上 下
2 / 7

中編A 彼は愛していると言った。

しおりを挟む
「……愛しているよ、エレナ。お誕生日おめでとう」
「っ!」

 アレッサンドロ様は、思いのほか簡単にその言葉を口にした。
 彼の向こうでリティージョ様の顔が引きつっているのがわかる。
 彼女の青い瞳に涙が浮かぶ。それに気づいたのか、アレッサンドロ様がリティージョ様を振り返った。

「リティージョ?」
「ご、ごめんなさい。目にゴミが入ったみたい。今日はもう教室へ戻るわね」

 止まらない涙を指先で拭い、リティージョ様は私達に背を向けて走り去った。
 アレッサンドロ様が私に顔を向ける。
 ふたりっきりになれた、と喜ぶ気持ちは湧いてこなかった。さっき愛していると言われたことさえ飲み込めずにいる。しばらくお互い無言で昼食の残りを食べた後で、彼が言った。

「いつもより少し早いけれど、私も教室へ戻るよ。エレナ、君の教室まで送って行ってからにしようか?」
「いいえ、大丈夫ですわ」
「そうかい? それではまた放課後に迎えに行くよ」

 明らかに安堵した表情で、アレッサンドロ様はリティージョ様が去った方向へと歩いて行った。
 たぶんふたりは教室へ戻ったのではない。
 いつも放課後、上の学年は授業が終わっても用事があって遅くなると私を騙して密会している裏庭の奥にある小さな池のほとりへ行ったのだ。
 浮気している悪人は自分達のほうなのに、愛の言葉を強要した婚約者の私を悪者にして愛を確かめ合うのだろう。……愛していると言って欲しいだなんて、願わなければ良かった。

 膝の上に、ぽとりと涙が落ちる。
 リティージョ様の前でアレッサンドロ様に愛の言葉をもらえたら、少しは気分がすっきりすると思っていた。
 リティージョ様は所詮浮気相手なのだ。愛しているの言葉さえ独占出来ないのだと思い知らせてやりたかった。だけど、願いが叶った今は苦いものを飲み込んだような気分だ。

 アレッサンドロ様のフランコ伯爵家はリティージョ様のコンテ男爵家の寄り親で、ふたりは私が現れる前からの知り合いで幼なじみだった。
 ふたりから見れば、いきなり現れた婚約者の私のほうがお邪魔虫なのかもしれない。
 でも……と私は思う。

 マルキ商会は爵位が、貴族とのつながりが欲しかった。だからフランコ伯爵家の寄り子のひとつであるロマーノ子爵家のご子息エステル様に婚約話を持ちかけた。
 ロマーノ子爵家もマルキ商会の援助を受けているが、これまでの借金は問題なく返済し、新しい借金で興した事業は確実に発展させている将来有望な貴族だ。
 九割がた決まりかけていたマルキ商会とロマーノ子爵家の婚約話に待ったをかけて、自分をねじ込んできたのはフランコ伯爵家のほうだった。幼かった私に選択権はない。

 選択権はなかった、けれど──

 アレッサンドロ様とリティージョ様が浮気しているという話を教えてくれたのは家族だった。
 その後、ふたりが私を騙して密会していることを教えてくれたのは学園の同級生だ。
 浮気の事実を確認して思い悩む私に家族は、婚約をどうするかを自分で決めることを許してくれた。いくら爵位の高い貴族でも、娘の私を粗末にするような家には嫁がせたくないと言ってくれたのだ。

「やあ」

 学園の裏庭は小さな森のようになっていて、いくつかある開けた空間にベンチが置かれている。
 警備員は巡回しているけれど、問題が起こっていなければベンチで休む生徒に顔を見せることはない。貴族の家の家事女中と同じように存在を隠しているのだ。
 だから、私にわざわざ声をかけてきたのは警備員ではなかった。

「エレナ嬢、隣いいかな?」
「私は教室へ戻りますから、エンリーコ様がおひとりでベンチを独占してくださいませ」

 眩しい金髪に私と同じ緑色の瞳を持つ彼は同級生。
 羽振りの良いガッロ侯爵家のエンリーコ様だ。現侯爵様は彼の祖父に当たる。
 私の瞳が冬の針葉樹の緑なら、彼の瞳は淡い春の若葉の緑色。

