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後編 間に合ってます。
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翌日、私はナンナとクッキーを作りながらお母様の訪問を待っていました。
「どうしてお父様は王妃様の魔の手にかからなかったのかしら。……お母様の愛が守ってらっしゃったとか?」
「あの無表情ジジイ……じゃなかった侯爵様は下手そうだったからじゃないですか?」
「……やめて。これからお母様と会うのよ?」
実の両親のそういうことは考えたくありません。
私が話したかったのはもっとふわっとした、夢と理想の世界なのです。
一度は婚約を破棄されながら父と結婚したお母様は……家格が違うから、ゴリ押しされたら断れませんよねー。それでもお母様は父に尽くし、私のことも愛してくれていました。これから会うのが楽しみです。
「真面目に言わせていただきますと、商品を渡さなくても代金を払ってくれる莫迦に商品を渡す商人はいません」
父と王妃様に肉体関係はありませんでしたが、彼女に一番貢いでいたのは父でした。
そのせいで侯爵家の屋台骨が揺らぎかけたため、分家と家臣が一丸となって、身分は低いものの裕福な子爵家のお母様との結婚を強行したのだと言います。
「お嬢様もそういうところありますからね」
「ううう……」
「婚約者だったとはいえ、王太子に尽くし過ぎでした。ああ、でも親子だから奥方様と好みが似てらっしゃるのかもしれませんね。あの王太子、絶対無表情ジジイ侯爵様と一緒で貢いでるだけですよ。……どっちも下手そうですし」
「や め な さ い」
それと、じゃなかった、を入れるのが面倒くさくなったからって、人の父親を妙な名称で呼ばないように。
無表情ジジイ侯爵って……物凄く特徴を捉えているじゃないの!
吹き出しそうになるのを抑えながら、熱した竈にクッキー種を入れました。
「お嬢様、クッキーが焼けるまでお茶になさいませんか?」
「ええ。お母様がいらっしゃるころに、ちょうど焼き上がると良いのだけれど」
王家が魅了について学ぶのは自衛のためなので、息子の婚約者にかけるなんていうのはとんでもないことだと昨日の聖術師は言いました。今後王家からなにか問題を持ち込まれたときは、聖術師に連絡すれば対応してくださるそうです。
今日は悩んだ末、教えていただいた基本のクッキーと一緒に、自分で考えたクッキーも焼いています。砕いた木の実を練り込んだものです。
……お母様、喜んでくださるかしら。
★ ★ ★ ★ ★
侯爵令嬢スカーレットが侍女のナンナとクッキーを作り出すより前、王太子アーチボルトは王宮を駆けていた。
父王の執務室の前で止まり、走って乱れた息を整えて扉を叩く。
誰何に答えて部屋に入り、彼は言った。
「男爵令嬢プロースティブラを死刑にしてください!」
父王は溜息を漏らした。
「昨日は彼女との婚約を望んでいたのではなかったか?」
「あ、あんな女と婚約などできませんっ! ついさっき仕事の合間に顔を見せに行ったら、わ、私の寝室で護衛騎士と……」
真っ赤になって震える息子を見た父王は小さな声で、侯爵と同じか、と呟いた。
「そなたの種を孕んでいる可能性がないのなら良かった。死刑にはできぬが、すぐに王宮から追い出そう。……ほら、婚約破棄のことを公表しないで良かっただろう? そなたを愛してくれているのは侯爵令嬢のスカーレット嬢だけだ」
「だけ、ですか?」
父王の顔を見て、アーチボルトは気づいた。
自分が彼に愛されていないことを。
