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第五話 返却
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「あれは自分に酔っていたわね」
私達四人はイーゴリ様達と別れて、馬車のところへ向かっていました。
学園内では使用人の同行が禁じられているので、メイドや従者は馬車で待っています。
タチアナ様が発した言葉に、ヴラジーミル様が答えます。
「イーゴリは物語にのめり込むところがあったからね。初恋の相手と再会出来た自分を『そよ風の戦記』の主役と重ね合わせてるんじゃないかな」
「だからと言って婚約者のニーナ嬢にあんな真似をしていいということにはならない。……大丈夫か、ニーナ嬢」
「はい。心配してくださってありがとうございます」
私はミハイル様に頷きました。
さっきイーゴリ様にぶたれた頬には、ミハイル様が貸してくださった濡れた布が当てられています。
自分のハンカチは刺しゅうが多過ぎて使い辛かったのです。私の読書と並ぶもうひとつの趣味は刺しゅうなのです。本よりも刺しゅう糸のほうが安いので、読む本がないときは刺しゅうばかりしています。
「その布はいらなくなったら捨ててくれたのでいいから」
「そんな! きちんと洗ってお返ししますわ」
「……そうか。すまない」
ヴラジーミル様が溜息を漏らします。
「これからどうするつもりなのかね、イーゴリは」
「あの女と結ばれて初恋を成就するつもりなんじゃないの?」
「お花畑な夢だな」
「……」
イーゴリ様にぶたれて婚約破棄を宣言され、私はそれを受け入れました。
でも貴族の婚約は家と家で結ばれるものです。
当人の勝手な感情でどうにか出来るものではありません。それに本当にイーゴリ様と私の婚約が破棄されてしまったら、デニソフ伯爵家へのチトフ子爵家からの援助が止まってしまいます。私のせいで領民を苦しめることになるのです。
一番被害が少なく現実的な未来は、私と結婚したイーゴリ様があの転校生を愛人にするというものでしょう。
伯爵家のことを思えば受け入れるしかないのですが、イーゴリ様がそれを受け入れてくださるでしょうか。
チトフ子爵家はデニソフ伯爵家を必要としていないかもしれません。
三人と別れた私は、馬車の御者に命じてチトフ子爵家へ向かいました。
イーゴリ様達は私達が去った後も学園内に残っていました。
先触れもなしに訪れるのは失礼なことですけれど、イーゴリ様と顔を合わせなくて良い状態で『そよ風の戦記』の三巻を返却しておきたかったのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「ニーナ義姉様!」
子爵家の応接室へ通されると、イーゴリ様の年の離れた弟であるトーレチカ様に歓迎されました。
トーレチカ様はタチアナ様の妹のサーシャ様と同い年です。
子どもだけのお茶会などで会ってから幼いながらも憎からず想い合っているようなのですが、トーレチカ様は次男でサーシャ様は次女、おふたりとも継ぐ家がありません。今のところ、おふたりが結ばれる未来はないのでした。
「『そよ風の戦記』の新しいのはもう読みましたか? 最近兄様が構ってくれないので、せっかく読んだのにだれとも感想を話し合えなかったんです。今日は遅くなっても大丈夫ですか?」
トーレチカ様は幼いけれど本を読むのが速いので、イーゴリ様が私に貸してくださる前に読んでいたのでしょう。
イーゴリ様は入り婿のお父様に似て美しく、トーレチカ様は女子爵であるお母様に似て頭脳明晰なのです。兄弟が力を合わせれば、チトフ子爵家の未来は安泰でしょう。
応接室の長椅子に座ったイーゴリ様のお母様が苦笑を浮かべます。
「ニーナが困っていますよ、トーレチカ。少しお待ちなさい。……急にどうしたの、ニーナ」
「すいません、突然」
「未来の娘なのだから気にしなくても良いのよ。……ちょっと待って。その頬はどうしたの?」
「赤くなってます」
「……」
「トーレチカ。お母様はニーナと話があるので、あなたは自分のお部屋に戻っていなさい」
「えー。僕もニーナ義姉様とお話がしたいです」
「大事なお話なの」
「はーい。ニーナ義姉様、お時間があったらお話してくださいね」
トーレチカ様がいなくなると、チトフ女子爵は溜息をついてお尋ねになりました。
「その頬。もしかして、イーゴリが?」
「はい。でも、あの……いろいろ誤解があったんです。イーゴリ様を責めないでください」
「ねえ、ニーナ。最近、私の耳にも良くない噂が入ってきているの。あの子があなたを無視して、転校生とばかり過ごしているというのは本当なのかしら?」
「……」
「あなたはおとなしい子だものね。こちらでイーゴリを締め上げておけば良かったわ。今日戻ってきたら叱って、あなたのところへも謝罪に行かせるわね」
「……申し訳ございません、お義母様。いいえ、チトフ女子爵とお呼びしたほうが良いかもしれません。私はイーゴリ様に婚約を破棄されました。今日はお借りしていた本を返却しに来たのです」
