離縁を告げに

豆狸

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後編 唇を重ねるだけのキスを

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 私が初めて唇を重ねるだけのキスをしたのは、もちろん婚約者のファティマとだった。
 一度だけではない。百回近くしている。

 頭でっかちな子どもだった私は本で読んだ『婚約者はキスするもの』という文章を鵜呑みにして、彼女にキスを迫ったのだ。
 家族とは頬やおでこによくキスしていたから、ふたりとも抵抗はなかった。
 十歳にも満たない子どもが重ねるだけとはいえ唇のキスを繰り返していたのに気づいた執事が青くなって双方の両親に報告し、私達は唇へのキスを禁じられた。

 次に唇へのキスをしたのは、学園の入学式からの帰り道だった。
 首席で入学したことを褒め称えられて、ご褒美にキスが欲しいとおねだりしたのだ。
 キスをしながら私は次の日からの生活を夢見ていた。治安が良く、世間知らずの貴族子女だけでも散策できる学園周りの商店街で、ファティマと買い物したりお茶したりして婚約者らしく過ごす生活だ。

 生徒会の活動があれほど忙しくなければ、ティナになど近寄らなければ、未来は変わっていたのだろうか。
 結局私がファティマと買い物やお茶に出かけることはなかった。
 休みの日まで生徒会活動でひとり登校して、彼女に心配されていた。パーティのときの贈り物も自分で選んだものではなく店に任せ、卒業近くには贈ることすらしなくなった。ティナへの裏切りのように感じたからだ。……本当に大切にするべきは、婚約者であるファティマだったのに。

「坊ちゃま、お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」

 私は先日、ファティマとソウザ辺境伯の結婚式に行ってきた。
 もちろん招かれてはいない。大広場の神殿でおこなわれている式を遠目で眺めただけだ。ファティマはとても幸せそうだった。
 彼女の幸せを喜びながらも、私の心臓は破れて血を流していた。あの日、ふたりのキスを見て感じたのは、やはり嫉妬だったようだ。

 私はファティマを愛している。ティナと第二王子の最中の声を聞いたときだって、こんな気持ちにはならなかった。
 ティナへの想いに関しては、恋に恋していた、というのが正しい。
 それを見抜かれていたから私は無罪になったのだろうか。

 そういえば、結婚式の前にソウザ辺境伯から手紙が届いた。
 彼はどこかの娼館でティナを目撃したことがあり、それで彼女を警戒していたらしい。信じてもらえないと思って言わなかった、すまないと記されていたが、確かにあのころ言われても信じなかったと思う。どうしようもないことだ。
 ティナの処刑は結局見に行かなかった。彼女への興味自体が、気がつくと消えていたのだ。

「……?」

 執事の持ってきてくれたお茶を飲んで、私は首を傾げた。
 フィーゴ伯爵家で飲んだのと同じ味がする。
 結婚を機にバーレト子爵として独立して侯爵邸から引っ越した我が家で飲むお茶は、もっと美味しかったはずなのに。執事を見つめると、彼は悲し気に首を振った。

「申し訳ありません、坊ちゃま。ファティマ様が坊ちゃまの好みや体質を考えて調合してくださっていたお茶は、もうなくなってしまいました。去年までは坊ちゃまの誕生日に贈って来てくださっていたのですが」
「そうか……」

 仕方がないな、と私は微笑んだ。
 執事には、流行病で亡くなっていなければファティマと同じ年ごろの娘がいた。彼は私とファティマの結婚をだれよりも喜んでくれていた。
 彼が私を坊ちゃまと呼ぶと、ファティマが苦笑して『旦那様ですよ』と言う。ファティマに言われた執事は、少し嬉しそうに微笑んで言い直す。ほんの数日だが、そんな日常も過ごしていた。

 もしあの日離縁を告げにフィーゴ伯爵邸へ行かなかったら、私は今もファティマを妻だと思い込んで暮らしていたのだろうか、そう思いながら飲んだお茶はなぜか涙の味がした。
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