いつからだろう。侯爵令嬢スカーレットを婚約者に選んでくれたときは、息子の未来を案じる父親の愛が確かにあったはずだ。何度注意を受けても男爵令嬢プロースティブラとの付き合いを続けてきたからだろうか。侯爵令嬢との婚約を破棄したからだろうか。破棄を報告したとき、父王の瞳から光が消えたように感じたのを覚えている。
「父上は……亡くなった母上を愛してらっしゃいましたか?」
自分への気持ちを聞くのが怖くて、アーチボルトは母のことを尋ねた。
父王は吐き捨てるような口調で答える。
「愛していたとも。彼女がわしの寝室で護衛騎士と絡み合ってるのを見るまでは、な」
アーチボルトは俯いた。
今にも立っている床が消えて、どこまでも落ちていきそうな気がする。
恋人だったはずの女も父王もアーチボルトのことを愛していない。亡くなった母にも期待はできそうにない。自分はなんのために生まれてきたのか。──いや、
「父上、スカーレットは、侯爵令嬢のスカーレット嬢は今はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」
「彼女は侯爵領で謹慎生活を送っているという話だ。王都からなら馬で半日もかからないだろう」
今日の仕事を取りやめる許可を父王から得て、アーチボルトは愛馬に乗って王宮を飛び出した。
胸の中には十年来の婚約者だった侯爵令嬢スカーレットの笑顔が広がっている。
彼女はアーチボルトが仕事をしている最中に、彼の寝室へ男を引っ張り込んだりしなかった。自分も辛く苦しい王妃教育を受けながら、時間を作ってアーチボルトの執務室へクッキーを差し入れしに来てくれた。自分が聞こうとしなかっただけで、男爵令嬢プロースティブラとの付き合いにだって正しい忠告をしてくれていた。
(そうだ。そうだったんだ。昔からずっと、私を愛して支えてくれていたのはスカーレットだけだったんだ!)
アーチボルトが出て行くと、父王はやつれた顔で溜息をついた。
支えてくれる王妃のいない生活で、彼は疲れ切っていた。
いや、彼だけでなく侯爵も年より老けている。あの女と関わった男達は、みんな人生を棒に振った。寝室にいた護衛騎士ももうこの世にはいない。公式な文書では病死となっている。
周囲の忠告を無視し続けた愚かな息子への最後の愛情で王は願った。
自分にひとかけらの情愛が残っているように、魅了が解けた侯爵令嬢にもわずかでいいから王太子への想いが残っていますように、と。
自分がかけた魅了だ。
父王は、スカーレットの魅了が昨日解けたことに気づいていた。
王家の人間が魅了で民を弄んだりしないよう、魅了について教えられるのは結婚してから、配偶者に止める方法を教えるのと同時だと決められていた。ただ、結婚前に不貞がわかったので、アーチボルトの母にはなにも教えられていなかった。息子の婚約者にかけるというのも本来は許されることではないものの、王は自分と同じ苦しみを彼に味合わせたくなかったのだ。──無駄だったが。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
アーチボルトは街道を駆け、侯爵領へ入った。
王太子で、侯爵令嬢との婚約破棄も公表していないので、侯爵領へは自由に入れる。
小さな村を通り抜け、森へ入る手前の空間に小さな一軒家が見えてきた。王太子の婚約者だった侯爵令嬢が住むような建物には見えない。
(スカーレット!)
しかしアーチボルトにはわかった。
小さな家の煙突から立ち昇る煙が、侯爵令嬢が差し入れしてくれていたクッキーの匂いを運んできているのだ。
あの家には彼女がいる!