私達四人はイーゴリ様達と別れて、馬車のところへ向かっていました。
学園内では使用人の同行が禁じられているので、メイドや従者は馬車で待っています。
タチアナ様が発した言葉に、ヴラジーミル様が答えます。
「イーゴリは物語にのめり込むところがあったからね。初恋の相手と再会出来た自分を『そよ風の戦記』の主役と重ね合わせてるんじゃないかな」
「だからと言って婚約者のニーナ嬢にあんな真似をしていいということにはならない。……大丈夫か、ニーナ嬢」
「はい。心配してくださってありがとうございます」
私はミハイル様に頷きました。
さっきイーゴリ様にぶたれた頬には、ミハイル様が貸してくださった濡れた布が当てられています。
自分のハンカチは刺しゅうが多過ぎて使い辛かったのです。私の読書と並ぶもうひとつの趣味は刺しゅうなのです。本よりも刺しゅう糸のほうが安いので、読む本がないときは刺しゅうばかりしています。
「その布はいらなくなったら捨ててくれたのでいいから」
「そんな! きちんと洗ってお返ししますわ」
「……そうか。すまない」
ヴラジーミル様が溜息を漏らします。
「これからどうするつもりなのかね、イーゴリは」
「あの女と結ばれて初恋を成就するつもりなんじゃないの?」
「お花畑な夢だな」
「……」
イーゴリ様にぶたれて婚約破棄を宣言され、私はそれを受け入れました。
でも貴族の婚約は家と家で結ばれるものです。
当人の勝手な感情でどうにか出来るものではありません。それに本当にイーゴリ様と私の婚約が破棄されてしまったら、デニソフ伯爵家へのチトフ子爵家からの援助が止まってしまいます。私のせいで領民を苦しめることになるのです。
一番被害が少なく現実的な未来は、私と結婚したイーゴリ様があの転校生を愛人にするというものでしょう。
伯爵家のことを思えば受け入れるしかないのですが、イーゴリ様がそれを受け入れてくださるでしょうか。
チトフ子爵家はデニソフ伯爵家を必要としていないかもしれません。
三人と別れた私は、馬車の御者に命じてチトフ子爵家へ向かいました。
イーゴリ様達は私達が去った後も学園内に残っていました。
先触れもなしに訪れるのは失礼なことですけれど、イーゴリ様と顔を合わせなくて良い状態で『そよ風の戦記』の三巻を返却しておきたかったのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「ニーナ義姉様!」
子爵家の応接室へ通されると、イーゴリ様の年の離れた弟であるトーレチカ様に歓迎されました。
トーレチカ様はタチアナ様の妹のサーシャ様と同い年です。
子どもだけのお茶会などで会ってから幼いながらも憎からず想い合っているようなのですが、トーレチカ様は次男でサーシャ様は次女、おふたりとも継ぐ家がありません。今のところ、おふたりが結ばれる未来はないのでした。
「『そよ風の戦記』の新しいのはもう読みましたか? 最近兄様が構ってくれないので、せっかく読んだのにだれとも感想を話し合えなかったんです。今日は遅くなっても大丈夫ですか?」
トーレチカ様は幼いけれど本を読むのが速いので、イーゴリ様が私に貸してくださる前に読んでいたのでしょう。
イーゴリ様は入り婿のお父様に似て美しく、トーレチカ様は女子爵であるお母様に似て頭脳明晰なのです。兄弟が力を合わせれば、チトフ子爵家の未来は安泰でしょう。
応接室の長椅子に座ったイーゴリ様のお母様が苦笑を浮かべます。
「ニーナが困っていますよ、トーレチカ。少しお待ちなさい。……急にどうしたの、ニーナ」
「すいません、突然」
「未来の娘なのだから気にしなくても良いのよ。……ちょっと待って。その頬はどうしたの?」
「赤くなってます」
「……」
「トーレチカ。お母様はニーナと話があるので、あなたは自分のお部屋に戻っていなさい」
「えー。僕もニーナ義姉様とお話がしたいです」
「大事なお話なの」
「はーい。ニーナ義姉様、お時間があったらお話してくださいね」
トーレチカ様がいなくなると、チトフ女子爵は溜息をついてお尋ねになりました。
「その頬。もしかして、イーゴリが?」
「はい。でも、あの……いろいろ誤解があったんです。イーゴリ様を責めないでください」
「ねえ、ニーナ。最近、私の耳にも良くない噂が入ってきているの。あの子があなたを無視して、転校生とばかり過ごしているというのは本当なのかしら?」
「……」
「あなたはおとなしい子だものね。こちらでイーゴリを締め上げておけば良かったわ。今日戻ってきたら叱って、あなたのところへも謝罪に行かせるわね」
「……申し訳ございません、お義母様。いいえ、チトフ女子爵とお呼びしたほうが良いかもしれません。私はイーゴリ様に婚約を破棄されました。今日はお借りしていた本を返却しに来たのです」
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