たったひとつの愛を

豆狸

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第五話 控室への訪問者

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 ジェレミアに婚約破棄をされてから、アンナが姿を見せることはない。
 もっともディッタトゥーラは下働きだったので、本当は最初から王都公爵邸へ来たアンナが公爵夫人の教育を受けたり、婚約者との交流お茶会でジェレミアと話したりしている姿を見たことはなかった。
 虐められたと嘘をついたとき、どうとでも取れるようなあやふやな発言をしたのは、詳しく話してボロが出るのを防ぐためでもあった。

 この王国の貴族子女が通う学園は卒業しているので、ジェレミアとアンナの接点は完全に消えている。
 子爵家は下位貴族で、この公爵家は王家から分かれた高位貴族なので同じ貴族でも住む世界が違うのだ。
 ジェレミアに婚約破棄された子爵令嬢のアンナが、高位貴族のつどうお茶会や舞踏会へ現れることはない。

 王命で婚約した当時の公爵家が没落寸前でなければ、こんな身分差のある婚約が結ばれることはなかっただろう。
 本当は平民の自分とジェレミア公爵令息の身分差のほうが激しいのだが、それについてディッタトゥーラが思い悩むことはない。
 なぜなら──

(だってアタシは美しいんだもの! 男が夢中になるのは当たり前よね。ジェレミアと結婚したら、王族以外の女でアタシより身分の高い人間はいなくなるんだわ)

 そう思うと、胸の隅に引っかかっていたイザッコのことが消えて高揚感に満ちていく。
 虐められたと嘘をついて婚約破棄にまで追い込んだにもかかわらず、ディッタトゥーラは子爵令嬢の顔も知らないままだ。
 見たことがなくても、子爵令嬢は自分より劣った顔なのだということだけは信じていた。

 自分より美しい女などいるはずがない。
 ジェレミアの従妹だという王女だって大したことはないだろう。
 公爵夫人については、親世代だというだけで女性としては見ていなかった。王妃だってそうだ。この王国で一番美しく身分が高い女性オンナはディッタトゥーラなのだ。

(子爵令嬢が逆恨みして襲撃でもしてくるんじゃないかと思って心配してたけど、わきまえて泣き寝入りしたんなら良かったわ)

 婚約者を奪われたからって自分を恨むのは逆恨みも良いところだと、ディッタトゥーラは思う。
 ジェレミアを虜にしておけなかった、魅力のないアンナが悪いのだ。イザッコの女癖が悪かったのは犯罪組織に入って染まったせいで、ディッタトゥーラに魅力がなかったわけではない。
 鏡の中のディッタトゥーラはだれよりも美しかった。

「……ねえ」
「は、はい?」

 ディッタトゥーラを装わせてたメイドが怯えた声を上げる。
 この前むしゃくしゃしたときに殴りつけたからかもしれない。
 下町にいたころから、ディッタトゥーラは抵抗出来ない人間を痛めつけて楽しんでいた。逆らわれたときはイザッコや自分に夢中の男達の存在を脅しに使って黙らせた。公爵家に嫁ぐことで下町とは縁が切れるので、これからの憂さ晴らしの道具はメイド達だ。

「アタシ付きのメイドってふたりいたわよね。なんでアンタしかいないのよ」
「こ、公爵ご夫妻のご命令で……」
「はあ? どういうこと? 今日は結婚式なのよ? アイツどこでなにしてんのよッ!」
「それは、あの……」

 ディッタトゥーラが自分の中でだけ通用する理由を見つけて、ひとりのメイドに暴力を振るおうとしたとき、控室の扉を叩く音がした。
 舌打ちを漏らしてメイドを睨みつけると、彼女は喜々とした表情で扉へ向かった。
 後で殴ってやる、とディッタトゥーラは思った。

 彼女も今はいないもうひとりのメイドも公爵家に仕える下位貴族の娘だ。
 公爵子息のジェレミアと結婚するディッタトゥーラには絶対に逆らえない。
 だれかに言いつけられたところで、元婚約者の子爵令嬢に虐められていた可哀相な恋人ディッタトゥーラを侮辱するような人間はジェレミアが許さない。

 ただの下働きだったときから、ディッタトゥーラの傍若無人な態度に不満を持ったほかの使用人達は、上役に忠言しても無視されて処分されていた。
 上役は部下よりも未来の主人であるジェレミアに気に入られることを優先したからだ。
 公爵夫婦の意向もあったのかもしれない。

(ジェレミアが訪ねてきた……わけないわよね。貴族の結婚式では、結婚式の日は聖堂で誓うまで花嫁と新郎は顔を合わせちゃいけないって言ってたものね。嫁イビリに来た公爵夫人ババアかしら。面倒だわ)

 追い返せと命じる前に、メイドは扉を開けていた。
 扉の向こう、聖神殿の廊下にはひとりの令嬢が立っていた。
 廊下に立つ令嬢の顔は薄いヴェールで隠されている。

 ヴェールの下から見える令嬢の唇が、なにかを決意したかのように引き締められた。

「ちょっと……アンタ、なに持ってるのよ……」

 ディッタトゥーラの声が震える。
 ヴェールの令嬢の手には銀に光る刃物があった。
 彼女はそれを両手で握り締めて、ディッタトゥーラに向かって走ってくる。

「ちょ、ちょっと助けなさいよ!」

 ディッタトゥーラは叫んだが、メイドは控室の扉を開けたまま動かなかった。
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