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第三十六計(後の2) 走為上《にぐるをじょうとなす》… 勝ち目がなかったら、戦わずに全力で逃げて損害を避けます。
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よく見ると、縦書きの文章なのに、最後の呪文だけは横向きに書いてある。
なぜだろうかとつらつら思い出してみるに、昔風の言葉を使ってみたくて、買ったばかりの古語辞典を一生懸命引いて、一文字、一文字と書き写していた覚えがある。
縦書きの手紙を書いた後に、一文字ずつ書き写したとすると……。
右から左へ、こう書いたことになる。
サンナクバタタカウベカラズ カチニコダワルコトナカレ ニグルヲジヤウトナス
算無くば戦うべかず 勝ちにこだわることなかれ 逃ぐるを上となす
「打つ手がないなら戦うな、勝ちにこだわってはいけない……全力で逃走して損害を避けるのが最上の策だ」
現代語訳を声に出してみると、不思議に涙は止まった。
どうしようもないくらい情けない僕自身を乗り越えられないのなら、逃げるしかない。
もう、あの学校に戻ることはないだろう。
それでも、僕自身からは逃げられない。
だったら……。
僕は昔のように学習机に向かって、空白のノートに三十六計のひとつを書き込む。
第二十八計、上屋抽梯。
敵を巧みにそそのかして、逃げられない状況に追い込みます。
この部屋の中に忘れていたものが、すとんと身体の中に飛び込んできたような気がした。
本当にやりたいことを探していたカストも、こんな気持ちで最期を迎えたのだろうか。
もちろん、僕の最大の敵は、僕自身だ。
その自分を、第二十八計に従って追い込むことにする。
両親とお互い向き合って正座して、まっすぐな目をして断言したのだ。
「1年間ください。プロのラノベ作家になります」
母親はものも言わずに、台所へお茶を飲みに行った。
父親も散歩に出かけてしまったが、溜息と共に言い残したのはこのひと言だった。
「絶対にものにしろ。しくじったらこの家の敷居は二度とまたがせん」
いわゆる、「背水の陣」というやつだ。
生き残るためには、捨身の敵中突破しかない。
僕が選んだのは、この物語を完成することだった。
『オタク教師だったのが原因で学校を追放されましたが、異世界ダンジョンで三十六計を使って成り上がります』
ノートの中の読みにくい、ヘタクソな字をパソコンに打ち込んでいく。
中学生のときに何が書きたかったのか、大人になった今、ようやく言葉にすることができるのを感じた。
異世界に召喚されて異世界の危機を救っていくうちに、主人公は自分を認められるようになっていく。
だが、それは、戦う相手を理解することでもあった。
カリヤマコトの憎むべき影の部分だったリカルドを描いていくうちに、気付いたことがあった。
あの軽蔑すべき生徒たちは、カリヤに共感してもらう読者の年齢層にあたる。
だから。
……カリヤマコトが僕だとするなら、生徒たちこそは、自分の影の部分を認められない、昔の僕自身でもあったわけだ。
そう思うと、過去の自分自身に意地悪をしてみたくなった。
「いや、制圧したダンジョンにはモンスターが現れないってのは温いだろ」
もともと作品のノリとして、ご都合主義があったのは幸いだった。
これを口実に、温い設定は反故にされる。
カリヤは目的の層にたどり着く前にモンスターたちと戦わなければならなくなり、作者も余計なストーリー展開を強いられることとなった。
ついでに、ハーレム展開も反故にしてやる。
「甘いんだよ、お姫様も巨乳のエルフも裸のフェアリーも男装の美少女も、みんな自分に惚れてるなんて!」
こうしてカリヤは、メインのヒロインであるディリアからも引き離され、異世界から元の世界へ追放されたのだった。
そして、半年後。
中学生だった自分の亡霊ともいえる追放系異世界転生ファンタジーは完成した。
人生をしくじった30代の男の怨念に生命を吹き込まれて。
「……やっちまった」
こんなもの、絶対にウケるわけがない。
調子に乗って読者にケンカを売ってしまったことを半ば後悔しながらも、新人賞には応募する。
