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第2幕 1場 アニキ・失恋引きこもり

シーン1 兄に晴れ舞台が回ってくること(前編)

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 瑞希が冬彦の想い人、「葛城亜矢」について鳩摩羅衆の少年忍者から警告を受けたその日の夕食の後。
「ロミオとジュリエットじゃないんだ……!」
 冬彦の持って帰った台本をしげしげと見て、一葉は感嘆の声を挙げた。
  台本の表紙にでかでかと書いてある題名は、『走れ! ジョン!』。
 瑞希は、兄の顔と台本を交互に見つめて、唖然とした。
「て、ことは、お兄ちゃん、主役?」
「……の、代役……」
 ぼそぼそと補足した冬彦は肩をすくめて笑ってみせた。
 台本に目を通して、一葉は満足げに微笑んだ。
「……ロミオへの手紙を手にしたジョン修道士は案内を頼んだ兄弟子になかなか会えず、会えても疫病の疑いで町から出られない。」
 冬彦は、はにかんで視線を美しい母から反らす。
 ふふ、と声を洩らして、一葉は台本をさらに要約してみせる。
「ジョン修道士は兄弟子と無意味な漫才を繰り返し、その背後でロミオとジュリエットの死は確実に迫ってくる……。ジョン修道士を主人公にしたドタバタ喜劇ってとこね」
 ちらりと自分を見やる息子の気持ちを察したのか、最後に講評が付け加えられる。
「トム・ストッパードの『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』みたい。面白いわ。頑張ってね」
「何その長い題名……」
 一葉の励ましに、瑞希は茶々を入れた。
 この長い題名は、もともとシェイクスピア『ハムレット』のセリフである。
 ローゼンクランツとギルデンスターン。
 デンマークの王子ハムレットの学友として登場するが、本筋にほとんど関わらないうちに出番がなくなる。
 そればかりか、題名となっているこのセリフひとつで死んだことにされてしまうという、かなりどうでもいい人物である。
 だが一葉はそこまで説明せず、「まあ、勉強しなさい」の一言で流してしまった。
 励まされたにもかかわらず、冬彦は、照れて小さくなる。
「まあ、代役だし、ぼつぼつと」
 そうは言うが、期待されて、まんざらでもなさそうだった。

 実際、冬彦が入部当初から全く努力していなかったというと、そんなことは決してない。
 結果が出なかったのは、ただ単に本人の適性の問題と部活のシステムからである。
 まず、仮入部の時から冬彦のテンションは高かった。
 ことの真相が分かった今から察するに、入った部活に「きれいなお姉さん」がいたからである。
 陸上部と放送部と教育実習生の経験からすれば、一葉や瑞希が気づいてもよい。
 しかし、諜報活動では各国公安当局や情報機関をもしのぐ吉祥蓮とはいえ、人の子である。
 もうあんな思いはしたくないと思いが、カンを狂わせた。
 弁当は忘れても早起きをするようになった時点で、多少はまともになったと誤解してしまったのであった。
 なおかつ。
 年度始めの頑張りときたら、まるで春を迎えて咲き誇る花のようであった。

 まず、冬彦が取り組んだのは発声練習である。
 どこの学校の演劇部にも、伝統の発声練習システムがある。
 一般的なのは、北原白秋の詩『五十音』である。
  
 ――水馬(あめんぼ)赤いな。ア・イ・ウ・エ・オ。浮藻(うきも)に子蝦(こえび)もおよいでる――。

 さらに倫堂学園では、オリジナルの『50音』がある。
 
 ――アッと驚くアイウエオ イイエと打ち消すイウエオア ウウンと唸ってウエオアイ――。

 全部やっているときりがないが、とにかくこの調子で50音全部やるのである。
 ところが冬彦の不器用さは常軌を逸しており、声も出なければ全員発声のリズムに合わせることもできなかった。
 練習が始まった初日から赤恥をかいた冬彦だったが、そこは亜矢先輩の手前、もう逃げるわけにはいかなかったようである。
 早く上達したいと部長に頼み込み、部室にあった発声の教本を借りてきた。
 その日は帰るなり部屋に籠って、寝食も惜しんで練習に励んだ。
 さすがに近所迷惑になるような大声は出さなかったが、一葉と瑞希の眠りはいささか妨げられた。
 そこは吉祥蓮、睡眠時間は最低限に抑えられるが、それをこらえるかどうかは別問題である。
「お兄ちゃん! 何やってんのよ!」
「ああ、ごめん。もう寝るよ」
「もう寝るよもう寝るよって、これで何回目? 何時だと思ってるのよ!」
 冬彦の部屋の前には瑞希が何度となく抗議に訪れたが、部屋の中に踏み込むことはしなかった。
 兄妹は互いの部屋に入らない、という一葉の言いつけが、冬彦はもちろん、瑞希にも堅く守られていたからである。
 本人たちは意識していなかったが、これは「血がつながっていない」と二人に一葉が当面の配慮をしたものであっただろう。
 仕方なく、瑞希はドアの外で兄を非難するしかなかったのである。
 今度は冬彦が、近所迷惑を気にする。
「瑞希、ちょっと声大きい」
「お兄ちゃんがそれ言う?」 
 瑞希は憤然と自室に戻り、布団の中にすくんで羊を数えることになったわけだが……。
 そこまでする冬彦の努力はどうなったか。
 数々の教本に載せられた発声練習の例文は一晩で寸分たがわず記憶されていた。
 しかし、疲れ切った身体で迎えた放課後に声が出ようはずはなく、最初の『五十音』で目を回して部長を大いに心配させたのであった。
 北原白秋も、あの世で大いに不本意な思いをしたことであろう。

