この恋は幻だから

豆狸

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 王太子殿下が王都にある侯爵家の屋敷にいらっしゃったのは、男爵令嬢が処刑されて二ヶ月ほど経ったころ。
 殿下と側近達の異常な振る舞いが国王陛下の耳に届き、神殿の大神官様が直々に男爵令嬢を鑑定したことで、彼女が人間至上主義の教団の密命を受けた密偵だとわかったのだ。
 教団は、自分達と違う神を崇め獣人をも国民として受け入れるこの王国を嫌っていた。彼らは強い魅了の力を持つ男爵令嬢に、学園の試験官くらいでは能力が見抜けなくなる目くらましの効果がある呪具を与えて送り込んできたのだ。

 ──未来を担う若者を籠絡し、この王国を滅ぼすために。

 そもそも男爵令嬢というのも嘘だった。
 売国奴の男爵が金目当てで彼女を養女にしたのだ。
 当然男爵家も処罰を受けて滅亡している。

 数ヶ月前、父から婚約解消の話を聞いた部屋で、私は王太子殿下と対峙していた。
 術者の死によって魅了は解けているが、魅了されていた間の記憶はあると聞く。
 そのせいか、殿下はとても居心地が悪そうだった。

「……これまでのこと、すまなかった」
「王太子殿下が頭をお下げになってはいけませんわ」
「いや、王族であろうとも自分の間違いは認めなくてはならん」
「ふふふ」
「どうした?」
「本当の殿下が戻ってこられたと思って嬉しくなりましたの」
「……本当の俺、か」

 彼は遠い目をした。

「そうだな。今までの俺は異常だった。そなたにも辛い思いをさせたな」
「……」

 私は目を伏せた。
 王太子殿下側近のひとりの婚約者は、もういない。
 愛していた相手からの仕打ちに絶望して自害したと噂されている。魅了されていた側近は、婚約者であるご令嬢のことを伝えられても男爵令嬢と笑っていたと聞く。彼は今どうしているのだろうか。彼がどんなに悔もうと彼女は戻らない。

「今さら都合の良い話だとは自分でもわかっている。しかし、俺にはそなたしかいない。もう一度俺と婚約してもらえないだろうか」

 魅了されていたとはいえ、家と家の政略的な結婚を勝手に解消した王太子殿下とその側近達の罪は重い。同じ貴族同士の約束を平気で破る人間が、立場の弱い平民との約束を守るとは思えない。
 国民の信頼は彼らから離れている。
 彼らが婚約を解消した相手とよりを戻せば、一番被害を受けた人間が許したのだから、と見る目も変わっていくかもしれないが、

「王太子殿下。父になにもお聞きになっていないのですか?」
「侯爵は、そなたの気持ち次第だと言っていたぞ。兄君もだ」
「……私にはもう、新しい婚約者がおりますの」
「なん、だと? 確かに側近達の婚約者の中には新しい相手を見つけていた者もいたが、王太子である俺の婚約者だった侯爵令嬢のそなたの新しい婚約者となれるような者はそうおるまい」
「身分だけで考えれば、そうかもしれませんわね」
「相手は平民なのか?」
「はい。……来てください」

 魅了が解けたのなら無体を働かれるような方ではないと思っていたが、念のため控えの間で待っていてもらっていた彼を呼ぶ。

「学園でご挨拶したことはございますが、初めましてのほうがよろしいでしょうか、王太子殿下」

 出てきた彼は恭しく頭を下げた。
 大きな三角形の耳とフサフサの尻尾を持つ私の婚約者は、あのときの狐獣人だ。
 王太子殿下が驚いていらっしゃる。王国が獣人を受け入れたのは安価で丈夫な労働力が欲しかったからだ。獣人と結婚しようという貴族はまだいない。

「……俺への当てつけか?」
「私の婚約者を貶めるようなことは言わないでください。彼は、あなたの側近に突き飛ばされて足を挫いていた私に、温かい手を差し伸べてくださった方です」
「……っ」

 殿下は言葉を失った。
 あのとき、周囲にだれもいなかったわけではない。私の味方がいなかっただけだ。
 魅了されていない人間も、王太子殿下とその側近の不興を買うのを恐れて私をはじめとする婚約者の令嬢達に近づこうとはしなかった。

「僕は王太子殿下に感謝してるんです。まず、この国へ迎え入れてくれたこと。そして、彼女との婚約を解消してくれたこと」
「……俺は」

 殿下は彼から視線を逸らし、私を見つめた。

「王太子殿下。彼女は、相手とキスをしなければ魅了できませんでした。それも偶然ぶつかったような事故のキスではなく、恋人のキスでなければなりません。殿下が彼女に魅了されたのは、初めてのキスをご自分の意思でなさってからでしょう?」
「俺、は……」

 婚約者のいる身で、別の相手と恋人のキスをした。
 自分が男だから、王太子だから許されると思っていたのかもしれない。
 ……いいえ。私なら許すだろうと侮られていたのだろう。

 殿下の気持ちがどうだったにしろ変わらないことがひとつ。
 そのとき殿下は彼女を恋人として扱った。
 私は知っているのだ。おそらくまだキスする前に、熱を帯びた瞳で彼女を見つめていた彼の姿を。

 ──そして、王太子殿下は私との婚約再開を諦めて帰って行った。
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