ネット小説応募の送信ボタンを押して、僕はため息をついた。
「終わった……僕の人生」
ところが、半年後。
自宅にかかってきた電話で、僕は見ず知らずの女性から問い詰められた。
「どういうおつもりなんですか? 辞退なさるんですか?」
「え、別に応募なんか……」
てっきり両親のどっちかが無断で求人に応じたのだと思っていたら、受話器が凄まじい勢いで怒鳴りつけてくる。
「受賞のメール送ったんですけど! グランプリじゃないとダメってことですか? とりあえず、書籍化はできるんですけど!」
僕は直立不動で即答した。
「します!」
僕は言われるままに、翌日、長距離バスと急行と新幹線を乗り継いで、本社の編集部へ走った。
通された部屋で待っていたのは、巨乳の美人編集長だった。
どこかで会ったことがあるような気がして、その顔をじっと見つめていると、彼女は優しく微笑んだ。
「それ以上はセクハラで訴えますよ? あんまりじろじろ眺めたら……」
「いえ、そんなつもりは」
16歳やそこらの少年のように縮こまる。
編集長はからかい半分に、僕をたしなめた。
「書籍化しちゃえばこっちのもん! ……なんて思ってたら、すぐ中年ニートに転落だからね」
その口調は、どこかターニアに似ていた。
書店に初版が平積みされた頃、実家に、聞き覚えのある声で電話がかかってきた。
「悪いけど仮屋さん、来週から、常勤でお願いできないでしょうか」
半年くらい前、どこぞの校長から、微妙に似てはいても真逆の言葉を直に聞かされたような覚えがある。
気が付けば、もう年度末だった。
どこの学校も昨今は、生徒だけでなく、教員も足りないらしい。
僕は一応、ライトノベル作家だから、生徒募集の看板にはもってこいだということだろう。
返事は、ひとつしかない。
「地元で採用、決まっちゃいました」
高校の図書館で働くことになったのだ。
司書ではないが、扱う蔵書量は県下最大の巨大図書館だ。
面接のとき、リカルドみたいにこすっからい目した校長は、慇懃無礼に、そして恩着せがましく言ったものだ。
「昼休みや放課後には、ライトノベルを書いてみたいという未来の君もやってくる。ぜひ、ご指導願いたい。経験ある卒業生として、本校の膨大な資料を自由に使ってくれたまえ」
その日のうちに、僕は挨拶のために図書館へ顔を出してみた。
昔は重い木の扉を開けると、古い棚に色あせて擦り切れた本がずらっと並んでいるのが見えたものだった。
独特の重低音を感じる空間が、どこまでも続いているように感じた覚えがある。
だが、ガラス張りの自動ドアが開いたところに足を踏み入れてみると、そこは真っ白な机とモスグリーンの椅子が並んだ、瀟洒なカフェのような空間だった。
現代アートのモノリスのように配置された漆黒の本棚の向こうから現れたのは、ハードカバーの本を抱えた若い司書だった。
すらっとした美青年と見まがう、ショートカットの美女だった。
カストがもう少し成長して、マニッシュなパンツスタイルになったら、こんな感じだろうか。
ただ、違うのは眩しいまでの微笑だった。
「よろしく頼むよ! 新人さん!」
作家か職員か、どっちのことか分からないが。
カウンターの向こうで書庫整理の現場を仕切っていたのは、逞しい司書だった。
僕が挨拶しても、「うむ」としか言わない。
オズワルに似て、無口な男だった。
そこへ、慌てて駆けこんできた者がいる。
「遅くなりました! 図書委員長です!」
いかにも本が大好きという感じの、眼鏡をかけた可愛らしい女子生徒だった。
僕を見るなり、さっきの美女に何か囁く。
カストに似た司書は本棚の陰に隠れたかと思うと、文庫本を渡して何か耳打ちした。
女子生徒は意を決したように、カウンターの前にやってくる。
「この本、お願いします! 仮屋真琴さん!」
書庫整理中のはずなのだが、オズワルに似た司書は、僕の手元にあるバーコードリーダーに向けて顎をしゃくる。
僕が新しい職場で貸し出した本は、もちろん、僕の出世作だ。
新品の本を制服の胸に抱いてはしゃぐ笑顔もまた、もちろん、ディリアに似ていた。
なぜ、そう言い切れるのかというと。