 アレッサンドロ様とリティージョ様の密会を私に教えてくれた人物でもあった。
 それに感謝すればいいのか、知らないでいたかったと逆恨みすればいいのか、今の私にはわからない。
 心の整理がついていないのだ。

「つれないなあ。エレナ嬢ってば、フランコ伯爵家のアレッサンドロ以外には氷の人形になってるみたいな対応するよね」
「申し訳ありません」

 それは、私に近づいてくる人はマルキ商会の財力目当てだからだ。
 ……まあ、アレッサンドロ様もそうなのだけど。
 エンリーコ様のガッロ侯爵家は余裕のある家だが、彼自身は次男なので侯爵家は継げず所有する子爵位を与えられて独立すると言われている。独立した後に備えてマルキ商会とのつながりを作っておきたくて私に話しかけてくるのだろうか。侯爵家の影響力が利用出来るとはいえ、新しい家は物入りになる。

「ねえエレナ嬢、教室に帰る前に僕の話を聞いてよ。お互いにとって利益になる計画があるんだ」

 ほらね。でも聞いてみてもいいかもしれない。
 さっきご本人がおっしゃったように同級生に氷の人形と陰口を叩かれている私にも気軽に話しかけてくるエンリーコ様は、いつも飄々としていて、なにを考えているのかわからない方だ。
 私の利益になるかどうかはわからないが、マルキ商会の未来に役立つ思い付きがあるのかもしれない。婚約者に愛されず浮気されている私は、せめて実家の役に立って家族にだけは見捨てられないでいたかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】誠意を見せることのなかった彼

野村にれ
恋愛
婚約者を愛していた侯爵令嬢。しかし、結婚できないと婚約を白紙にされてしまう。 無気力になってしまった彼女は消えた。 婚約者だった伯爵令息は、新たな愛を見付けたとされるが、それは新たな愛なのか?

あなたがわたしを捨てた理由。

ふまさ
恋愛
 王立学園の廊下。元婚約者のクラレンスと、クラレンスの婚約者、侯爵令嬢のグロリアが、並んで歩いている。  楽しそうに、微笑み合っている。アーリンはごくりと唾を呑み込み、すれ違いざま、ご機嫌よう、と小さく会釈をした。  そんなアーリンを、クラレンスがあからさまに無視する。気まずそうにグロリアが「よいのですか?」と、問いかけるが、クラレンスは、いいんだよ、と笑った。 「未練は、断ち切ってもらわないとね」  俯いたアーリンの目は、光を失っていた。

婚約者に選んでしまってごめんなさい。おかげさまで百年の恋も冷めましたので、お別れしましょう。

ふまさ
恋愛
「いや、それはいいのです。貴族の結婚に、愛など必要ないですから。問題は、僕が、エリカに対してなんの魅力も感じられないことなんです」  はじめて語られる婚約者の本音に、エリカの中にあるなにかが、音をたてて崩れていく。 「……僕は、エリカとの将来のために、正直に、自分の気持ちを晒しただけです……僕だって、エリカのことを愛したい。その気持ちはあるんです。でも、エリカは僕に甘えてばかりで……女性としての魅力が、なにもなくて」  ──ああ。そんな風に思われていたのか。  エリカは胸中で、そっと呟いた。

婚約解消したら後悔しました

せいめ
恋愛
 別に好きな人ができた私は、幼い頃からの婚約者と婚約解消した。  婚約解消したことで、ずっと後悔し続ける令息の話。  ご都合主義です。ゆるい設定です。  誤字脱字お許しください。  

