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第七話 過去

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 王都にあるチトフ子爵邸で開かれた子どもだけのお茶会で、イーゴリとニーナは出会った。もちろんそれぞれの家のメイドや従者が離れたところで見守っている状態でだ。
 読書が趣味のふたりは話が合った。
 あまり裕福とは言えないデニソフ伯爵家の令嬢であるニーナは自分が持っていない本の話を聞かされて、琥珀のような茶色い瞳を輝かせた。いつまでも話は弾み、彼女に気を許したイーゴリはつい聞いてしまった。

「……ねえ、お化けが出たら君はどうする?」
「お化け? イーゴリ様はお化けのせいで眠れないのですか?」

 ニーナが心配そうな顔で見つめてくる。
 イーゴリの目の下に刻まれた年齢に見合わない隈を案じているのだろう。

「うん。……いや、本当にお化けがいるわけじゃないんだ。いないんだけどお化けがいるような気がして、怖くなっちゃうことってないかい?」

 言いながら、イーゴリは無意識に自分の首を指で辿る。
 父の愛人、白金プラチナの髪に青い瞳の美しい女がナイフを当てた場所だ。薄皮一枚斬られた痕跡はもう残っていない。
 あの女自身ももうこの世にはいない。

 だけどイーゴリは彼女を見てしまう。
 夜の暗闇に、廊下の角の向こう側に、揺れたカーテンの隙間から覗く窓の外に。
 眠れない夜が続いて、そのうち食事や水も喉を通らなくなって、母に抱き着いて泣きじゃくることしか出来なくなったイーゴリを案じて開催されたのが、このお茶会だった。

 確かに気分転換になった。
 そしてイーゴリにも見栄があった。
 年の近い子ども達の前で母に抱き着いて泣きじゃくることは出来ない。なんとかお茶を喉に流し込めば、自然とお菓子も口に運べた。

 だからこそ怖くなった。
 今夜もイーゴリはあの女を見るかもしれない。瞳に映ってなどいないのに、そこにいると感じてしまうかもしれない。
 今日の楽しい思い出もすべて恐怖に溶けてしまうかもしれない。

 彼女と出会ったことを忘れたくないと、イーゴリはニーナを見つめた。
 陽光を浴びて煌めく蜂蜜色の髪を揺らして、彼女は微笑んだ。
 名案を思いついたという顔だ。話して楽しいだけだと思っていたけれど、このときイーゴリはニーナを可愛いと感じた。

「明日のことを考えます!」
「明日のこと?」
「あ、もしかしてお化けだからと言って夜に出るのではないですか?」
「……ううん、そうだよ。お化けは夜に出る」

 本当は昼間でも『いるような』気持ちになってしまう毎日だったけれど、イーゴリはそれを隠すことにした。
 一日中お化けに怯えている男だなんて、ニーナに思われたくはなかった。

「明日の楽しいことを考えたら、お化けなんて消えてしまうと思います」
「そうか。……ねえニーナ嬢。君は、明日もうちへ遊びに来てくれる?」
「え?」

 明日の約束は無理だったが、その日イーゴリはニーナに本を貸した。
 白い女の存在を感じそうになったときは、いつかニーナと会って本の感想を聞けると思うことで恐怖を打ち消すことが出来た。
 恐怖が生み出す幻は、蜂蜜色の髪の毛で琥珀色の瞳の少女との逢瀬で消えていった。

 イーゴリの心が回復したことを喜んだチトフ女子爵は、身分の高さを笠に着て援助目当てに押し付けたと思われる、とデニソフ伯爵家に拒まれてもイーゴリとニーナの婚約を頼み続けた。
 やがてデニソフ伯爵家が折れて、イーゴリとニーナは婚約者になった。
 そのころになると、もう白い女のことを思い出すこともなくなっていた。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「……ニーナ……」

 チトフ女子爵は愚かな息子イーゴリと原因を作った夫を家から追い出したのだが、だからといって非情に徹することの出来る女性ではなかった。
 彼女はふたりに下町の家としばらくの生活費を与えていた。
 とはいえ、あくまで『しばらく』の生活費だ。イーゴリは将来を考えて荷運びなどの日雇いの仕事を始めていた。

 イーゴリは読み書き計算が出来るので日雇いの仕事で真面目に働いていたら、いつかは安定した商家の下働きの仕事を紹介してもらえるかもしれない。
 商人の中にはチトフ子爵子息としてのイーゴリを知る者もいるだろうけれども、自分がこの現状を引き寄せたのだから白い目で見られても仕方がないとイーゴリは思っている。
 今日のイーゴリは下町の路地裏で壁にもたれ、元婚約者の名前を呼んでいた。どんなに名前を呼んでも、もう二度と会うことが出来ないのはわかっている。

 婚約解消が決まって母に昔のことを話されたとき、イーゴリは過去のことだと思った。
 もう済んだことだし、母親に殺されかけたといっても娘のフェーヤに罪はない。
 ニーナに悪いと思う気持ちは多少あったけれど、イーゴリは初恋の相手と再会するという運命的な出来事に酔っていた。

 しかし、『今』は過去からつながっているものだ。
 どんな辛い過去でも簡単に切り離せるものではない。捨て去ることも消し去ることも本人の意思で出来るものではないのだ。
 済んだことのはずの過去は、忘れるなんて許さないとでも言いたげにイーゴリを追いかけてきた。
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