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第十話 お嬢様には使命があります。

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 レオンチェフ公爵令嬢ヴェロニカは、弟のニコライや従者のザハールとともに王宮を訪れていた。
 弟に同行をせがまれたのもあるけれど、ヴェロニカ本人がどうしても王宮へ行かなくてはならないという気分になったからだ。

『お休みなのにごめんなさいね、ザハール』
「仕方がないでしょう。お嬢様は私から離れられないとおっしゃるのですから」

 今のヴェロニカには実体がない。
 ふわふわと浮かんで、どこへでも行ける。
 どこへでも行けると言っても限界はあった。まず、寝室に横たわる自分の身体の中には入れない。それと、従者のザハールからは一定の距離までしか離れられない。

『どうしてなのかしら。ザハールにはなにか不思議な力があるのかもしれないわね』
「……」

 ザハールは答えられなかった。
 ヴェロニカはザハールを庭師の孫だと思っている。
 彼の出生に纏わることは陰惨過ぎて、だれもこのお嬢様に教えようとは思わなかったのだ。

(あのクソ野郎が形だけでも神官だったからだろうか。神官のような聖職者には、これ以上悪霊を増やさないために死者の霊を天界へ導く力があるっていうもんな。伝説の妖女は悪霊と契約してたっていうし。お嬢様が風に吹かれて妙なところへ飛んでいかないよう引き留めているのかもしれない。それとも俺がお嬢様を……)

 ザハールの整った顔がほんのりと朱に染まったとき、無言で辺りを見回していたニコライが叫んだ。

「姉上、ヤーコフが来ました!」
『ヤーコフ殿下でしょう、ニコライ。親しき仲にも礼儀ありですよ?』
「はぁい」

 ニコライは第二王子ヤーコフと遊ぶ約束をしていたのである。
 生まれて一年ほどで父を亡くしたヤーコフ王子だが、周囲から愛されてすくすくと成長している。将来の側近候補のレオンチェフ公爵令息ニコライとは遊び友達だ。
 本来は公爵家のメイドと護衛がニコライに付き添うはずだったのだけれど、ヴェロニカの事情があって休みのザハールが割り込む形になった。

「ニコライ、よく来てくれました。……えへへ、会いたかったよ」
「僕もです!」

 護衛を兼ねた自分付きの王宮メイドを引き連れて現れたヤーコフがニコライを歓迎する。
 ふたりは抱き合って、数日ぶりの再会を喜び合った。ニコライは割と頻繁に王宮を訪れている。王都のレオンチェフ公爵邸から王宮まで馬車だし付き添いもいるので、子どもひとりでも危なくはない。
 抱き合ったまま、ニコライはヤーコフの耳元で囁いた。

「……ヤーコフ、殿下。今日は姉上も一緒です。……見えてますか?」
「……ヴェロニカ嬢は見えないけど、ニコライの周りがキラキラしているような気がする」

 今日の訪問は、ニコライが空を飛べるようになった姉を自慢するのが目的だった。
 まだ六歳のこのふたりは、レオンチェフ公爵令嬢の死を知らされていない。
 ニコライは一応弟として葬儀に出席したのだが、初めての葬儀だったのでよくわかっていなかった。あれ以来姉が空を飛べるようになったので、大人になったら受けられる空を飛べるようになるための儀式だと思っている。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「ザハールさん、これはどういうことでしょうか?」
「……今日は良い風が吹いているようですね」
「か、風? 風なのでしょうか……」

 首を傾げる王宮メイドの前には、楽しげに中庭を走る第二王子と公爵令息の姿がある。
 彼女に見えるのはふたりと、その前を飛ぶ紙を折って作った三角形の鳥ふたつだけだった。
 紙の鳥が少年達の魔術で動いているという発想は王宮メイドにはない。王侯貴族が生まれつき才を持ち、魔術学園や魔術師ギルドによって研究され続けている魔術はとても不安定なもので、あんなに小さなものを繊細に制御することは不可能だ。

 少年達が幼い声で叫ぶ。

「左、もっと左です」
「僕のは右です」

 ふたりの声に従って、三角形の鳥は左へ右へと飛び回る。
 それを見ながら、お嬢様も大変だな、とザハールは思う。
 三角形の鳥を操っているのは風ではない。王宮メイドには見えていないレオンチェフ公爵令嬢だ。

 最初はふたりを樹上に抱き上げて欲しいと言われていたのだが、王宮へ来る前にニコライが木から落ちたことを理由にヴェロニカが拒んだ。ニコライ曰く、出発前に木に登ったのはヤーコフのために樹上のどこが危険かを確かめようとしたためらしいけれど、そんなことを言っても危ないものは危ないのだから仕方がない。
 次にふたりはヴェロニカに自分達を抱き上げて走って欲しいと言ってきた。
 ヴェロニカはこれも断った。実体がないからといって腕力が増してはいないからだ。

 最後の妥協案が今の三角形の鳥だった。
 ヤーコフはともかくニコライは姉の姿が見えているはずなのに、自分の指示で三角形の鳥が動くのを大喜びしている。
 ヴェロニカは左を走るヤーコフ王子に左、右を走る弟ニコライに右と指示されて悪戦苦闘していた。実体がなくても疲れるときは疲れるようだ。

(そろそろ適当なことを言ってお嬢様を休ませて差し上げないとな)

 生前のヴェロニカは頑張り屋の少女だった。
 勉強も魔術修業も弟との遊びでさえ、いつも全力で向き合っていた。
 放っておくと力を使い果たして倒れてしまう少女をほど良いところで止めるのは、公爵家の従者ザハールの役目であった。

 ──本当は少し私情も入っていたかもしれない。
 弟との遊びはともかく、勉強と魔術修行に対しての努力は、彼女の婚約者だったパーヴェル王太子のためのものでもあったから。
 ヴェロニカは、パーヴェル王太子が聖女伝説に出てくる妖女のような存在に狙われたときは自分の浄化魔術でお救いするのだと言って、辛く厳しい魔術修行を重ねていたのだ。

(まずニコライ様とヤーコフ殿下をお止めして……ん?)

「ザハールさんザハールさん、なにが起こっているんでしょう!」
「ああ、珍しい風ですね」
「か、風なんですかっ?」

 紙を折って作った三角形の鳥が宙で止まっていた。
 持っているヴェロニカが動きを止めたからだ。
 この中庭を囲む建物の窓から覗いている、女王に護衛という名の監視を命じられた近衛騎士達に付き添われたパーヴェル王太子の存在を感じたのかと、ザハールの胸が一瞬ざらついた。

 しかし、違った。
 黄金色の煌めきを纏った、ザハールとニコライにしか見えない少女は、パーヴェルがいるのとはべつの場所を見つめていた。彼女の元婚約者の恋人がいる塔だ。
 ザハールの瞳には、その塔の窓があの女イリュージアの髪と同じピンク色のモヤで包まれているように見えた。
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