(離れていても私のことを思って作っているのだろうか)
早くスカーレットの顔が見たい。
もう二度と彼女を裏切らない、永遠に愛し続けると世界へ誓おう。
アーチボルトは馬から降り、そんな気持ちで家の扉を叩いた。
「はーい!」
懐かしい声が答え、足音が近づいてくる。
使用人が侍女くらいしかいないのか。
やがて扉が開き、満面に笑みを浮かべたスカーレットが現れた。もしかしたら足音と扉を叩く音だけでアーチボルトだと気づいていたのかもしれない。
「あ」
「スカーレット!」
「すいません。これから母が来るので、王太子殿下のお相手をしている暇はないんです。そこに母の馬車を停める予定なので、その馬に乗ってとっとと帰ってください」
アーチボルトの鼻先で扉は閉められた。
残念ながら彼は、一日遅かったのだ。
彼女が彼を愛していたのは昨日までのこと。
「スカーレットっ?」
彼女の名前を呼んだアーチボルトは、少し離れたところにある窓から自分を見つめたスカーレットの侍女が、やっぱり下手そう、と小さく呟いたことなど知る由もない。
「どうしてお父様は王妃様の魔の手にかからなかったのかしら。……お母様の愛が守ってらっしゃったとか?」
「あの無表情ジジイ……じゃなかった侯爵様は下手そうだったからじゃないですか?」
「……やめて。これからお母様と会うのよ?」
実の両親のそういうことは考えたくありません。
私が話したかったのはもっとふわっとした、夢と理想の世界なのです。
一度は婚約を破棄されながら父と結婚したお母様は……家格が違うから、ゴリ押しされたら断れませんよねー。それでもお母様は父に尽くし、私のことも愛してくれていました。これから会うのが楽しみです。
「真面目に言わせていただきますと、商品を渡さなくても代金を払ってくれる莫迦に商品を渡す商人はいません」
父と王妃様に肉体関係はありませんでしたが、彼女に一番貢いでいたのは父でした。
そのせいで侯爵家の屋台骨が揺らぎかけたため、分家と家臣が一丸となって、身分は低いものの裕福な子爵家のお母様との結婚を強行したのだと言います。
「お嬢様もそういうところありますからね」
「ううう……」
「婚約者だったとはいえ、王太子に尽くし過ぎでした。ああ、でも親子だから奥方様と好みが似てらっしゃるのかもしれませんね。あの王太子、絶対無表情ジジイ侯爵様と一緒で貢いでるだけですよ。……どっちも下手そうですし」
「や め な さ い」
それと、じゃなかった、を入れるのが面倒くさくなったからって、人の父親を妙な名称で呼ばないように。
無表情ジジイ侯爵って……物凄く特徴を捉えているじゃないの!
吹き出しそうになるのを抑えながら、熱した竈にクッキー種を入れました。
「お嬢様、クッキーが焼けるまでお茶になさいませんか?」
「ええ。お母様がいらっしゃるころに、ちょうど焼き上がると良いのだけれど」
王家が魅了について学ぶのは自衛のためなので、息子の婚約者にかけるなんていうのはとんでもないことだと昨日の聖術師は言いました。今後王家からなにか問題を持ち込まれたときは、聖術師に連絡すれば対応してくださるそうです。
今日は悩んだ末、教えていただいた基本のクッキーと一緒に、自分で考えたクッキーも焼いています。砕いた木の実を練り込んだものです。
……お母様、喜んでくださるかしら。
★ ★ ★ ★ ★
侯爵令嬢スカーレットが侍女のナンナとクッキーを作り出すより前、王太子アーチボルトは王宮を駆けていた。
父王の執務室の前で止まり、走って乱れた息を整えて扉を叩く。
誰何に答えて部屋に入り、彼は言った。
「男爵令嬢プロースティブラを死刑にしてください!」
父王は溜息を漏らした。
「昨日は彼女との婚約を望んでいたのではなかったか?」
「あ、あんな女と婚約などできませんっ! ついさっき仕事の合間に顔を見せに行ったら、わ、私の寝室で護衛騎士と……」
真っ赤になって震える息子を見た父王は小さな声で、侯爵と同じか、と呟いた。
「そなたの種を孕んでいる可能性がないのなら良かった。死刑にはできぬが、すぐに王宮から追い出そう。……ほら、婚約破棄のことを公表しないで良かっただろう? そなたを愛してくれているのは侯爵令嬢のスカーレット嬢だけだ」
「だけ、ですか?」
父王の顔を見て、アーチボルトは気づいた。
自分が彼に愛されていないことを。
いつからだろう。侯爵令嬢スカーレットを婚約者に選んでくれたときは、息子の未来を案じる父親の愛が確かにあったはずだ。何度注意を受けても男爵令嬢プロースティブラとの付き合いを続けてきたからだろうか。侯爵令嬢との婚約を破棄したからだろうか。破棄を報告したとき、父王の瞳から光が消えたように感じたのを覚えている。
