酒樽心中

兵藤晴佳

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小駄良才平

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 次の朝、玄十郎は長屋の戸を叩くなづきの声で目を覚ました。
「ちょっと、夕べはどうしたの」
 戸を開けると、いささか寝不足気味の赤い目をしたなづきが立っている。
 玄十郎も聞きたいことがあったので、なづきを招き入れた。
 二人で板間の上がり口に腰掛けるが、戸は開けたままにしておく。年頃の若い男女が朝から戸を閉めきった部屋の中では、嫁入り前の娘に妙な噂が立つ。
 敷居を跨いだなづきが口を開く前に、玄十郎は自分の聞きたいことを真っ先に問いただした。
「小駄良サイベって誰だ?」
「え?」
 なづきは、幼い頃から変わらない澄んだ目をぱちくりさせる。
 玄十郎はなおも畳み掛ける。 
「小駄良サイベって誰だ?」
 ちょっと考えて、なづきはむっとした顔で玄十郎をにらみつけた。
 玄十郎は怯まない。
 「小駄良サイベって……」
「あたしの話も聞いてよ!」
 頭から叩きつけるように切り返すなづきに対し、玄十郎は一歩も退かない。
 「それは後で聞くよ」
 「嘘!」
 その通りである。本当は聞く気などない。話すわけにはいかないのだ。
 だが、察しのいいなづきがそんな言い訳など一切聞かないことを玄十郎はよく知っていた。
「教えてくれたらちゃんと話すから!」
 なづきは腕組みをして、冷ややかに尋ねる。
「あの呑んだくれの事なんか聞いてどうすんのよ」
「呑んだくれ?」
 引っかかった、と玄十郎は思った。押し続ければ、むきになって必要なことを自分から話しだすだろうと踏んだのが、思惑通りに当たった。
「小駄良から毎晩呑みに来るお百姓よ」
「知ってるのか?」
「知ってるも何も、うちの常連よ」
 何やら不機嫌に答えてはいるが、別に玄十郎に腹を立てているわけではないようである。
「ほんとはサイベエっていうらしいんだけど」
 玄十郎は頭の中で「才兵衛」という字を思い浮かべた。
「みんなサイベって呼ぶわ」
 玄十郎は、頭に浮かんでいる「才兵衛」という字を、「才平」に置き換えた。
「そんなにひどく呑むのか?」
「一斗や二斗は軽く。それでも足りなくて、酒樽担いで帰るのよ」
 背中の樽はそれだったか、と玄十郎は納得した。
 そこでふと、気になることがあって尋ねてみる。
「お百姓がそんな酒代をどうやって払うんだい?」
 なづきは、こめかみのあたりをぽりぽり掻きながら、溜息混じりに答えた、
「あいつね、酔っ払うと、店の中で歌うのよ、それも大声で。うるさいったらありゃしない。だけどね、それがまたいい声なのよ。街中に聞こえるらしくてさ、人が寄ってくるのよね。で、店は大繁盛。だから店のオヤジもさ、酒代はタダにしてるのよね」
 なづきはそこで首をかしげた。
「知らないの? お城の殿様も、『小駄良才平にするぞ』って宴会始める話」
「さあ……」
 玄十郎は本当に聞いたことがない。
 ずっと母親の看病や内職に明け暮れ、夜は灯の油が惜しいので早く寝てしまっていた。夜中に歌声が聞こえてくるとしても、知っているはずがない。
 だが、今、この話が出たのはいい機会である。
 玄十郎は、なづきに向かって身を乗り出した。
 なづきはうろたえる。
「な、何よ、急に……」
「今夜、そちらに行こう」
「そちら、って……」
 なづきは急におろおろし始めた。
「店だよ」
「ええ?」
 驚きに目を見開くなづきに、玄十郎は言葉を続けた。
「これまでろくに飲んだこともない酒だ。一口ぐらい嗜んでも、あの世の母は許してくれるだろう」
 玄十郎は矢庭に立ち上がった。
「ちょっと酒代を工面してこなくては。すまないが、家を空ける」
「あ、ああ……」
 なづきもいそいそと立ち上がった。
「それじゃあ、また」
「え、ええ……」
 まだへどもどしているなづきを追い出すかのように、玄十郎はせかせかと身づくろいを始めた。
 なづきは慌てて、長屋の戸を閉めて出て行った。
 その足音が遠ざかっていくのを確かめて、玄十郎は板間に胡坐をかいて考え始めた。
 小駄良才平から、どうやってあの技を学べばよいか……。

 その頃である。
 人通りの多い、賑やかな街中で、天秤棒をかついだ塩鯖売りと、笠を目深にかぶった長身の侍が擦れ違った。
 天秤棒の両端には、北国から運ばれてきた塩鯖が笊に入れて吊るしてある。
 笠の奥では、妙に鋭い目が光を放つ。
 二人は小声で、不思議な言葉を交わした。
 誰もが忙しく、その言葉が何を意味するかなどいちいち確かめはしない。
 長身の侍が問う。
「逃げてはいないな」
 塩鯖売りが答える。
「居ります」
 侍は、一言残して離れていった。
「分からぬように殺れ」
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