お見合い相手が改心しない!

豆狸

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第二章 狸の住処は戌屋敷!

13・回覧板は板止さんの家で最後

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 ──しばらくして、わたしと信吾さんは兎々村家の前の道を歩いていた。
 もちろん車道ではなく、その両端に申し訳程度にくっついている狭い歩道である。
 幸い今はほかの歩行者も自転車もなく、信吾さんとふたりっきりだ。
 通り過ぎる車の中に黒い影が充満しているのは気にしても仕方がないし。

「……あ、そうだ。出前のお寿司が来るまではまだ間がありますよね? ついでに家賃の回収に行ってもいいでしょうか」

 ふと立ち止まった信吾さんが、お年寄り向けの平屋が集まった一角を指差している。

「ああ、猫屋敷さんの事件でバタバタしてましたものね」
「それもありますが、回収日は未定なんです。向こうの準備ができていなかったときは、再度訪問しています。回収日を決めていると、その日を狙って泥棒が入ったりしますし」

 ……なるほど。わたしは頷いた。
 家賃の回収日とは、その家に必ず家賃のお金がある日ということだものね。

「お年寄りはプライドが高いので、どんなに調子が悪くてもだれかと会うときだけは気を張って元気な振りをしたりしますからね。本当の状態を知るためにも必要なんです」
「信吾さんはいろいろ考えて行動されているんですね」

 信吾さんの頭上に浮かぶ黒い狐さんが、頭を横に振っている。
 いいえ、と信吾さんが照れくさそうに笑う。

「本当はドキドキが止まらないからです。璃々さんとふたりで過ごせるのはとても幸せですが、やっぱりまだ心臓の動悸が激しくなり過ぎて、すぐにも止まりそうで怖いんです」

 ……この人は、どこまでわたしが好きなんだろうか?
 ほかの人に知られたら自意識過剰にもほどがある、と思われそうな疑問を心の中だけに収め、わたしは彼に言葉を返した。

「えっと……そうして先手を打って行動できるってことは、冷静になれてるってことじゃないですかね? 信吾さんは成長? うん、成長なさっているんですよ」

 幼いころからわたしの黒い影発言を聞いてきた兎々村の両親は、信吾さんの頭上に浮かぶ黒い狐さんのことをすんなり受け入れてくれた。
 さっきふたりが二階から駆け下りて来たときに打ち明けたのだ。
 特にわたしを信吾さんのお婆さんのところへ連れて行ってくれたお父さんは、わたしの中にいる狐の神さまのことを聞いてひどく納得していたっけ。
 浮かんでいた文字が消えて普通に映画が観られるようになったので、ふたりは今家で続きを鑑賞している。……わたしの両親だけあって逞しい。
 馴染みのお店に注文した夕飯のお寿司は、お店が一から作ってくれている。
 家に届いたら連絡をくれる予定になっていた。
 車道を走る車が途切れるのを待ち左右を確認してから、わたしたちは平屋の集まった一角へと進んだ。

「この辺りは横断歩道が少ないんですよね。もっとも作ってもお年寄りは自分の都合で横断してしまうんですけど」
「あー、よく事故が起こってますもんね」

 この前梨里ちゃんと一緒に入った横道に入り、今度は猫屋敷さんの家を通り過ぎて一番奥の家へ。横道の入り口にある夫成さん……うん、梨里ちゃんが言ってたし表札にも刻まれている……の家は帰りに寄るのかな。
 三軒並んだ最後の家には、板止さんが住んでいた。
 ふっくらした体つきの人の良さそうな女性が、玄関チャイムに応えて現れる。
 年齢のせいで関節の調子が悪いらしい。
 肩や膝、腰に黒い霧が纏わりついていた。
 本人が持っている不安や普段の苦痛の表れだ。
 笑みこそ浮かべているものの、顔色も悪い。
 信吾さんにチラリと視線を送られる。

 ……命に別状はなさそうなので、気にしないことにしますから安心してください。

「あら狐塚さん、お家賃かしら~?」
「はい。今日が無理なら後日出直しますが」
「残念だわ~。こないだ銀行で年金降ろしてきたところなの。狐塚さんには何度も訪ねて来てもらいたいけど、今日の内に払っちゃうわね。ちょっと待っててくれるかしら~?」
「急がなくていいですよ。走って転んだりしたら大変です」
「はいはい。狐塚さんは心配性ね~」

 少し体が重そうな様子で、彼女は家の中へ入っていった。
 猫屋敷さんの事件のときは庭に面した部屋しか見えなかったので、玄関からの作りを見るのは初めてだ。
 伸びた廊下の行き止まりは窓のない壁になっていて、廊下の左右に部屋がある。
 この一角に共通する庭の位置からして、今板止さんの入っていった方向の部屋が猫屋敷さんが……コタツに入っていた部屋と同じなのだろう。
 逆側にある部屋は台所で、その横にふたつ並んだ扉はトイレとお風呂場かな。