わたしのことはお気になさらず、どうぞ、元の恋人とよりを戻してください。

ふまさ
恋愛
「あたし、気付いたの。やっぱりリッキーしかいないって。リッキーだけを愛しているって」  人気のない校舎裏。熱っぽい双眸で訴えかけたのは、子爵令嬢のパティだ。正面には、伯爵令息のリッキーがいる。 「学園に通いはじめてすぐに他の令息に熱をあげて、ぼくを捨てたのは、きみじゃないか」 「捨てたなんて……だって、子爵令嬢のあたしが、侯爵令息様に逆らえるはずないじゃない……だから、あたし」  一歩近付くパティに、リッキーが一歩、後退る。明らかな動揺が見えた。 「そ、そんな顔しても無駄だよ。きみから侯爵令息に言い寄っていたことも、その侯爵令息に最近婚約者ができたことも、ぼくだってちゃんと知ってるんだからな。あてがはずれて、仕方なくぼくのところに戻って来たんだろ?!」 「……そんな、ひどい」  しくしくと、パティは泣き出した。リッキーが、うっと怯む。 「ど、どちらにせよ、もう遅いよ。ぼくには婚約者がいる。きみだって知ってるだろ?」 「あたしが好きなら、そんなもの、解消すればいいじゃない!」  パティが叫ぶ。無茶苦茶だわ、と胸中で呟いたのは、二人からは死角になるところで聞き耳を立てていた伯爵令嬢のシャノン──リッキーの婚約者だった。  昔からパティが大好きだったリッキーもさすがに呆れているのでは、と考えていたシャノンだったが──。 「……そんなにぼくのこと、好きなの?」  予想もしないリッキーの質問に、シャノンは目を丸くした。対してパティは、目を輝かせた。 「好き! 大好き!」  リッキーは「そ、そっか……」と、満更でもない様子だ。それは、パティも感じたのだろう。 「リッキー。ねえ、どうなの? 返事は?」  パティが詰め寄る。悩んだすえのリッキーの答えは、 「……少し、考える時間がほしい」  だった。

殿下の御心のままに。

cyaru
恋愛
王太子アルフレッドは呟くようにアンカソン公爵家の令嬢ツェツィーリアに告げた。 アルフレッドの側近カレドウス(宰相子息)が婚姻の礼を目前に令嬢側から婚約破棄されてしまった。 「運命の出会い」をしたという平民女性に傾倒した挙句、子を成したという。 激怒した宰相はカレドウスを廃嫡。だがカレドウスは「幸せだ」と言った。 身分を棄てることも厭わないと思えるほどの激情はアルフレッドは経験した事がなかった。 その日からアルフレッドは思う事があったのだと告げた。 「恋をしてみたい。運命の出会いと言うのは生涯に一度あるかないかと聞く。だから――」 ツェツィーリアは一瞬、貴族の仮面が取れた。しかし直ぐに微笑んだ。 ※後半は騎士がデレますがイラっとする展開もあります。 ※シリアスな話っぽいですが気のせいです。 ※エグくてゲロいざまぁはないと思いますが作者判断ですのでご留意ください  (基本血は出ないと思いますが鼻血は出るかも知れません) ※作者の勝手な設定の為こうではないか、あぁではないかと言う一般的な物とは似て非なると考えて下さい ※架空のお話です。現実世界の話ではありません。  史実などに基づいたものではない事をご理解ください。 ※作者都合のご都合主義、創作の話です。至って真面目に書いています。 ※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。 ※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

むしゃくしゃしてやりましたの。後悔はしておりませんわ。

緑谷めい
恋愛
「むしゃくしゃしてやりましたの。後悔はしておりませんわ」  そう、むしゃくしゃしてやった。後悔はしていない。    私は、カトリーヌ・ナルセー。17歳。  ナルセー公爵家の長女であり、第2王子ハロルド殿下の婚約者である。父のナルセー公爵は、この国の宰相だ。  その父は、今、私の目の前で、顔面蒼白になっている。 「カトリーヌ、もう一度言ってくれ。私の聞き間違いかもしれぬから」  お父様、お気の毒ですけれど、お聞き間違いではございませんわ。では、もう一度言いますわよ。 「今日、王宮で、ハロルド様に往復ビンタを浴びせ、更に足で蹴りつけましたの」  

【完結】私の婚約者はもう死んだので

miniko
恋愛
「私の事は死んだものと思ってくれ」 結婚式が約一ヵ月後に迫った、ある日の事。 そう書き置きを残して、幼い頃からの婚約者は私の前から姿を消した。 彼の弟の婚約者を連れて・・・・・・。 これは、身勝手な駆け落ちに振り回されて婚姻を結ばざるを得なかった男女が、すれ違いながらも心を繋いでいく物語。 ※感想欄はネタバレ有り/無しの振り分けをしていません。本編より先に読む場合はご注意下さい。

処理中です...