……信じていれば、やって来る人はちゃんといるから。
故郷の山河を吹き渡る風の中で、ターニアの声は今日も、僕に優しく囁いている。
(完)
なぜだろうかとつらつら思い出してみるに、昔風の言葉を使ってみたくて、買ったばかりの古語辞典を一生懸命引いて、一文字、一文字と書き写していた覚えがある。
縦書きの手紙を書いた後に、一文字ずつ書き写したとすると……。
右から左へ、こう書いたことになる。
サンナクバタタカウベカラズ カチニコダワルコトナカレ ニグルヲジヤウトナス
算無くば戦うべかず 勝ちにこだわることなかれ 逃ぐるを上となす
「打つ手がないなら戦うな、勝ちにこだわってはいけない……全力で逃走して損害を避けるのが最上の策だ」
現代語訳を声に出してみると、不思議に涙は止まった。
どうしようもないくらい情けない僕自身を乗り越えられないのなら、逃げるしかない。
もう、あの学校に戻ることはないだろう。
それでも、僕自身からは逃げられない。
だったら……。
僕は昔のように学習机に向かって、空白のノートに三十六計のひとつを書き込む。
第二十八計、上屋抽梯。
敵を巧みにそそのかして、逃げられない状況に追い込みます。
この部屋の中に忘れていたものが、すとんと身体の中に飛び込んできたような気がした。
本当にやりたいことを探していたカストも、こんな気持ちで最期を迎えたのだろうか。
もちろん、僕の最大の敵は、僕自身だ。
その自分を、第二十八計に従って追い込むことにする。
両親とお互い向き合って正座して、まっすぐな目をして断言したのだ。
「1年間ください。プロのラノベ作家になります」
母親はものも言わずに、台所へお茶を飲みに行った。
父親も散歩に出かけてしまったが、溜息と共に言い残したのはこのひと言だった。
「絶対にものにしろ。しくじったらこの家の敷居は二度とまたがせん」
いわゆる、「背水の陣」というやつだ。
生き残るためには、捨身の敵中突破しかない。
僕が選んだのは、この物語を完成することだった。
『オタク教師だったのが原因で学校を追放されましたが、異世界ダンジョンで三十六計を使って成り上がります』
ノートの中の読みにくい、ヘタクソな字をパソコンに打ち込んでいく。
中学生のときに何が書きたかったのか、大人になった今、ようやく言葉にすることができるのを感じた。
異世界に召喚されて異世界の危機を救っていくうちに、主人公は自分を認められるようになっていく。
だが、それは、戦う相手を理解することでもあった。
カリヤマコトの憎むべき影の部分だったリカルドを描いていくうちに、気付いたことがあった。
あの軽蔑すべき生徒たちは、カリヤに共感してもらう読者の年齢層にあたる。
だから。
……カリヤマコトが僕だとするなら、生徒たちこそは、自分の影の部分を認められない、昔の僕自身でもあったわけだ。
そう思うと、過去の自分自身に意地悪をしてみたくなった。
「いや、制圧したダンジョンにはモンスターが現れないってのは温いだろ」
もともと作品のノリとして、ご都合主義があったのは幸いだった。
これを口実に、温い設定は反故にされる。
カリヤは目的の層にたどり着く前にモンスターたちと戦わなければならなくなり、作者も余計なストーリー展開を強いられることとなった。
ついでに、ハーレム展開も反故にしてやる。
「甘いんだよ、お姫様も巨乳のエルフも裸のフェアリーも男装の美少女も、みんな自分に惚れてるなんて!」
こうしてカリヤは、メインのヒロインであるディリアからも引き離され、異世界から元の世界へ追放されたのだった。
そして、半年後。
中学生だった自分の亡霊ともいえる追放系異世界転生ファンタジーは完成した。
人生をしくじった30代の男の怨念に生命を吹き込まれて。
「……やっちまった」
こんなもの、絶対にウケるわけがない。
調子に乗って読者にケンカを売ってしまったことを半ば後悔しながらも、新人賞には応募する。
ネット小説応募の送信ボタンを押して、僕はため息をついた。
「終わった……僕の人生」
ところが、半年後。
自宅にかかってきた電話で、僕は見ず知らずの女性から問い詰められた。
「どういうおつもりなんですか? 辞退なさるんですか?」
