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中編A 彼は愛していると言った。
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「……愛しているよ、エレナ。お誕生日おめでとう」
「っ!」
アレッサンドロ様は、思いのほか簡単にその言葉を口にした。
彼の向こうでリティージョ様の顔が引きつっているのがわかる。
彼女の青い瞳に涙が浮かぶ。それに気づいたのか、アレッサンドロ様がリティージョ様を振り返った。
「リティージョ?」
「ご、ごめんなさい。目にゴミが入ったみたい。今日はもう教室へ戻るわね」
止まらない涙を指先で拭い、リティージョ様は私達に背を向けて走り去った。
アレッサンドロ様が私に顔を向ける。
ふたりっきりになれた、と喜ぶ気持ちは湧いてこなかった。さっき愛していると言われたことさえ飲み込めずにいる。しばらくお互い無言で昼食の残りを食べた後で、彼が言った。
「いつもより少し早いけれど、私も教室へ戻るよ。エレナ、君の教室まで送って行ってからにしようか?」
「いいえ、大丈夫ですわ」
「そうかい? それではまた放課後に迎えに行くよ」
明らかに安堵した表情で、アレッサンドロ様はリティージョ様が去った方向へと歩いて行った。
たぶんふたりは教室へ戻ったのではない。
いつも放課後、上の学年は授業が終わっても用事があって遅くなると私を騙して密会している裏庭の奥にある小さな池のほとりへ行ったのだ。
浮気している悪人は自分達のほうなのに、愛の言葉を強要した婚約者の私を悪者にして愛を確かめ合うのだろう。……愛していると言って欲しいだなんて、願わなければ良かった。
膝の上に、ぽとりと涙が落ちる。
リティージョ様の前でアレッサンドロ様に愛の言葉をもらえたら、少しは気分がすっきりすると思っていた。
リティージョ様は所詮浮気相手なのだ。愛しているの言葉さえ独占出来ないのだと思い知らせてやりたかった。だけど、願いが叶った今は苦いものを飲み込んだような気分だ。
アレッサンドロ様のフランコ伯爵家はリティージョ様のコンテ男爵家の寄り親で、ふたりは私が現れる前からの知り合いで幼なじみだった。
ふたりから見れば、いきなり現れた婚約者の私のほうがお邪魔虫なのかもしれない。
でも……と私は思う。
マルキ商会は爵位が、貴族とのつながりが欲しかった。だからフランコ伯爵家の寄り子のひとつであるロマーノ子爵家のご子息エステル様に婚約話を持ちかけた。
ロマーノ子爵家もマルキ商会の援助を受けているが、これまでの借金は問題なく返済し、新しい借金で興した事業は確実に発展させている将来有望な貴族だ。
九割がた決まりかけていたマルキ商会とロマーノ子爵家の婚約話に待ったをかけて、自分をねじ込んできたのはフランコ伯爵家のほうだった。幼かった私に選択権はない。
選択権はなかった、けれど──
アレッサンドロ様とリティージョ様が浮気しているという話を教えてくれたのは家族だった。
その後、ふたりが私を騙して密会していることを教えてくれたのは学園の同級生だ。
浮気の事実を確認して思い悩む私に家族は、婚約をどうするかを自分で決めることを許してくれた。いくら爵位の高い貴族でも、娘の私を粗末にするような家には嫁がせたくないと言ってくれたのだ。
「やあ」
学園の裏庭は小さな森のようになっていて、いくつかある開けた空間にベンチが置かれている。
警備員は巡回しているけれど、問題が起こっていなければベンチで休む生徒に顔を見せることはない。貴族の家の家事女中と同じように存在を隠しているのだ。
だから、私にわざわざ声をかけてきたのは警備員ではなかった。
「エレナ嬢、隣いいかな?」
「私は教室へ戻りますから、エンリーコ様がおひとりでベンチを独占してくださいませ」
眩しい金髪に私と同じ緑色の瞳を持つ彼は同級生。
羽振りの良いガッロ侯爵家のエンリーコ様だ。現侯爵様は彼の祖父に当たる。
私の瞳が冬の針葉樹の緑なら、彼の瞳は淡い春の若葉の緑色。
アレッサンドロ様とリティージョ様の密会を私に教えてくれた人物でもあった。
それに感謝すればいいのか、知らないでいたかったと逆恨みすればいいのか、今の私にはわからない。
心の整理がついていないのだ。
「つれないなあ。エレナ嬢ってば、フランコ伯爵家のアレッサンドロ以外には氷の人形になってるみたいな対応するよね」
「申し訳ありません」
それは、私に近づいてくる人はマルキ商会の財力目当てだからだ。
……まあ、アレッサンドロ様もそうなのだけど。
エンリーコ様のガッロ侯爵家は余裕のある家だが、彼自身は次男なので侯爵家は継げず所有する子爵位を与えられて独立すると言われている。独立した後に備えてマルキ商会とのつながりを作っておきたくて私に話しかけてくるのだろうか。侯爵家の影響力が利用出来るとはいえ、新しい家は物入りになる。
「ねえエレナ嬢、教室に帰る前に僕の話を聞いてよ。お互いにとって利益になる計画があるんだ」
ほらね。でも聞いてみてもいいかもしれない。
さっきご本人がおっしゃったように同級生に氷の人形と陰口を叩かれている私にも気軽に話しかけてくるエンリーコ様は、いつも飄々としていて、なにを考えているのかわからない方だ。
私の利益になるかどうかはわからないが、マルキ商会の未来に役立つ思い付きがあるのかもしれない。婚約者に愛されず浮気されている私は、せめて実家の役に立って家族にだけは見捨てられないでいたかった。
