この罪に満たされる

豆狸

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「私は出発が遅くなる。君は先に帰っていてくれ」
「そうですか」

 学園の長期休暇が始まった。
 王都を出る時間を確認するために彼の教室を訪れると、私の婚約者である侯爵子息のカール様はそうおっしゃった。
 少し離れたところで勝ち誇った顔をしてこちらを見ていらっしゃる、子爵令嬢のアグネス様とご一緒にお帰りになるのかしら。

 わかりました、と頷いて帰路に就く。
 侍女や護衛とともに街道を辿って伯爵領へ戻るのだ。
 武勇に優れるカール様や侯爵家の護衛隊と一緒でないのは不安だが、仕方がない。街道では、その地区に面した領地をもつ貴族の騎士団が巡回してくれるのだから危険はないはずだ。

 胸の痛みはどうしようもない。
 愛されないのは、私に魅力がないからだ。
 以前カール様がいないとき、アグネス様に直接そう言われた。

 そもそも彼女が現れる前からカール様には愛されていなかったのだろう。
 ……愛。いつかは愛し愛されるものだと信じて努力してきたつもりだけれど、形だけの婚約者の間には芽生えないものだったのか。
 私は永遠に愛を知ることも恋をすることもないのかしら。

 愛を知らない心が静かに乾いていく。
 いずれ胸にぽっかり穴が開いて、それが普通だと思うようになるのかもしれない。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 王都を出て数日。
 いくつかの宿場町を越えて、順調に実家へと近づいていた。
 今日の太陽が沈むころには伯爵領に着いている。

 馬車の窓の外、街道を囲む森が開かれて、美しい花に覆われている場所があった。
 以前はよく知らなかったけれど、この辺りは子爵家の領地だ。
 私という婚約者のいるカール様に纏わりつくアグネス様のことは好きになれないが、退屈な街道沿いを花で飾るという発想は素晴らしいと思う。

「あら」
「お嬢様、はしたない!」

 腰を浮かせて窓の外を覗き込んだ私は、侍女のユニアに窘められた。

「ごめんなさい。花畑の中に人がいたの。大きくて逞しくて獣のような……」

 ──そして、とても悲しげな人。

 その言葉は胸に仕舞う。
 なんとなく口にしてはいけないような気がしたのだ。いいえ、したくなかった。一瞬で私の心に焼き付いた、あの悲しげな横顔は……
 私の説明を聞いて、ユニアがなにかを思い出したような顔になる。

「辺境伯のハインリヒ様かもしれませんね。二十年ほど前にあの方のお姉様がお亡くなりになられたのが、ちょうどこの辺りでしたから」
「ご病気だったの?」

 私が尋ねると、ユニアは困ったような顔をする。
 彼女は声を潜めた。

「この街道を通っていて野盗に襲われたのです」
「野盗? そのころは子爵家の騎士団の巡回が十分ではなかったのね」

 そう言ったとき、ガタンと馬車が揺れた。
 無数のなにかが風を切って飛ぶ音に包まれる。
 窓の隙間から焦げた匂い……火矢で攻撃されている? そんな莫迦な。ここは街道の上だ。騎士団の巡回だって行われている。白昼堂々野盗が現れるなんてありえない!

 私がなにを思おうと攻撃は続き、乗っていた馬車は速度を増した。
 向かいに座っていたユニアがやって来て、私を抱き締める。
 青ざめた顔で必死の笑みを作って、彼女は言う。

「大丈夫です、お嬢様。きっと大丈夫。すぐに子爵家の騎士団が現れます」
「ええ、そうね」

 震える声で言って微笑んで見せたものの、その可能性は低い気がした。
 いつもはカール様や侯爵家の護衛隊がいたから気にしたこともなかったけれど、考えてみるとこの辺りでは巡回している騎士団を目撃した覚えがないのだ。
 ほかの貴族の領地では、何度かすれ違い顔見知りになった方達もいるのに。

「ヒヒイィィーンッ!」

 大きく馬がいなないて、重いものが落ちる音がした。おそらく御者だ。
 各地の騎士団が巡回するから街道は安全なはずだった。
 わずかな護衛達の悲鳴が聞こえ、馬車が止まる。私を抱き締めて震えているユニアを抱き締め返す。

 やがて、馬車の扉が開いた。

★ ★ ★ ★ ★

 カールが生まれ育った侯爵領から国境へ向かって進むと、広大な辺境伯領に入る。
 今の辺境伯は十八歳のカールよりも十歳年上の二十八歳だが、四十近いと言われても納得してしまうような厳つい顔をしていた。
 国境沿いの森に潜む悪党や野獣との戦いで、その大きく逞しい体は傷だらけなのだという。

 辺境伯家の使用人に案内されて、中庭に向かう。
 どこか覚えのある甘い香りがカールの鼻腔をくすぐった。

(ああ、これは……)

 子爵領の街道沿いに植えられているのと同じ花が、周囲で咲き誇っていた。
 あの場所の花は子爵家の許可を得て、辺境伯が植えたのだと聞いている。
 野盗に襲われて亡くなった姉を偲ぶためだ。

(野盗に……)

 同じように野盗に襲われた婚約者、伯爵令嬢クララの面影がカールの頭をよぎった。
 ちょうどそのとき、

「……クララ……」

 彼が向かっている東屋から、風が声を運んできた。
 獣のような、と称される辺境伯の低く掠れた声は驚くほどに甘く艶めいていた。
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