「父上は……亡くなった母上を愛してらっしゃいましたか?」
自分への気持ちを聞くのが怖くて、アーチボルトは母のことを尋ねた。
父王は吐き捨てるような口調で答える。
「愛していたとも。彼女がわしの寝室で護衛騎士と絡み合ってるのを見るまでは、な」
アーチボルトは俯いた。
今にも立っている床が消えて、どこまでも落ちていきそうな気がする。
恋人だったはずの女も父王もアーチボルトのことを愛していない。亡くなった母にも期待はできそうにない。自分はなんのために生まれてきたのか。──いや、
「父上、スカーレットは、侯爵令嬢のスカーレット嬢は今はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」
「彼女は侯爵領で謹慎生活を送っているという話だ。王都からなら馬で半日もかからないだろう」
今日の仕事を取りやめる許可を父王から得て、アーチボルトは愛馬に乗って王宮を飛び出した。
胸の中には十年来の婚約者だった侯爵令嬢スカーレットの笑顔が広がっている。
彼女はアーチボルトが仕事をしている最中に、彼の寝室へ男を引っ張り込んだりしなかった。自分も辛く苦しい王妃教育を受けながら、時間を作ってアーチボルトの執務室へクッキーを差し入れしに来てくれた。自分が聞こうとしなかっただけで、男爵令嬢プロースティブラとの付き合いにだって正しい忠告をしてくれていた。
(そうだ。そうだったんだ。昔からずっと、私を愛して支えてくれていたのはスカーレットだけだったんだ!)
アーチボルトが出て行くと、父王はやつれた顔で溜息をついた。
支えてくれる王妃のいない生活で、彼は疲れ切っていた。
いや、彼だけでなく侯爵も年より老けている。あの女と関わった男達は、みんな人生を棒に振った。寝室にいた護衛騎士ももうこの世にはいない。公式な文書では病死となっている。
周囲の忠告を無視し続けた愚かな息子への最後の愛情で王は願った。
自分にひとかけらの情愛が残っているように、魅了が解けた侯爵令嬢にもわずかでいいから王太子への想いが残っていますように、と。
自分がかけた魅了だ。
父王は、スカーレットの魅了が昨日解けたことに気づいていた。
王家の人間が魅了で民を弄んだりしないよう、魅了について教えられるのは結婚してから、配偶者に止める方法を教えるのと同時だと決められていた。ただ、結婚前に不貞がわかったので、アーチボルトの母にはなにも教えられていなかった。息子の婚約者にかけるというのも本来は許されることではないものの、王は自分と同じ苦しみを彼に味合わせたくなかったのだ。──無駄だったが。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
アーチボルトは街道を駆け、侯爵領へ入った。
王太子で、侯爵令嬢との婚約破棄も公表していないので、侯爵領へは自由に入れる。
小さな村を通り抜け、森へ入る手前の空間に小さな一軒家が見えてきた。王太子の婚約者だった侯爵令嬢が住むような建物には見えない。
(スカーレット!)
しかしアーチボルトにはわかった。
小さな家の煙突から立ち昇る煙が、侯爵令嬢が差し入れしてくれていたクッキーの匂いを運んできているのだ。
あの家には彼女がいる!
(離れていても私のことを思って作っているのだろうか)
早くスカーレットの顔が見たい。
もう二度と彼女を裏切らない、永遠に愛し続けると世界へ誓おう。
アーチボルトは馬から降り、そんな気持ちで家の扉を叩いた。
「はーい!」
懐かしい声が答え、足音が近づいてくる。
使用人が侍女くらいしかいないのか。
やがて扉が開き、満面に笑みを浮かべたスカーレットが現れた。もしかしたら足音と扉を叩く音だけでアーチボルトだと気づいていたのかもしれない。
「あ」
「スカーレット!」
「すいません。これから母が来るので、王太子殿下のお相手をしている暇はないんです。そこに母の馬車を停める予定なので、その馬に乗ってとっとと帰ってください」
アーチボルトの鼻先で扉は閉められた。
残念ながら彼は、一日遅かったのだ。
彼女が彼を愛していたのは昨日までのこと。
「スカーレットっ?」
彼女の名前を呼んだアーチボルトは、少し離れたところにある窓から自分を見つめたスカーレットの侍女が、やっぱり下手そう、と小さく呟いたことなど知る由もない。
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