「え、別に応募なんか……」
てっきり両親のどっちかが無断で求人に応じたのだと思っていたら、受話器が凄まじい勢いで怒鳴りつけてくる。
「受賞のメール送ったんですけど! グランプリじゃないとダメってことですか? とりあえず、書籍化はできるんですけど!」
僕は直立不動で即答した。
「します!」
僕は言われるままに、翌日、長距離バスと急行と新幹線を乗り継いで、本社の編集部へ走った。
通された部屋で待っていたのは、巨乳の美人編集長だった。
どこかで会ったことがあるような気がして、その顔をじっと見つめていると、彼女は優しく微笑んだ。
「それ以上はセクハラで訴えますよ? あんまりじろじろ眺めたら……」
「いえ、そんなつもりは」
16歳やそこらの少年のように縮こまる。
編集長はからかい半分に、僕をたしなめた。
「書籍化しちゃえばこっちのもん! ……なんて思ってたら、すぐ中年ニートに転落だからね」
その口調は、どこかターニアに似ていた。
書店に初版が平積みされた頃、実家に、聞き覚えのある声で電話がかかってきた。
「悪いけど仮屋さん、来週から、常勤でお願いできないでしょうか」
半年くらい前、どこぞの校長から、微妙に似てはいても真逆の言葉を直に聞かされたような覚えがある。
気が付けば、もう年度末だった。
どこの学校も昨今は、生徒だけでなく、教員も足りないらしい。
僕は一応、ライトノベル作家だから、生徒募集の看板にはもってこいだということだろう。
返事は、ひとつしかない。
「地元で採用、決まっちゃいました」
高校の図書館で働くことになったのだ。
司書ではないが、扱う蔵書量は県下最大の巨大図書館だ。
面接のとき、リカルドみたいにこすっからい目した校長は、慇懃無礼に、そして恩着せがましく言ったものだ。
「昼休みや放課後には、ライトノベルを書いてみたいという未来の君もやってくる。ぜひ、ご指導願いたい。経験ある卒業生として、本校の膨大な資料を自由に使ってくれたまえ」
その日のうちに、僕は挨拶のために図書館へ顔を出してみた。
昔は重い木の扉を開けると、古い棚に色あせて擦り切れた本がずらっと並んでいるのが見えたものだった。
独特の重低音を感じる空間が、どこまでも続いているように感じた覚えがある。
だが、ガラス張りの自動ドアが開いたところに足を踏み入れてみると、そこは真っ白な机とモスグリーンの椅子が並んだ、瀟洒なカフェのような空間だった。
現代アートのモノリスのように配置された漆黒の本棚の向こうから現れたのは、ハードカバーの本を抱えた若い司書だった。
すらっとした美青年と見まがう、ショートカットの美女だった。
カストがもう少し成長して、マニッシュなパンツスタイルになったら、こんな感じだろうか。
ただ、違うのは眩しいまでの微笑だった。
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作家か職員か、どっちのことか分からないが。
カウンターの向こうで書庫整理の現場を仕切っていたのは、逞しい司書だった。
僕が挨拶しても、「うむ」としか言わない。
オズワルに似て、無口な男だった。
そこへ、慌てて駆けこんできた者がいる。
「遅くなりました! 図書委員長です!」
いかにも本が大好きという感じの、眼鏡をかけた可愛らしい女子生徒だった。
僕を見るなり、さっきの美女に何か囁く。
カストに似た司書は本棚の陰に隠れたかと思うと、文庫本を渡して何か耳打ちした。
女子生徒は意を決したように、カウンターの前にやってくる。
「この本、お願いします! 仮屋真琴さん!」
書庫整理中のはずなのだが、オズワルに似た司書は、僕の手元にあるバーコードリーダーに向けて顎をしゃくる。
僕が新しい職場で貸し出した本は、もちろん、僕の出世作だ。
新品の本を制服の胸に抱いてはしゃぐ笑顔もまた、もちろん、ディリアに似ていた。
なぜ、そう言い切れるのかというと。
……信じていれば、やって来る人はちゃんといるから。
故郷の山河を吹き渡る風の中で、ターニアの声は今日も、僕に優しく囁いている。
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