そして、彼女は微笑んだ。

豆狸

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第三話 彼女は二度と戻らない。

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「エウドクシアは? エウドクシアはどうなったのだ? 無事なのだろう?」

 パナヨティスの問いに首を横に振り、弟王子は唇を開く。

「お亡くなりになりました。ならず者に穢されるよりは、と自死を選ばれたのです。伝書鳥が手紙を運んでくれました。異変に気づいて駆け付けたデュカキス王国のテオドロス陛下の腕の中で息を引き取られたとのことです」

 アントニュー王国とデュカキス王国は隣国で距離的に近い。
 婚礼の隊列ということでゆっくりと余裕をもって進んでいなければ、国境に面する侯爵領からだ、すぐデュカキス王国へ入っていたに違いない。
 違法奴隷市場に雇われるような荒事専門のならず者は、アントニュー王国の男爵家の息がかかったヒト族か麻薬で廃人と化した獣人だ。デュカキス王国で活動していたら、すぐに危険な奴らだと気づかれる。

「……嘘だろう?」
「いいえ、嘘ではありません」

 執務室の床に膝をついたことで視線が同じ位置になった弟王子にはっきりと言われても、パナヨティスはそれを受け入れられなかった。
 太陽の光のような金髪を振り乱して否定する。

「嘘だ嘘だ嘘だ、エウドクシアが死ぬはずがない!」

 パナヨティスの脳裏に最後に見たエウドクシアの姿が蘇った。
 婚約破棄を告げられて、泣きながらパナヨティスに縋りついてきた姿だ。
 とにかく他人を苦しめることが好きなクレマラ──男爵令嬢姉妹は麻薬で廃人となった獣人を甚振るのを趣味にしていたらしい──が、彼女を虐めた罪でエウドクシアを地下牢へ放り込めと囁いてきたけれど、さすがにそれは理不尽過ぎると感じて実行しなかった。

 侯爵領へ戻ったエウドクシアが新しい縁談を拒んで泣き暮らしていると聞いて、歪んだ悦びを感じると同時に胸が痛んだ。
 本当は知っていたのだ、間違っているのはパナヨティスのほうなのだと。婚約者を裏切った自分こそが罪人なのだと。
 なのに、まともな人間ならするはずのない浮気という罪を許された自分は特別な存在なのだと思ってしまった。だれにも許されてなどいなかったのに。

「いいえ、兄上」

 弟王子が首を横に振る。

「侯爵家のエウドクシア嬢はお亡くなりになりました。もう二度とお会いすることは出来ません」
「嘘だ!」
「嘘ではありません」

 嘘ではなかった。
 エウドクシアの死体すら戻ってこなかった。
 まだ婚礼の儀式は終わっていなかったけれど、隣国デュカキス王国のテオドロス王は彼女を自分の妻として月の女神の神殿に葬ったのだ。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「エウドクシアは? エウドクシアはどうなったのだ? 無事なのだろう?」

 パナヨティスの問いに頷き、弟王子は微笑んだ。

「はい。異変に気づいて駆け付けたデュカキス王国のテオドロス陛下の配下が、ならず者達を制してエウドクシア嬢をお救いになったとのことです。伝書鳥が手紙を運んでくれました」
「……そうか」

 弟王子の答えに、パナヨティスは一瞬違和感を覚えた。
 ここではないどこかで違う答えを聞いたような気がしたのだ。あれはもっと時間が過ぎた後、季節が移り変わったころだった。
 そう、だれかが泣き暮らして縁談を拒んでいたら、それくらいの時間が経っていたことだろう。隣国の満月の大祭もとっくに終わっていて──

 パナヨティスは頭を振った。

「兄上?」
「なんでもない。妙な妄想を振り捨てただけだ。……そうか。エウドクシアは、未来のデュカキス王国の妃殿下はご無事なのだな。本当に、本当に良かった……」
「兄上……」

 パナヨティスは両手で顔を覆った。
 流れ出る涙が止められない。しかし、これは悲しみではなく喜びの涙だ。
 もうエウドクシアと会うことはないだろう。王太子でなくなったパナヨティスが隣国の王妃と顔を合わせる機会などない。

 それでも、エウドクシアが生きているというだけでパナヨティスは嬉しかった。
 幸せになって欲しいと心から願っていた。
 パナヨティスは自分が婚約破棄を宣言した少女に恋をしていたのだ。

 彼女に恋をしたのはパナヨティスが婚約破棄を宣言した後だ。
 婚約者だった十二年間に育んだ情と好意は、クレマラとの関係に溺れている間に失ってしまっていた。
 ドレスの裾を翻して、自由な足取りで去っていくエウドクシアの微笑みに恋をしたのだ。だれかを想う色づいた頬に、婚約者パナヨティスの浮気に苦しんでいたころは失っていた光を取り戻した瞳に、抑えきれないときめきが笑みを形作る唇に──

(……エウドクシアはだれに恋をしていたのだろう)

 今のパナヨティスに彼女の変心を咎める資格などない。
 学園在学中に散々調べても、エウドクシアが不貞をしている証拠は見つからなかった。
 婚約破棄などしなければ、クレマラに心を移さなければ、十二年間で育んだ情と好意を大切にしていれば、あの笑みはパナヨティスに向けられていたのだとわかっている。

 彼女に恋してしまったがゆえに、パナヨティスはあのときの笑みが自分に向けられたものではないと気づいていた。
 二度と戻らない元婚約者の無事と失恋の痛み、アントニュー王国とデュカキス王国両国の友好がなんとか守られたことへの安堵を飲み込んで、パナヨティスはエウドクシアの幸せを祈った。
 振り捨てたはずの妄想の中、婚約破棄なんて嫌だとパナヨティスに縋り、いつかパナヨティスが迎えに来ると信じて縁談を拒んで泣き暮らしていたエウドクシアの姿に、ほんの少しだけの未練を残して。
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