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第三話 かっぱっぱ
10・あのころとは違うから
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田舎町へ着いたころにはすっかり暗くなっていたので、わたしと忍野くんは駅前の喫茶店で夕食を摂った。
暗いのは夜だからだけではなく、空は分厚い雲に覆われているようだった。
天気予報によると、日曜日は雨になるらしい。
片桐さんは明日も撮影だと言っていたっけ。……大丈夫かな?
押野君にアパートまで送ってもらって、畳でゴロゴロしながらスマホを眺める。
しばらくすると、まるでどこかから見ていたかのように着信音が鳴り響いた。
案の定招木さんからの電話だった。
「招木さん!」
「ご自宅ですよね? 忍野くんが車を返しに来たのでお電話してみました」
「……今日みたいなのはダメですよー」
「普通に頼んだら承知してくれましたか?」
「しませんけど! でも俳優忍野薫の経歴に傷がつくようなことはダメです! 高校時代の忍野くんは毎日のように女性のところから登校してて、遅刻しない日はなかったですけど、役者のお仕事で遅刻したらお終いじゃないですか」
そうなのよね。
この前茜ちゃんと電話したときに、あのころの忍野くんに対する誤解があったと気づいたものの、よく考えたらやっぱり女性関係滅茶苦茶だったのよ。
まあ、それで俳優忍野薫の価値が落ちるわけではないけど。
ないけど……週刊誌にすっぱ抜かれたら、昔のことでもヤバそうだな。
ぐぬぬ、忍野くんめ。
熱くなるわたしと対照的に、招木さんは相変わらず落ち着いた感じだ。
「だからちゃんと入り時間を早めに伝えておきましたよ」
「そういう問題じゃありません。この前から、どうして忍野くんを後押ししようとしてるんです。もしかして忍野くんの面倒見るのに疲れたんですか?」
「忍野くんはうちの事務所でも古株なので、普段はほとんどひとりで行動してます。スケジュールも本人が完ぺきに把握してますし、仕事相手としては手のかからない優等生ですよ。最近はスキャンダルの心配もいりませんしね」
「……今の忍野くんは勘違いしてるだけなので、もし本当にわたしとつき合い出したら元に戻るだけですよ」
「そうですかねえ?」
かすかな笑い声の後、招木さんが尋ねてきた。
「裏川さん、今日は楽しかったですか?」
「そりゃ楽しかったですよ。俳優忍野薫のいろんな演技が見れましたからね。招木さんも絶対来たほうが良かったです!」
今日見学したときのことをブログに書けないのが残念だった。
あ、片桐さんにメールしたらいいのか。
河童同士の会話はお互いに熱く語るだけで言葉のキャッチボールにならない自信があるけれど、メールはちゃんと読むつもりだ。
きっと読んでいくうちに、見学したときのことが頭に蘇ると思う。
招木さんに片桐さんのことは……言わないほうがいいかな。
ヨソの俳優さんのことだものねえ。
雑誌の取材はひとりずつだったから片桐さんがインタビューになんて答えたのかわからないけど、忍野くんへの質問から考えて、尊敬する役者がいるかどうかは間違いなく聞かれているだろう。
河童二号の情熱からすると、正直に俳優忍野薫だと答えているはずだ。
そのインタビューが雑誌に掲載されたら、招木さんにも彼のことを教えよう。
なんて考えていたら──
「高校のときのことを思い出しましたか?」
招木さんから投げかけられた奇妙な質問に、わたしは首を傾げながら答えた。
「……はあ。そうですね、帰りの車の中で高校のときの忍野くんが男性のファンはいらないって言ってたこと思い出しましたよ」
「そんなこと言ってたんですか?」
「そうなんですよ。本当は女性のファンも……顔目当てのファンはいらないとかほざいてました。顔目当てでもいいじゃないですか。俳優忍野薫の演技を見たら、だれだって本当のファンになってくれるのに! まあ好みがあるから全員は無理かもしれませんけど、でも俳優忍野薫の演技は絶対心に残るのに」
車の中で忍野くんに言ったのと、ほとんど同じ言葉を繰り返す。
スマホの向こうの招木さんが、優しい声で言う。
「裏川さんは本当に忍野くんが好きなんですね」
「好きですよ。あ、でも忍野くんじゃなくて俳優忍野薫を、ですけど」
「同じですよ」
「……同じじゃありません」
いつも言ってることなのに、なんだか声が強張ってしまった。
それは招木さんの声があくまでも優しく、押しつけるような雰囲気ではなかったからかもしれない。
彼の、同じですよ、という言葉に頷いてしまいそうになったのだ。
そんなこと、ないのに。
俳優忍野薫と高校の同級生だった忍野くんは別人なのに。
少なくともわたしにとっては、同じ人間ではないのに。
「今日はすみませんでした。忍野くんって要領がいいように見えて、不器用なところがあるでしょう? 長年見守っているうちに情が沸いて、いらないお節介をしてしまいました」
「招木さんが忍野くんを大切に思っているのはわかってますし、俳優忍野薫のためにも嬉しいですけど……」
「はい。本当にすみませんでした」
もう今日のような真似はしないと約束してくれて、招木さんは電話を切った。
……ああ、そっか。
招木さんとの電話が終わった後も畳の上を転がりながら、わたしは思った。
高校のころ、わたしは演劇部ではなかったけれど、裏庭で稽古する忍野くんを見ることができた。
舞台の上の完成された演技ではなく、発展途上の演技を。
本当は舞台も初日と千秋楽では変わっているんだけど、舞台での変化は同じ方向で完成度を高めていくものだから、稽古のときの変化とは違う。
ほんのり懐かしさを感じたとき、なぜか胸が少し痛んだ。
暗いのは夜だからだけではなく、空は分厚い雲に覆われているようだった。
天気予報によると、日曜日は雨になるらしい。
片桐さんは明日も撮影だと言っていたっけ。……大丈夫かな?
