愛は見えないものだから

豆狸

文字の大きさ
上 下
3 / 8

第三話 決意

しおりを挟む
「ジャンナ、一緒に帰ろう」
「申し訳ありません、ステファノ王太子殿下。今日は図書館で勉強して帰りたいのです」
「そうか? 君の成績なら王太子の婚約者として十分だと思うのだが。しかし努力する心は尊い。頑張りたまえ」
「ありがとうございます」

 教室の中に満ちる、殿下の誘いを断るなんて不敬な、とか、本当は勉強などしていなくてもフィオーレ侯爵家の力で成績を買っているのだろう、とかいうざわめきは殿下の耳には届かないようです。
 喜色満面のブルローネ様が、でしたらアタクシが同行いたします、と殿下に駆け駆け寄る姿から目を逸らし、私は教室を出ました。
 私の耳には聞えよがしの陰口も根拠のない悪口雑言も聞こえてしまうのです。悪意に満ちた視線にも気づかずにはいられません。

 令嬢としても校則としても走ってはいけない学園の廊下を早足で進んで、私は学園の図書館に辿り着きました。
 中庭に建つ独立した建物である図書館は、教室のある校舎とは渡り廊下でつながっています。
 同行していた侍女を図書館の入り口で待たせて、私は中に入りました。中庭に面した窓のある壁際の席に座り、持ってきた教科書と帳面を取り出します。

 教科書を黙読している振りをしながら、私は後ろの窓に向けて語りかけました。

「妖精さん、いますか?」
「……うん。今日は僕のほうが早かったみたいだね」
「ふふふっ」

 妖精さんは中庭で、図書館の外壁にもたれて座っているのです。
 だれにも話しかけられないよう昼寝をしている体を装って、図書館の中の私と話してくださるのです。
 その正体がヴィオーラ公爵令息エリベルト様だということを私は知っています。窓から顔を出して覗き込むような無粋な真似はしたことありませんが、彼が図書館の外壁にもたれて昼寝をしている(ように見える)ということは、学園のみんなが知っているのです。

「今の心境は?」
「あまり幸せではありません。ふふっ、前からですけどね」
「殿下は君に心を移したように見えるよ?」
「妖精さん、本当にそう見えていますか?」

 しばらく沈黙した後で、妖精さんは答えました。
 正体を知っていても、ここで会話をするときの彼は妖精さんなのです。おとぎ話に出てくる、小さくて美しくて翅があって、愚かな人間を助けてくれる素敵な妖精さん。
 教室が違うので面と向かって話した経験は少ないのですが、遠目で見る彼は小柄な体も相まって、妖精さんそのもののように見えました。

「……いいや。それらしく振る舞っているようにしか見えない。だから、あんな根も葉もない噂が広がっているんだ。王妃の実家であるロンゴ公爵家は強大だが、そのぶん敵も多い。殿下が本当に君に乗り換えたのだとみなが感じたなら、弄ばれて捨てられた惨めなブルローネ嬢の噂が学園を席巻するだろう。そしてこれまで君の悪口を言っていた人間が、なんの悔恨も見せずに擦り寄ってくるよ」
「ですよね。そもそも殿下と私には心が近づくような出来事はなにもなかったのです。殿下はいつもブルローネ様とご一緒で、国王陛下から直々に命じられない限り挨拶もしてくださいませんでした。……失礼な考えかもしれませんが、今の殿下が私に優しくしてくださっているのは、なにか企みがあってのことのような気がしてしまうのです」
「企みで優しくする……婚約者の行動として想像するようなことじゃないね」
「はい。私はもう殿下を婚約者として考えることは出来ないのです。これまで愚痴を聞いてくださって忠告もしてくださっていたのに……申し訳ありません」

 妖精さんと出会ったのは、学園に入って一ヶ月ほどしたころでした。
 殿下とブルローネ様の愛に満ちたお姿に心を抉られ、抉られた傷に噂という毒をねじ込まれた私は、勉強する振りをして教科書に隠れて泣いていたのです。
 静かにしなくてはいけない図書館なら、私に陰口を聞かせる人間はいないからです。王都の侯爵邸で泣いていたら、父に知られて怒られてしまうかもしれないからです。

 学園にいる大人は国王陛下のご意向を理解しています。
 殿下と私の婚約が王命だと、意味があって結ばれたものだとわかっているのです。
 でも大人であるがゆえに、王妃様とロンゴ公爵家の権威にも逆らえず、ブルローネ様の取り巻き達を注意することは出来ませんでした。

 声を殺して泣いている私に、どうしたの? と窓の向こうから声をかけてくれたのが妖精さんでした。
 それからずっと、どうすれば殿下に振り向いてもらえるか、どうすれば噂を消すことが出来るかを相談させてもらっていました。
 もっともどちらの問題も殿下ご自身のお気持ちがなければどうしようもないことで、結局は愚痴を聞いてもらうだけでした。ですが、私にはそれがとてもありがたいことだったのです。

「婚約解消を申し出る気?」
「はい。国王陛下に認めていただけるかどうかはわかりませんし、解消したら解消したで父が……」

 ただでさえ母の死と引き換えに生まれた私が、王太子の婚約者ですらなくなったとしたら、用無しとして捨てられてしまうかもしれません。
 戒律の厳しい神殿に入れられるのなら、むしろ幸運だと喜べるのですが、私のような世間知らずがいきなり平民として放り出されたとしたら三日と生き延びられないでしょう。
 妖精さんは、なぜかとても優しい声で言いました。

