令嬢を安全なところへお連れする役目があるし、ほかにも用事がありますから、報告するまで間が空いてしまうかもしれませんけど」
地面に座り込んでいた私に、男性が手を差し伸べてくださいました。
正面から見つめると、知っている方にとてもよく似ています。
あの方はご兄弟はいないとおっしゃっていました。目の前の男性が父と同年代だとはとても思えないのですけれど、
「ありがとうございました。もしかしてイヴァン様のお父様ですか?」
「はい。私も貴女のことを存じていますよ。エゴロフ伯爵家のリュドミーラ嬢でいらっしゃいますね。その節は息子がお世話になりました」
「こちらこそ。初めまして、アダモフ子爵」
手を引いて立たせていただいたので、私は男性にカーテシーをさせていただきました。
アダモフ子爵は私の言葉を聞いて、少しだけ不思議そうな顔になります。
「子爵?……ああ、そうでしたね」
先ほど『我がアダモフ大公家』と聞こえましたが、アダモフ子爵家はおそらくアダモフ大公家の血縁なのでしょう。
国によってさまざまですけれど、我が国と隣国では高位貴族が複数の爵位を有するのは当たり前のことで、余裕があれば次男三男ときには令嬢がふたつ目以降の爵位を受け継ぐことがあります。
アダモフ子爵は優しく微笑みました。そのお顔はイヴァン様をそのまま年を取らせたようにそっくりで、それでいて彼よりも艶っぽく感じました。
カーテシーの後で再び手を伸ばされて、私は子爵にエスコートされてポリーナ様のもとへ向かうことになりました。
子爵の所作はとても優美で、なんだかこれから夜会へでも行くような気分です。
背後からはレナート様の呻き声が聞こえてきます。
「……あのう……」
「なんですか、リュドミーラ嬢」
「あのままではあんまりなので、ポリーナ様のところへ着いたら、レナート様のところへだれかを向かわせてもよろしいでしょうか。アダモフ子爵はお忙しいでしょうが、私が教員に頼むのは良いですよね?」
子爵は目を見開きました。
その瞳は、イヴァン様と同じ琥珀色です。
「あなたを襲った男ですよ?」
「もちろん罪は罪として罰を受けていただきます。けれど罪人だからと言って、怪我を治療せずに放置するのは違うと思うのです」
「彼が怖くはないのですか?」
「襲われたときは怖かったです。でも……アダモフ子爵の戦う姿の美しさに見惚れていたら、いつの間にか恐怖を忘れていました」
ふっ、と子爵は微笑みました。とても優しい笑みです。
彼の用事は隣国の大公家とギリオチーナ王女殿下の婚約解消に関することだそうです。
やはり王女殿下とボリス様が結ばれることになって、自棄になったレナート様がだれかれなしに八つ当たりしようとしての襲撃だったのでしょう。
「息子に聞いていましたが、リュドミーラ嬢は本当に愛らしい方ですね。出会ったころの亡き妻を思い出します。その深い焦げ茶色の髪も青玉よりも澄んだ瞳も本当にお美しい」
「ありがとうございます」
初めて会ったイヴァン様のお父様は、とても褒め上手な方でした。
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