押野君にアパートまで送ってもらって、畳でゴロゴロしながらスマホを眺める。
しばらくすると、まるでどこかから見ていたかのように着信音が鳴り響いた。
案の定招木さんからの電話だった。
「招木さん!」
「ご自宅ですよね? 忍野くんが車を返しに来たのでお電話してみました」
「……今日みたいなのはダメですよー」
「普通に頼んだら承知してくれましたか?」
「しませんけど! でも俳優忍野薫の経歴に傷がつくようなことはダメです! 高校時代の忍野くんは毎日のように女性のところから登校してて、遅刻しない日はなかったですけど、役者のお仕事で遅刻したらお終いじゃないですか」
そうなのよね。
この前茜ちゃんと電話したときに、あのころの忍野くんに対する誤解があったと気づいたものの、よく考えたらやっぱり女性関係滅茶苦茶だったのよ。
まあ、それで俳優忍野薫の価値が落ちるわけではないけど。
ないけど……週刊誌にすっぱ抜かれたら、昔のことでもヤバそうだな。
ぐぬぬ、忍野くんめ。
熱くなるわたしと対照的に、招木さんは相変わらず落ち着いた感じだ。
「だからちゃんと入り時間を早めに伝えておきましたよ」
「そういう問題じゃありません。この前から、どうして忍野くんを後押ししようとしてるんです。もしかして忍野くんの面倒見るのに疲れたんですか?」
「忍野くんはうちの事務所でも古株なので、普段はほとんどひとりで行動してます。スケジュールも本人が完ぺきに把握してますし、仕事相手としては手のかからない優等生ですよ。最近はスキャンダルの心配もいりませんしね」
「……今の忍野くんは勘違いしてるだけなので、もし本当にわたしとつき合い出したら元に戻るだけですよ」
「そうですかねえ?」
かすかな笑い声の後、招木さんが尋ねてきた。
「裏川さん、今日は楽しかったですか?」
「そりゃ楽しかったですよ。俳優忍野薫のいろんな演技が見れましたからね。招木さんも絶対来たほうが良かったです!」
今日見学したときのことをブログに書けないのが残念だった。
あ、片桐さんにメールしたらいいのか。
河童同士の会話はお互いに熱く語るだけで言葉のキャッチボールにならない自信があるけれど、メールはちゃんと読むつもりだ。
きっと読んでいくうちに、見学したときのことが頭に蘇ると思う。
招木さんに片桐さんのことは……言わないほうがいいかな。
ヨソの俳優さんのことだものねえ。
雑誌の取材はひとりずつだったから片桐さんがインタビューになんて答えたのかわからないけど、忍野くんへの質問から考えて、尊敬する役者がいるかどうかは間違いなく聞かれているだろう。
河童二号の情熱からすると、正直に俳優忍野薫だと答えているはずだ。
そのインタビューが雑誌に掲載されたら、招木さんにも彼のことを教えよう。
なんて考えていたら──
「高校のときのことを思い出しましたか?」
招木さんから投げかけられた奇妙な質問に、わたしは首を傾げながら答えた。
「……はあ。そうですね、帰りの車の中で高校のときの忍野くんが男性のファンはいらないって言ってたこと思い出しましたよ」
「そんなこと言ってたんですか?」
「そうなんですよ。本当は女性のファンも……顔目当てのファンはいらないとかほざいてました。顔目当てでもいいじゃないですか。俳優忍野薫の演技を見たら、だれだって本当のファンになってくれるのに! まあ好みがあるから全員は無理かもしれませんけど、でも俳優忍野薫の演技は絶対心に残るのに」
車の中で忍野くんに言ったのと、ほとんど同じ言葉を繰り返す。
スマホの向こうの招木さんが、優しい声で言う。
「裏川さんは本当に忍野くんが好きなんですね」
「好きですよ。あ、でも忍野くんじゃなくて俳優忍野薫を、ですけど」
「同じですよ」
「……同じじゃありません」
いつも言ってることなのに、なんだか声が強張ってしまった。
それは招木さんの声があくまでも優しく、押しつけるような雰囲気ではなかったからかもしれない。
彼の、同じですよ、という言葉に頷いてしまいそうになったのだ。
そんなこと、ないのに。
俳優忍野薫と高校の同級生だった忍野くんは別人なのに。
少なくともわたしにとっては、同じ人間ではないのに。
「今日はすみませんでした。忍野くんって要領がいいように見えて、不器用なところがあるでしょう? 長年見守っているうちに情が沸いて、いらないお節介をしてしまいました」
「招木さんが忍野くんを大切に思っているのはわかってますし、俳優忍野薫のためにも嬉しいですけど……」
「はい。本当にすみませんでした」
もう今日のような真似はしないと約束してくれて、招木さんは電話を切った。
……ああ、そっか。
招木さんとの電話が終わった後も畳の上を転がりながら、わたしは思った。
高校のころ、わたしは演劇部ではなかったけれど、裏庭で稽古する忍野くんを見ることができた。
舞台の上の完成された演技ではなく、発展途上の演技を。
本当は舞台も初日と千秋楽では変わっているんだけど、舞台での変化は同じ方向で完成度を高めていくものだから、稽古のときの変化とは違う。
ほんのり懐かしさを感じたとき、なぜか胸が少し痛んだ。
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