「大丈夫だよ。フィオーレ侯爵は、君が殿下との婚約を解消しても怒らないさ。それが君自身の決めたことならね」
「そうでしょうか」

 王宮に籠もって仕事に邁進する父とは、月に一度顔を合わせるかどうかです。
 母のこともあるので、私は父に苦手意識を持っていました。王太子の婚約者として周囲に認められていないことへの罪悪感もあります。
 けれど妖精さんに言われると、殿下と婚約解消しても父は怒らないのではないか、怒られたとしても今後のことは話し合えるのではないかと、考えることが出来たのです。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あなたを忘れる魔法があれば

七瀬美緒
恋愛
乙女ゲームの攻略対象の婚約者として転生した私、ディアナ・クリストハルト。 ただ、ゲームの舞台は他国の為、ゲームには婚約者がいるという事でしか登場しない名前のないモブ。 私は、ゲームの強制力により、好きになった方を奪われるしかないのでしょうか――? これは、「あなたを忘れる魔法があれば」をテーマに書いてみたものです――が、何か違うような?? R15、残酷描写ありは保険。乙女ゲーム要素も空気に近いです。 ※小説家になろう、カクヨムにも掲載してます

溺愛されていると信じておりました──が。もう、どうでもいいです。

ふまさ
恋愛
 いつものように屋敷まで迎えにきてくれた、幼馴染みであり、婚約者でもある伯爵令息──ミックに、フィオナが微笑む。 「おはよう、ミック。毎朝迎えに来なくても、学園ですぐに会えるのに」 「駄目だよ。もし学園に向かう途中できみに何かあったら、ぼくは悔やんでも悔やみきれない。傍にいれば、いつでも守ってあげられるからね」  ミックがフィオナを抱き締める。それはそれは、愛おしそうに。その様子に、フィオナの両親が見守るように穏やかに笑う。  ──対して。  傍に控える使用人たちに、笑顔はなかった。

貴方の子どもじゃありません

初瀬 叶
恋愛
あぁ……どうしてこんなことになってしまったんだろう。 私は眠っている男性を起こさない様に、そっと寝台を降りた。 私が着ていたお仕着せは、乱暴に脱がされたせいでボタンは千切れ、エプロンも破れていた。 私は仕方なくそのお仕着せに袖を通すと、止められなくなったシャツの前を握りしめる様にした。 そして、部屋の扉にそっと手を掛ける。 ドアノブは回る。いつの間にか 鍵は開いていたみたいだ。 私は最後に後ろを振り返った。そこには裸で眠っている男性の胸が上下している事が確認出来る。深い眠りについている様だ。 外はまだ夜中。月明かりだけが差し込むこの部屋は薄暗い。男性の顔ははっきりとは確認出来なかった。 ※ 私の頭の中の異世界のお話です ※相変わらずのゆるゆるふわふわ設定です。ご了承下さい ※直接的な性描写等はありませんが、その行為を匂わせる言葉を使う場合があります。苦手な方はそっと閉じて下さると、自衛になるかと思います ※誤字脱字がちりばめられている可能性を否定出来ません。広い心で読んでいただけるとありがたいです

最愛の婚約者に婚約破棄されたある侯爵令嬢はその想いを大切にするために自主的に修道院へ入ります。

ひよこ麺
恋愛
ある国で、あるひとりの侯爵令嬢ヨハンナが婚約破棄された。 ヨハンナは他の誰よりも婚約者のパーシヴァルを愛していた。だから彼女はその想いを抱えたまま修道院へ入ってしまうが、元婚約者を誑かした女は悲惨な末路を辿り、元婚約者も…… ※この作品には残酷な表現とホラーっぽい遠回しなヤンデレが多分に含まれます。苦手な方はご注意ください。 また、一応転生者も出ます。

【完結】愛していないと王子が言った

miniko
恋愛
王子の婚約者であるリリアナは、大好きな彼が「リリアナの事など愛していない」と言っているのを、偶然立ち聞きしてしまう。 「こんな気持ちになるならば、恋など知りたくはなかったのに・・・」 ショックを受けたリリアナは、王子と距離を置こうとするのだが、なかなか上手くいかず・・・。 ※合わない場合はそっ閉じお願いします。 ※感想欄、ネタバレ有りの振り分けをしていないので、本編未読の方は自己責任で閲覧お願いします。

冤罪から逃れるために全てを捨てた。

四折 柊
恋愛
王太子の婚約者だったオリビアは冤罪をかけられ捕縛されそうになり全てを捨てて家族と逃げた。そして以前留学していた国の恩師を頼り、新しい名前と身分を手に入れ幸せに過ごす。1年が過ぎ今が幸せだからこそ思い出してしまう。捨ててきた国や自分を陥れた人達が今どうしているのかを。(視点が何度も変わります)

記憶がないので離縁します。今更謝られても困りますからね。

せいめ
恋愛
 メイドにいじめられ、頭をぶつけた私は、前世の記憶を思い出す。前世では兄2人と取っ組み合いの喧嘩をするくらい気の強かった私が、メイドにいじめられているなんて…。どれ、やり返してやるか!まずは邸の使用人を教育しよう。その後は、顔も知らない旦那様と離婚して、平民として自由に生きていこう。  頭をぶつけて現世記憶を失ったけど、前世の記憶で逞しく生きて行く、侯爵夫人のお話。   ご都合主義です。誤字脱字お許しください。

旦那様は甘かった

松石 愛弓
恋愛
伯爵夫妻のフィリオとマリアは仲の良い夫婦。溺愛してくれていたはずの夫は、なぜかピンクブロンド美女と浮気?どうすればいいの?と悩むマリアに救世主が現れ?

処理中です...