「っ!」
アレッサンドロ様は、思いのほか簡単にその言葉を口にした。
彼の向こうでリティージョ様の顔が引きつっているのがわかる。
彼女の青い瞳に涙が浮かぶ。それに気づいたのか、アレッサンドロ様がリティージョ様を振り返った。
「リティージョ?」
「ご、ごめんなさい。目にゴミが入ったみたい。今日はもう教室へ戻るわね」
止まらない涙を指先で拭い、リティージョ様は私達に背を向けて走り去った。
アレッサンドロ様が私に顔を向ける。
ふたりっきりになれた、と喜ぶ気持ちは湧いてこなかった。さっき愛していると言われたことさえ飲み込めずにいる。しばらくお互い無言で昼食の残りを食べた後で、彼が言った。
「いつもより少し早いけれど、私も教室へ戻るよ。エレナ、君の教室まで送って行ってからにしようか?」
「いいえ、大丈夫ですわ」
「そうかい? それではまた放課後に迎えに行くよ」
明らかに安堵した表情で、アレッサンドロ様はリティージョ様が去った方向へと歩いて行った。
たぶんふたりは教室へ戻ったのではない。
いつも放課後、上の学年は授業が終わっても用事があって遅くなると私を騙して密会している裏庭の奥にある小さな池のほとりへ行ったのだ。
浮気している悪人は自分達のほうなのに、愛の言葉を強要した婚約者の私を悪者にして愛を確かめ合うのだろう。……愛していると言って欲しいだなんて、願わなければ良かった。
膝の上に、ぽとりと涙が落ちる。
リティージョ様の前でアレッサンドロ様に愛の言葉をもらえたら、少しは気分がすっきりすると思っていた。
リティージョ様は所詮浮気相手なのだ。愛しているの言葉さえ独占出来ないのだと思い知らせてやりたかった。だけど、願いが叶った今は苦いものを飲み込んだような気分だ。
アレッサンドロ様のフランコ伯爵家はリティージョ様のコンテ男爵家の寄り親で、ふたりは私が現れる前からの知り合いで幼なじみだった。
ふたりから見れば、いきなり現れた婚約者の私のほうがお邪魔虫なのかもしれない。
でも……と私は思う。
マルキ商会は爵位が、貴族とのつながりが欲しかった。だからフランコ伯爵家の寄り子のひとつであるロマーノ子爵家のご子息エステル様に婚約話を持ちかけた。
ロマーノ子爵家もマルキ商会の援助を受けているが、これまでの借金は問題なく返済し、新しい借金で興した事業は確実に発展させている将来有望な貴族だ。
九割がた決まりかけていたマルキ商会とロマーノ子爵家の婚約話に待ったをかけて、自分をねじ込んできたのはフランコ伯爵家のほうだった。幼かった私に選択権はない。
選択権はなかった、けれど──
アレッサンドロ様とリティージョ様が浮気しているという話を教えてくれたのは家族だった。
その後、ふたりが私を騙して密会していることを教えてくれたのは学園の同級生だ。
浮気の事実を確認して思い悩む私に家族は、婚約をどうするかを自分で決めることを許してくれた。いくら爵位の高い貴族でも、娘の私を粗末にするような家には嫁がせたくないと言ってくれたのだ。
「やあ」
学園の裏庭は小さな森のようになっていて、いくつかある開けた空間にベンチが置かれている。
警備員は巡回しているけれど、問題が起こっていなければベンチで休む生徒に顔を見せることはない。貴族の家の家事女中と同じように存在を隠しているのだ。
だから、私にわざわざ声をかけてきたのは警備員ではなかった。
「エレナ嬢、隣いいかな?」
「私は教室へ戻りますから、エンリーコ様がおひとりでベンチを独占してくださいませ」
眩しい金髪に私と同じ緑色の瞳を持つ彼は同級生。
羽振りの良いガッロ侯爵家のエンリーコ様だ。現侯爵様は彼の祖父に当たる。
私の瞳が冬の針葉樹の緑なら、彼の瞳は淡い春の若葉の緑色。
アレッサンドロ様とリティージョ様の密会を私に教えてくれた人物でもあった。
それに感謝すればいいのか、知らないでいたかったと逆恨みすればいいのか、今の私にはわからない。
心の整理がついていないのだ。
「つれないなあ。エレナ嬢ってば、フランコ伯爵家のアレッサンドロ以外には氷の人形になってるみたいな対応するよね」
「申し訳ありません」
それは、私に近づいてくる人はマルキ商会の財力目当てだからだ。
……まあ、アレッサンドロ様もそうなのだけど。
エンリーコ様のガッロ侯爵家は余裕のある家だが、彼自身は次男なので侯爵家は継げず所有する子爵位を与えられて独立すると言われている。独立した後に備えてマルキ商会とのつながりを作っておきたくて私に話しかけてくるのだろうか。侯爵家の影響力が利用出来るとはいえ、新しい家は物入りになる。
「ねえエレナ嬢、教室に帰る前に僕の話を聞いてよ。お互いにとって利益になる計画があるんだ」
ほらね。でも聞いてみてもいいかもしれない。
さっきご本人がおっしゃったように同級生に氷の人形と陰口を叩かれている私にも気軽に話しかけてくるエンリーコ様は、いつも飄々としていて、なにを考えているのかわからない方だ。
私の利益になるかどうかはわからないが、マルキ商会の未来に役立つ思い付きがあるのかもしれない。婚約者に愛されず浮気されている私は、せめて実家の役に立って家族にだけは見捨てられないでいたかった。
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