 面倒見のいい部長はこんな具合で、翌年の夏に行われる(高校演劇大会は年をまたぐので)全国大会を目指す日々を、舞台監督としての仕事と、熱心な冬彦の指導に費やすこととなったのである。
 最初に彼が試みたのは、入部してひと月ぐらい経ってもなかなか声の出ない冬彦の、呼吸の矯正であった。
 部活の休憩時間に冬彦を稽古場の外に呼び出して、太極拳の簡単な型をやってみせる。
 その流れるような動きに、冬彦は黒縁眼鏡の奥の目を丸くする。
「一緒にやってみろ」
 はい、と元気よく答えた冬彦と共に、部長はさっきよりもゆっくりと型を繰り返す。
 それが終わったところで、部長は自分よりも背の高い冬彦の胸に顔を埋めた。
 冬彦はきょとんと、その頭頂部を見下ろす。
「先輩……」
「すごい、すごいよお前……」
 一度見ただけで、冬彦は太極拳の微妙な動きを全て再現してみせたのである。
 そこへやってきたのは、長身の美少年を伴った葛城亜矢である。
 拳をで口を隠してキャッと叫んだのは亜矢である。
 長身の少年は、愕然と部長を見つめていた。
 部長は我に返って慌てふためく。
「いや三好、これはそういう意味じゃなくて……」
「えっとそいつ確か……」
 冬彦の名前が出てこないのも仕方がない。
 長身の少年は三好といって、部の中でも目立つ存在だった。
 だが、冬彦は亜矢しか見ていなかったからであろう、彼と関わることはほとんどなかったのである。
「いや、聞いてくれ、実は菅藤がな」 
 皆まで聞かないうちに、亜矢がウソ泣きをしてみせる。
「ひどいわ、私、部長を信じてたのに!」
「お前、新入生の前でそういう……」
「新入部員の、しかも男の子にそんなことするなんて」
 そこで三好も調子に乗る。
「何言ってんだ葛城、これが女の子だったら退学ものだぞ」
「お前らそこまで俺を犯罪者にしたいか」
 そこへ部員たちが何だ何だとやってくる。
 三好も亜矢もそこは心得たもので、部長はともかく1年生を晒しものにしたりはしない。
「はい、部長から何かご報告があるんですって」
「葛城お前は……」
 ぶつくさ言いながら、部長は冬彦を立てようと、さっき教えた太極拳の型を一緒にやって見せる。
 一同から歓声が上がったが、中には突っ込む者もいた。
「部長、確かそれってさ、腹式呼吸の練習も含むよな」
「ああ」
「そいつ息してない、たぶん」
 見れば、ビデオの3倍スローモーションくらいゆっくりとした長い長い型を終えた冬彦の顔は、息をとめていたせいで真っ赤になっていた。

 やがて、冬彦の特質は部長の前で明らかになってきた。
 真面目で几帳面で、物覚えがよい。
 自分が覚えたことは、正確に人に伝えられる。
 問題は、余裕と表現力に欠けることであった。
 例えば、腹式呼吸の仕組みを図に描いて教えたことがある。
「肺の膨張で空気を吸うことができる。収縮で吐くことができる。これをコントロールしているのが、横隔膜だ」
 肺の絵の下に、緩い波線を引く。
「これが下がると肺が広がって中の気圧が下がり、空気が吸い込まれる。上がると、空気が吐き出される」
 やってみろ、と言われた冬彦は深呼吸してみるが、漢方で丹田と呼ばれる下腹部がどうしても動かなかった。
 ところが数日後、腹式呼吸ができなかった他の部員がクリアに発声できるようになり、喜んで事情を聞いてみると「菅藤に教わった」という答えが返ってきたのだった。
 それでいて本人は、からっきし声が出ないのである。
 また、表現練習をしたこともある。
 冬彦には何を読ませても、無理に感情を込めようとしてリキむので、わざとらしく聞こえる。
 そこで部長は言った。
「上手くやらなくていい」
 すると、わざとらしくはなくなったが、今度は棒読みになった。
 仕方なく、「声の5つの要素」を、課題文の文節ごとに書き込ませてみた。

  1、「大きい」「小さい」
  2、「速い」「遅い」
  3、「高い」「低い」
  4、「間をあける」「間を詰める」
  5、「いつも通りの声で」「顔を歪めて声色を使う」

 部長はこれら1つ1つを指示して記入させ、自宅で練習させた。
 再び母と妹は不眠に悩まされ、妹の瑞希は夜中に何度となく奇妙な声色に抗議することになったが、その結果はどうだったか。
 冬彦の読みを顧問に聞いてもらったところ、コメントはこうだった。
「確かに、棒読みではないけどな」
 感情表現もへったくれもない怪しげな抑揚に、部長も頭を抱えた。
 そこで顧問は、助け舟を出した。
「ブレヒトの劇だったらいいんだけどな」
 ベルトルト・ブレヒト。
 代表作は『三文オペラ』『肝っ玉おっ母とその子供たち』など。
 粗悪な舞台装置と間に合わせの衣装や小道具、不自然なセリフ回しによる違和感で、観客の想像力をかきたてる手法が特徴である。
 これを知ったことが、部長に文化祭台本のヒントを与えたのだった。

 では、冬彦の不器用さは放置されてしまったのかというと、そうでもない。
 奇妙な事件が、ブレイクスルーを招いたのである。
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