「お待たせ~」

 板止さんから封筒を受け取って、信吾さんが中身を確認した。

「確かに。お体のほうは変わりありませんか?」
「変わりがあったらいいんだけどね~。相変わらずよ。肩も膝も痛い痛い。それに……猫屋敷さんがいなくなっちゃって、すっかり寂しくなっちゃった。彼女がいないと猫も来ないし。町猫の世話役引き継げたらいいんだけど、膝がね~」

 溜息をつく彼女に、信吾さんは微笑んだ。
 いつもの少年漫画に出てくる糸目の最強キャラの笑みだが、ほんの少し感情が混じっている気もした。亡くなったお婆さんを重ねているのかもしれない。

「本当に無理はなさらないでくださいね。……あの、遅くなりましたがご紹介しておきます。僕の婚約者の兎々村璃々さんです」
「ええ、ええ、知ってるわよ~。道路の向こうの兎々村さん家の娘さんよね? ずっと体調崩してたって聞いてたけど、もう大丈夫なの~?」

 兎々村家とこの一角は町が違うのだけれど、物理的には近い。
 わたしは知らなかったが、板止さんはお母さんと知り合いだった。
 近所にあるスーパーでよく会うのだという。

「元気になって未来の旦那さまも決まったんなら、お母さんもお喜びね~」

 自分のことのように喜んでくれる板止さんの姿を見ていると胸が痛んで、わたしはそっと信吾さんの顔色を窺った。
 ほんの少しだけ混じっていた感情が消えて、最強キャラの笑みで威圧してくる。
 ……そりゃまあ近所に住んでいるだけの引き籠りニート女子大生に、肩や膝を触らせてくれる理由なんてないだろうけど。
 転んだ振りをしてぶつかったりしたら、黒い霧が消える代わりに骨折してしまうかもしれないし、それでは本末転倒だ。年を取って体が弱るのはどうしようもない。

「……ありがとうございます。兎々村璃々です。信吾さんともどもよろしくお願いします」
「はいはい、もちろんよ~。お子さんを見せてもらえるくらい長生きしたいわ~」

 この一角に住んでいるお年寄りには、ほとんど身寄りがいないと聞く。
 本当に見せてあげたいな、なんて思いながら、わたしは板止さんが伸ばしてきた手を取った。体はふっくらしているのに彼女の手は固く、皮膚の下がすぐ骨のように感じられる。体温もわたしより低いようだ。

「……本当に長生きしてくださいね」
「うふふ、ありがとうね~。狐塚さんはイケメンなのに女の子の話が出なくて心配してたけど、幸せそうでなによりだわ~」

 ──しゅんっ。

「……あ」
「なぁに~?」
「いえ、なんでもありません。お体に気をつけてくださいね」
「ありがとう~。……あら。言われてみれば急に元気になったみたい。お嬢さんの元気を吸い取っちゃったのかしら。ごめんなさいね~」
「全然そんなことないですよ」
「それじゃあ、お暇しますね。……璃々さん、次は夫成さんの家へ行きましょうか」

 信吾さんの言葉を聞いて、板止さんの表情が曇った。

「……狐塚さん、夫成さんのこと気をつけてあげてね~」
「なにかありましたか?」
「猫屋敷さんが亡くなられてから、どうも様子がおかしいのよ~。すごくショックだったんじゃないかしら~」
「そんなに仲が良かったようには思えませんが。そもそも夫成さんだけですよ、町猫に文句を言って来たのは。入居の際の説明で納得したはずなのに」
「アタシなんかは逆に、自分で世話しなくても猫が近くにいるっていうのに釣られて入居した口なんだけどね~。でも猫は苦手でも猫屋敷さん本人とは仲が良かったみたいよ? この前、猫屋敷さんの体調が悪いからって夫成さんが回覧板を持って来てくれたの。アタシが判子捺した後も夫成さんに持って行ったのよ。猫屋敷さんが元気になるまで預かるって言ってくれたから~」
「……それは、いつのことですか?」
「ん~、年を取ると日付や曜日がわからなくなっちゃうのよね。でも猫屋敷さんの家に警察が来るよりは前だったと思うわ。……そのときの体調不良が元でお亡くなりになったのかもしれないわね~」
「最近急に寒くなりましたからね。板止さんもお気を付けください」
「はいはい。年寄りには時間が過ぎるのが早く感じるから、次会うときは赤ちゃんも一緒だったりして~」

 ……ごめんなさい、板止さん。それはない。
 わたしたちが出て行った後、閉まった玄関の扉の向こうから聞こえた足音は、板止さんが家賃の入った封筒を取りに行ったときよりも軽く感じた。
 別れたときの顔色も良くなっていたんじゃないかな。

「……璃々さん? さっき清くて聖なる空気を感じたんですが……なにかしましたか?」

 これって信吾さんが氷の四天王だったとしたら、裏切りの罰で氷像にされるシーンじゃない?
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